「ときの忘れものの本棚から」第16回

「難波田史男:宇宙ステーションへの旅」(5)

中尾美穂


5-00 難波田史男遺作展 難波田家蔵
『ある青春の挫折の歌 難波田史男遺作展』の図録、難波田史男遺作展委員会、1976年、
会場は小田急百貨店グランドギャラリー(東京)
表紙:難波田史男 《青い家》 1973年

前回とりあげた父・難波田龍起の「難波田史男に関する覚書」(『三彩』1976年2月号所収)から始めよう。

覚書には家庭内のほほえましいエピソードがつづられている。早稲田高等学院時代の史男が、菓子屋に丁稚奉公したいと言うので父母とも戸惑ったこと、美術評論家の東野芳明に史男の絵を見せたところ、完成度の高さに通学の必要はないと言われ、鉛筆では消えるからペンで描くようにと勧められたこと、自分から作品を見てくれとは言わず、レコードをかけながら自室で独り制作や読書をしていたが、テレビなどはよく一緒に見て雑談したことなどだ。しかし、史男の性格や資質については「一徹でゆずらない頑固な一面と同時に非常にすなおな柔軟性」「自己閉塞」「孤独」「突き上げてくる激動」と、画家の眼差しで端的に明らかにしていく。水彩やデッサンを「強烈な色彩感と形象の特異さ」「未来都市を思わせるような想像力に富んだ絵巻」と認め、油絵については「顔料の性質上、内面の自由なイメージの表出に戸惑ったのではあるまいか」、それでも「海と空と人物が一つに溶け合ったような不思議な詩の世界を、独特な色彩で表現」と客観的に評する。もっとも「私をはるかに乗り越えて進んでゆくだろう史男の成長を見守っていた」龍起にも、その当時の史男はもっと言語化しようのない、想像の及ばぬ世界へ向かっているように見えたかもしれない。初個展の案内状で「ロマン、ロマンティシズム、詩情、現実的な社会についての意識…そうした、さまざまな問題が不思議と、あるひは(原文ママ)未分化の状態で、結びついている」と形容した美術評論家、岡本謙次郎の言葉が自然と思い出される。

彼らのような理解者の期待にたがわず、表現の幅を広げていた史男だが、1974年1月29日、兄と出かけた九州旅行の帰路、フェリーから転落して帰らぬ人となる。「難波田史男に関する覚書」はそれから2年後、1976年2月、東京・新宿の小田急百貨店本館11階グランドギャラリーで開催の遺作展に合わせて書かれた。すでに前年に行われた「フジテレビギャラリーの第一回遺作展は予期以上の成果であった。熱心なファンも増えた」のにつづく大々的な展覧会で、史男が遺した2,000点にのぼる作品から水彩やデッサン200点近くを展覧した。委員をつとめたのは、龍起のほか岡本謙次郎、恩師でフランス文学者の窪田般彌、同じくフランス文学者の寺田透、フジテレビギャラリーの山本進、後援の神奈川県立近代美術館の土方定一館長と同館の弦田平八郎、作家で評論家の堀田善衛ら、錚々たる顔ぶれであった。「ある青春の挫折の歌」と謳い、甘くせつないポエジーを誘う史男の作品と詩編を紹介した同展は、幅広い観客の関心を引き、共感を得たことだろう。と同時に、それらが関係者の惜別の思いと容易にリンクし、彼を伝説的な、苦悩に満ちた夭折の画家と位置づけてしまった感がある。

今、1968年の日独伊の若者達はテレビの同時中継で平和と愛についてテーィチインが出来た。愛、この未知なるもの。カミュの素晴らしい言葉――不条理が支配し、愛がそれから、我々を救ってくれるのだ――愛。この未知なるもの。人間性の基礎。スタンダール流の結晶作用によって、ダイヤモンドのようにキラキラ、相手の美点を飾りたてる愛とは無縁な愛。引き算の愛。不条理を引き出すエネルギー。自然の事物が分子や電子や原子らに分解されて、もはや、それ以外に分解出来ないように、愛は分解出来ない。
(難波田史男「世界をデッサンする」同人雑誌「あなた」1968年、同展図録に再録)

むしろこのようなおどけた調子で、現代美術への嫌悪を記したボードレールの一節を冒頭に掲げ、この時代に生きる自身の周辺に考えをめぐらせる史男の言葉のなかに、特異な作品世界への扉が見えるような気がするのは私だけだろうか。今一度、「世界をデッサンする」を書いた早稲田大学在学中に戻り、1967年のデビュー以降に各地で行われた個展で活動歴をたどってみたい。

5-01 珈琲亭ちろる1967 會津八一記念博物館蔵
「難波田史男個展」珈琲亭ちろる、1967年の案内状、早稲田大学會津八一記念博物館蔵(難波田武男氏寄贈)
*文章は美術評論家・岡本謙次郎による(第七画廊での初個展案内状の再録)。会場は龍起の出身地、北海道旭川にある老舗の喫茶店。

5-02 第七画廊1969tri 會津八一記念博物館蔵
「難波田史男個展」第七画廊、1969年の案内状、早稲田大学會津八一記念博物館蔵(難波田武男氏寄贈)
*同画廊での二回目の個展。油彩を発表。年譜に「諸新聞に批評が掲載されて好評であった」とある。

5-03 トアロード画廊1969 會津八一記念博物館蔵
「難波田史男個展」トアロード画廊、1969年の案内状、早稲田大学會津八一記念博物館蔵(難波田武男氏寄贈)
*岡本謙次郎が短文を寄稿(第七画廊での第2回個展案内状の再録)。

5-04 ギャラリーオカベ1969 會津八一記念博物館蔵
「難波田史男 テンペラ画展」Gallery Okabe、1969年の案内状、早稲田大学會津八一記念博物館蔵(難波田武男氏寄贈)
*史男は「七色の虹の彼方に」で始まる短文を寄稿。

5-05 東邦画廊1972 會津八一記念博物館蔵
「油彩と水彩 難波田史男展」東邦画廊、1972年の案内状、早稲田大学會津八一記念博物館蔵(難波田武男氏寄贈)
*同画廊での第三回展。会期前日にフジテレビ「ミュージックギャラリー」に出演する。

このほか、大学卒業の翌年、1971年から始まった三越での「新鋭選抜展」(東京、大阪)に毎年選出される。没年の1974年には龍起選定の5点が出品され、入賞した(その後、5点とも早稲田大学會津八一記念博物館に寄贈された)。龍起・編の略年譜によると、どう生きるべきかという模索は変わらず、「牧場で働いて晴耕雨読の生活をしようと」単身、北海道へ向かったこともあったという。1973年、旭川画廊で親子展が開かれた際には「北海道を楽しく旅行」し、「この年油絵、水彩を多数制作するほかエッチングの習作を20点作成」というから、理想の道にあたらずとも遠からずという日々であったろうし、気力にあふれ、いっそう自己研鑽に励む様子がみてとれる。

先の『三彩』に寄稿した美術評論家の林紀一郎は、「難波田史男への試み――無邪気さ(イノサンス)の海の崖(はて)に」と題し、「少年時代から孤独を愛し、旅することを愛した」史男の絵画は、どの夭折の画家とも重ならず、「憂鬱と陽気さのまざりあった彼の色彩や、沈黙と饒舌の錯綜する彼の線描は、イメージの最初の旅からすでに、彼ら古い世代とは地平を異にしており、やはり一九六〇年代の大学生として反安保闘争期に青春を生きた若者の感性を直截に伝えているのである」と書いた。そしてのちに林が館長を務めることになる伊東市の池田二十世紀美術館で、1976年、龍起と史男、そして同様に画家になったが前年に急死した長男の紀夫、三者三様の作品を一堂に会した楽しい企画展が開かれるのである。同展については、ひきつづき次回に紹介したい。

5-06 池田二十世紀美術館1987 難波田家蔵
「難波田龍起 紀夫 史男」三人展に寄せた冊子、池田二十世紀美術館、1976年
編集:難波田龍起、フジテレビギャラリー

*掲載写真は筆者撮影。
*掲載写真の利用については遺族および所蔵先等の許諾が必要です。ご了承ください。

(なかお みほ)

■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
201603_collection池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」奇数月の19日に掲載します。
次回は新年2023年1月19日の予定です。

【お知らせ】
誠に勝手ながら、11月29日(火)は17時閉廊とさせていただきます。
ご迷惑をお掛けしますが、ご理解とご協力の程宜しくお願い申し上げます。