「ときの忘れものの本棚から」第14回
「難波田史男:宇宙ステーションへの旅」(3)
中尾美穂
絵を描く前に、もう芸術家として生きようと決心を固めてしまう若者が昔も今もどれだけいるだろうか。
卒業間際の猛勉強を経て、早稲田高等学院での高校生活を無事に終えた難波田史男が、画家になるべく文化学院美術科へ進学を決めたのを難波田史男著『終着駅は宇宙ステーション』(幻戯書房、2008年)で読むたび、その覚悟と不安の入り混じった船出の心境が急に大人びて誇らしげに感じられる。
「おそらく、これから、芸術家となりうるだろうと思って、進むのだ。今の私にとって、私の心は芸術家になってはおらないが、その予想をして進むのである。私には、どれも出来るようにも思え、またすべてをやってみたい。が、まだどれも出来ないようにも思える、不安な状態なのである」(同書、1960年3月5日の日記)
そして新入生となった翌月には、これまでの探求欲を一心に美術に振り向けていく。
「今日の油絵は、両親から、良く出来た。ゴッホ的だと言われた。自分では、ただかいただけなのだが。(中略)その絵の中に、精神、神経、体力、意気、意力が生き残っているのか、わからない。絵は手がかくのではないのか。精神をもり込もうとしているのか。そう思ってかいたのではないように思えるが」(同書、1960年4月4日の日記)
「彼女らは私よりすぐれた生命を持ち、すぐれた人間であるのか、私以上の人間であるのか。彼女らは絵が上手だ。私は下手だ。上手とは、下手とは、絵とは、何なのか」(同書、4月5日の日記)
両親の誉め言葉や他学生の力量との差にも自問する日々。誰しも年少時や学生時代、こうした些細な体験から絵に親しんだり離れたりするものだが、すでに画家を目指している史男にとっては、そのどれもが解明すべき命題である。本格的に学びはじめてから日が浅いにもかかわらず、不確かな現代美術の核心に踏み込もうとするのを意外にも思うし、のちの特異な作品世界を考えると当然にも思える。
ちなみに同書は資料を読み込んだ編集者の田口博氏と望月正俊氏によって、ところどころ示唆に富む注釈が添えられている。4月5日の日記にも、抽象画家の父、龍起が「今年9歳になる男の子の蝉の絵」に「一種完璧な美」があると記した1956年の著述を引用している。父親の鑑賞眼から得るものは大きかったに違いない。史男も早く自身の指針を確立しようとしてか、駆り立てられるように知識を吸収し、思索に没頭していく。
「ぼくは、きらきら輝く、それでいて力強く、そして、かわいらしいものを描きたい。僕の師は、近くに彼の人、だが彼を作品上は、うけつぐな。なんとなればそれは、あまりにずるい。ぼくの自主性はなくなる。彼を一人の友とすることだ。ぼくの先生は、クレー、ミロ、ルソー、マチス、ゴッホ。そういった人々だ。また、ベートーベン、ドフトエフスキー、フィリップ、ロラン、ゲーテ、ゾラ、etc」(同書、1961年1月26日の日記)
日記の形は文化学院1年の1961年3月で途切れている。それに代わるのが、日付のない創作ノートやクロッキー帖だ。史男はここで現代の都市社会に生きる自分が何を描くべきかを論じ、ロボットのような生物や建造物の小さなドローイングから大作のためのエスキースまで、思いつくまま紙面に展開するようになる。
史男のノート 早稲田大学會津八一記念博物館蔵(難波田武男氏寄贈)
「ぼくは最高の人間に属したい。ぼくは最高の人間の芸術に加わっている。描かねばならぬものがある。この迷い。この悪と、そして善、過去を持った男。ぼくは人間の運命、一人の孤独の男の一生をダイナミックに描いてみたい。運命の大スペクタクルを。土竜(モグラ)の道、運命の大スペクタクル」(前掲書、1961年、二十歳のころのノート)
「ぼくは芸術家にアンガジュマン(参加)する。広い意味での芸術家であり、絵画家ではない。文学に音楽に歴史に哲学、を主体に、そして政治、社会学、地球。ぼくは作品を通して社会に出てゆく。それは性格なのだ」(前掲書、やはり文化学院時代と思われる年代不明のノート)
文化学院では村井正誠らに師事し、交友の様子も読みとれるが、記述の少なさからみて学生生活にさほど関心を持てなかったようだ。このころから何メートルもの大作を構想し、人知れず創作に打ち込む。やがて作品が両親の目に触れ、龍起のもとを訪れた美術評論家の東野芳明からこれほど描けるのだからもう通学の必要はないでしょうとの助言を受け、2年生の3月に文化学院を辞める。ノートに書かれた言葉「土竜の道」は1963年完成の全長12メートル近い水彩作品に結実した(《モグラの道》11点組、世田谷美術館蔵)。龍起の1963年の日記には、父親自ら大作を展示できる広さの画廊をあたった様子が記されている。
念願かなって初個展が開かれたのは1967年、東京・新橋の第七画廊でのこと。史男は早稲田大学第一文学部美術専攻科に在学中であった。あらためて勉学の必要を感じた彼は、今度は進んで受験勉強を始めて1965年の春に入学したのである。案内状に同作の一部が掲載されている。評論家岡本謙次郎の推薦文どおりユーモアのにじみ出る作品群、その要素は遺品や関係者の言葉をもとに今日まで多角的に伝えられているが、それでも依然として不思議な画面なのである。
1967年、第七画廊の個展案内状 早稲田大学會津八一記念博物館蔵(難波田武男氏寄贈)
ところでデビュー前に史男が銅版画の講習を受けたり、イラストレーターへの転向を勧められたのには、美術界の動向が背景にあって興味深い。難波田家訪問の折にも、史男の弟である武男氏から当時は真鍋博ら新進イラストレーターが活躍する時代であったと聞いた。そうしてみると史男の線画にはどこをとっても、どこまでたどっても表情の異なる楽しさや、新鮮な驚きがある。1962年には無署名ながら『朝日ジャーナル』に小さなカットが採用され、その後も複数の印刷物でカットを担当している。
珍しい木版画の版木各種 難波田家所蔵
金子光晴らが寄稿した詩の同人誌『蛾』のカット用の版 難波田家所蔵
『蛾』1967年11月-翌1968年1月号(表紙とカットは難波田史男)
早稲田大学會津八一記念博物館蔵(難波田武男氏寄贈)

『早稲田学報』用と思われるカットの原画 難波田家所蔵
とくに『早稲田学報』のカットの数々は、これだけでも一冊の絵本になりそうな可愛らしさである。大学紛争の激化に悩むこともあったが、有意義な学生生活の片鱗もうかがえて見飽きない。
*掲載写真は筆者撮影。
*掲載写真の利用については遺族および所蔵先等の許諾が必要です。あらかじめご了承ください。
(なかお みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」は奇数月の19日の更新予定なのですが、今回は都合で本日の掲載となりました。お詫びします。
●ただいまときの忘れものは夏季休廊中です(8月14日~22日)。お問い合わせ、ご注文への返信は8月23日以降、順次対応させていただきます。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
「難波田史男:宇宙ステーションへの旅」(3)
中尾美穂
絵を描く前に、もう芸術家として生きようと決心を固めてしまう若者が昔も今もどれだけいるだろうか。
卒業間際の猛勉強を経て、早稲田高等学院での高校生活を無事に終えた難波田史男が、画家になるべく文化学院美術科へ進学を決めたのを難波田史男著『終着駅は宇宙ステーション』(幻戯書房、2008年)で読むたび、その覚悟と不安の入り混じった船出の心境が急に大人びて誇らしげに感じられる。
「おそらく、これから、芸術家となりうるだろうと思って、進むのだ。今の私にとって、私の心は芸術家になってはおらないが、その予想をして進むのである。私には、どれも出来るようにも思え、またすべてをやってみたい。が、まだどれも出来ないようにも思える、不安な状態なのである」(同書、1960年3月5日の日記)
そして新入生となった翌月には、これまでの探求欲を一心に美術に振り向けていく。
「今日の油絵は、両親から、良く出来た。ゴッホ的だと言われた。自分では、ただかいただけなのだが。(中略)その絵の中に、精神、神経、体力、意気、意力が生き残っているのか、わからない。絵は手がかくのではないのか。精神をもり込もうとしているのか。そう思ってかいたのではないように思えるが」(同書、1960年4月4日の日記)
「彼女らは私よりすぐれた生命を持ち、すぐれた人間であるのか、私以上の人間であるのか。彼女らは絵が上手だ。私は下手だ。上手とは、下手とは、絵とは、何なのか」(同書、4月5日の日記)
両親の誉め言葉や他学生の力量との差にも自問する日々。誰しも年少時や学生時代、こうした些細な体験から絵に親しんだり離れたりするものだが、すでに画家を目指している史男にとっては、そのどれもが解明すべき命題である。本格的に学びはじめてから日が浅いにもかかわらず、不確かな現代美術の核心に踏み込もうとするのを意外にも思うし、のちの特異な作品世界を考えると当然にも思える。
ちなみに同書は資料を読み込んだ編集者の田口博氏と望月正俊氏によって、ところどころ示唆に富む注釈が添えられている。4月5日の日記にも、抽象画家の父、龍起が「今年9歳になる男の子の蝉の絵」に「一種完璧な美」があると記した1956年の著述を引用している。父親の鑑賞眼から得るものは大きかったに違いない。史男も早く自身の指針を確立しようとしてか、駆り立てられるように知識を吸収し、思索に没頭していく。
「ぼくは、きらきら輝く、それでいて力強く、そして、かわいらしいものを描きたい。僕の師は、近くに彼の人、だが彼を作品上は、うけつぐな。なんとなればそれは、あまりにずるい。ぼくの自主性はなくなる。彼を一人の友とすることだ。ぼくの先生は、クレー、ミロ、ルソー、マチス、ゴッホ。そういった人々だ。また、ベートーベン、ドフトエフスキー、フィリップ、ロラン、ゲーテ、ゾラ、etc」(同書、1961年1月26日の日記)
日記の形は文化学院1年の1961年3月で途切れている。それに代わるのが、日付のない創作ノートやクロッキー帖だ。史男はここで現代の都市社会に生きる自分が何を描くべきかを論じ、ロボットのような生物や建造物の小さなドローイングから大作のためのエスキースまで、思いつくまま紙面に展開するようになる。
史男のノート 早稲田大学會津八一記念博物館蔵(難波田武男氏寄贈)「ぼくは最高の人間に属したい。ぼくは最高の人間の芸術に加わっている。描かねばならぬものがある。この迷い。この悪と、そして善、過去を持った男。ぼくは人間の運命、一人の孤独の男の一生をダイナミックに描いてみたい。運命の大スペクタクルを。土竜(モグラ)の道、運命の大スペクタクル」(前掲書、1961年、二十歳のころのノート)
「ぼくは芸術家にアンガジュマン(参加)する。広い意味での芸術家であり、絵画家ではない。文学に音楽に歴史に哲学、を主体に、そして政治、社会学、地球。ぼくは作品を通して社会に出てゆく。それは性格なのだ」(前掲書、やはり文化学院時代と思われる年代不明のノート)
文化学院では村井正誠らに師事し、交友の様子も読みとれるが、記述の少なさからみて学生生活にさほど関心を持てなかったようだ。このころから何メートルもの大作を構想し、人知れず創作に打ち込む。やがて作品が両親の目に触れ、龍起のもとを訪れた美術評論家の東野芳明からこれほど描けるのだからもう通学の必要はないでしょうとの助言を受け、2年生の3月に文化学院を辞める。ノートに書かれた言葉「土竜の道」は1963年完成の全長12メートル近い水彩作品に結実した(《モグラの道》11点組、世田谷美術館蔵)。龍起の1963年の日記には、父親自ら大作を展示できる広さの画廊をあたった様子が記されている。
念願かなって初個展が開かれたのは1967年、東京・新橋の第七画廊でのこと。史男は早稲田大学第一文学部美術専攻科に在学中であった。あらためて勉学の必要を感じた彼は、今度は進んで受験勉強を始めて1965年の春に入学したのである。案内状に同作の一部が掲載されている。評論家岡本謙次郎の推薦文どおりユーモアのにじみ出る作品群、その要素は遺品や関係者の言葉をもとに今日まで多角的に伝えられているが、それでも依然として不思議な画面なのである。
1967年、第七画廊の個展案内状 早稲田大学會津八一記念博物館蔵(難波田武男氏寄贈)ところでデビュー前に史男が銅版画の講習を受けたり、イラストレーターへの転向を勧められたのには、美術界の動向が背景にあって興味深い。難波田家訪問の折にも、史男の弟である武男氏から当時は真鍋博ら新進イラストレーターが活躍する時代であったと聞いた。そうしてみると史男の線画にはどこをとっても、どこまでたどっても表情の異なる楽しさや、新鮮な驚きがある。1962年には無署名ながら『朝日ジャーナル』に小さなカットが採用され、その後も複数の印刷物でカットを担当している。
珍しい木版画の版木各種 難波田家所蔵
金子光晴らが寄稿した詩の同人誌『蛾』のカット用の版 難波田家所蔵
『蛾』1967年11月-翌1968年1月号(表紙とカットは難波田史男)早稲田大学會津八一記念博物館蔵(難波田武男氏寄贈)

『早稲田学報』用と思われるカットの原画 難波田家所蔵
とくに『早稲田学報』のカットの数々は、これだけでも一冊の絵本になりそうな可愛らしさである。大学紛争の激化に悩むこともあったが、有意義な学生生活の片鱗もうかがえて見飽きない。
*掲載写真は筆者撮影。
*掲載写真の利用については遺族および所蔵先等の許諾が必要です。あらかじめご了承ください。
(なかお みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」は奇数月の19日の更新予定なのですが、今回は都合で本日の掲載となりました。お詫びします。●ただいまときの忘れものは夏季休廊中です(8月14日~22日)。お問い合わせ、ご注文への返信は8月23日以降、順次対応させていただきます。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
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TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
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