ガウディの街バルセロナより
その6 フランコ政権
丹下敏明
長々と私とモデルニスモの出会い、ガウディのバックにあった同時代のピカイチのカタルーニャでの世紀末の様子を話したが、その中でカタルーニャ主義についても若干触れた。ご存じのように現在の憲法では4つのスペイン語が公用語として認められている。一般にスペイン語と言われているのは、実は半島の中央部のカスティージャ地方で話される言葉で、国内ではカスティージャ語と呼ばれている。その他バスク語、ガリシア語、そしてカタルーニャ語がある。言語学上からは他にも存在しているらしい。例えばピレネーの山でこぐ一部の住民しか使っていないアラン語というのもあれば、その地方の人はカタルーニャ語とは違うのだと主張して、バレンシア語、マジョルカ語、イビサ語などの存在を唱える人もいる。
この議論は別として、これは明らかにスペインは多様な文化形成があり、それぞれの地方が近年まで温存していたという事になる。隣のフランスは国内をまとめる為にすでに第一次世界大戦で兵役に出す時、政府はプロバンスの住民を北のブルターニュへ配属し、ブルターニュの若者は南のプロバンスへ送るという事をやったので、国内は自然とこの地方の自意識が薄れていったのだと言われている。
スペインではフランコ軍は、第二次共和制政府を破り、1936年独裁政権を確立させると強力な中央政権を樹立させた。これはフェリペ二世以来、マドリッドに強力な中央集権化体制を築き、特にバスク地方や、カタルーニャでの民族意識を削ぐという狙いがあった。フランコはガリシア生まれだったが、着任していたモロッコから進軍し、これを実現させるためにマドリッドを首都とした。言語は一つ、国は一つとした。
もっともカスティージャ語以外を使うとまずい事が起きるというのはフランコ政権以前にもあった。例えば、ガウディは1924年の9月11日、旧市街にあるサン・ジュスト・イ・パストールの教会(Sant Just i Pastor) で開かれたカタルーニャ愛国者のミサに出ようとして教会に入ろうとした時、入り口で警官に職務尋問されたが、その時カスティージャ語で話すことを拒み、カタルーニャ語で応えたために4人の警官に挟まれた。警官の多くは他の地方から配属になっている場合が多いので、ガウディの話している言葉が理解できなかったらしい。警官は中央政府に属しているから、カタルーニャ愛国者にたいして嫌がらせをしたとも言える。ガウディは4時間取り調べを受けた後収監され、保釈金10ドゥーロ(20ペセタ)を払い釈放されたというエピソードが残っている。

1. ガウディが職務尋問にあって、更に収監されるという事件が起きたサン・ジュスト教会の外観
私がスペインに着いた1971年はフランコはまだ存命であったから、公用語はカスティージャ語しか使用が認められていなかった。中央集権化を言語からも狙ったわけだが、このせいでバルセロナではカタルーニャ語を教えるところはもちろんなかった。街では公然とカタルーニャ語を話す人はごく少なかった。もちろん、街の看板でも見ることはできなかったし、本屋にいってもカタルーニャ語で書かれた本は隅の方にあるのだろうが、中々見つからなかった。同世代の友人たちはいずれも反フランコである人でさえも、カスティージャ語で教育を受けているから、家庭内では使っているから話すことはできるが、書くことのできる人はいなかった。
バルセロナで生まれたジョアン・ミロ(Joan Miro i Ferra, 1893 -1983年)は戦後亡命さえしなかったが、バルセロナを去り、政治から距離を置くために奥さんの生まれ故郷マジョルカ島に移り隠遁生活を送った。ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 –1973年) はフランコのいるスペインには戻らないとして、亡命生活を続け故国に戻らないまま他界していた。建築家ではアントニ・ボネット(Antonio Bonet i Castellana, 1913-1989年)はCIAMのアテネ大会で、船員服で仮装して大会に紛れ込み、ル・コルビュジェやセルトに接近し親交を結び、その後パリでコルブに従事。コルブの事務所でアルゼンチン人の建築家と知りあいになり、アルゼンチンに移住。これで事実上国を去っていたが、その後バルセロナに戻っていた。ジョセップ・リュイス・セルト(Josep Lluis Sert i Lopez, 1902-1983)は大使だった叔父を頼りにパリに亡命し、その後アメリカに渡ってフランコの存命中は帰国しなかった。しかし、セルトはお忍びで帰国していたらしく、友人であるミロのためにマジョルカ島のパルマに1956年、アトリエをそして二人の郷里であるバルセロナのモンジュイックの山にミロ・ファンデーション(1972‐1975年)を建設していた。セルト、ミロと親交の篤かったトーレス・クラベ(Josep Torres i Clave, 1906 -1939年)はセルトとともにCIAMに参加して、国内ではGATCPAC (Grup d'Arquitectes i Tecnics Catalans per al Progres de l'Arquitectura Contemporania現代建築発展のためのカタルーニャの建築家とエンジニアのグループの意)を組織して建築運動を展開しながら実作も残したが、戦争から逃げるのでは無く、第二共和制政府側について戦場で散った。

2. バルセロナのジョアン・ミロの生家のあるパッサジェ・デル・クレディト(Passathe del Credit)

3. ミロの生家のファサードに張られている記念のプレート

4. ミロのマジョルカのアトリエの現在(設計はジョセップ・リュイス・セルト)

5. ミロのマジョルカのアトリエ外観

6. ミロの最晩年にデザインしたミロ広場の彫刻模型

7. ピカソ・ミュージアム開設時に嵌められた館案内(現在は見当たりません)

8. ピカソ没にバルセロナ大学に掲げられた半旗

9. ピカソ没(1973年4月8日)を報じた当時の新聞

10. ピカソの代表作「アビニョンの娘たち」のモデルがいた娼婦宿(d’Avinyo通り44番地)

11. セルトが設計した友人ミロのファンデーション、工事中の現場

12. ミロ・ファンデーション建設工事標識

13. 増築部分改造されている現在のミロ・ファンデーション
周りの 友人たちの間ではフランコが死んだらシャンペン(当時はカバもシャンペンと呼ばれていた)を開けて、死を祝うのだというのをいつも聞かされていた。だが、唯一あった国営放送のテレビニュースではフランコ総督による除幕式、起工式、公式訪問のニュースが毎日のように流れていた。私のように外国人でスペイン戦争で亡くなった親戚、縁者もいなければ、国の事情もよく分からないので周りの言っていることと、報道されていることのギャップが良く分からなかった。そういうことが何年も続いたのだが、ちょうど死の一年前ぐらいだったろうか総督フランコ将軍がついに病に倒れたという報道が公然と流れるようになった。フランコはマドリッド郊外のパルド宮に居を構えていたが、そこには一直線の街道が市内とを結んでいる。ニュースでは毎日治療に当たっている医師団の公式会見が報道され、しかもフランコの回復を祈る国民が、この街道を埋め尽くし、ゲートには花や蝋燭が山のように置かれているという映像が流されていた。しかし一方では友人たちの間では相変わらず誰一人フランコの事をよく言う人はいなく、シャンペンを冷やし始めたとかいう人が周りにいた。

14. 没年にバルセロナで開催された見本市に出席したフランコ(83歳)
そこでこれはどちらが正しいのだろうか自分で確かめるしかないと思い、バルセロナから車を飛ばして、フランコの居住宮まで見に行った。その日はちょうど日曜だったので、これはニュースで毎日流れているように、入口が見えないほどに人だかりがしているなと思ったら、何のことは無い、そんな人は誰もいなかった。ただ、私のような興味本位の連中が乗った車が私と同じように集まる群衆を見るためだろうか、のろのろ運転しているのでちょっとした渋滞があった程度だった。この国はどうなっているのだろうかと・・・。

15. フランコ没を報じた当時の新聞
*図版は全て筆者撮影
(たんげ としあき)
■丹下敏明(たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作(カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画(現在進行中)などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画(全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展(バルセロナ・アパレハドール協会展示会場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社(1976年)、『ガウディの生涯』彰国社(1978年)、『スペイン建築史』相模書房(1979年)、『ポルトガル』実業之日本社(1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社(1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会(1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版(1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社(1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社(2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社(2022年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2023年3月16日です。どうぞお楽しみに。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
その6 フランコ政権
丹下敏明
長々と私とモデルニスモの出会い、ガウディのバックにあった同時代のピカイチのカタルーニャでの世紀末の様子を話したが、その中でカタルーニャ主義についても若干触れた。ご存じのように現在の憲法では4つのスペイン語が公用語として認められている。一般にスペイン語と言われているのは、実は半島の中央部のカスティージャ地方で話される言葉で、国内ではカスティージャ語と呼ばれている。その他バスク語、ガリシア語、そしてカタルーニャ語がある。言語学上からは他にも存在しているらしい。例えばピレネーの山でこぐ一部の住民しか使っていないアラン語というのもあれば、その地方の人はカタルーニャ語とは違うのだと主張して、バレンシア語、マジョルカ語、イビサ語などの存在を唱える人もいる。
この議論は別として、これは明らかにスペインは多様な文化形成があり、それぞれの地方が近年まで温存していたという事になる。隣のフランスは国内をまとめる為にすでに第一次世界大戦で兵役に出す時、政府はプロバンスの住民を北のブルターニュへ配属し、ブルターニュの若者は南のプロバンスへ送るという事をやったので、国内は自然とこの地方の自意識が薄れていったのだと言われている。
スペインではフランコ軍は、第二次共和制政府を破り、1936年独裁政権を確立させると強力な中央政権を樹立させた。これはフェリペ二世以来、マドリッドに強力な中央集権化体制を築き、特にバスク地方や、カタルーニャでの民族意識を削ぐという狙いがあった。フランコはガリシア生まれだったが、着任していたモロッコから進軍し、これを実現させるためにマドリッドを首都とした。言語は一つ、国は一つとした。
もっともカスティージャ語以外を使うとまずい事が起きるというのはフランコ政権以前にもあった。例えば、ガウディは1924年の9月11日、旧市街にあるサン・ジュスト・イ・パストールの教会(Sant Just i Pastor) で開かれたカタルーニャ愛国者のミサに出ようとして教会に入ろうとした時、入り口で警官に職務尋問されたが、その時カスティージャ語で話すことを拒み、カタルーニャ語で応えたために4人の警官に挟まれた。警官の多くは他の地方から配属になっている場合が多いので、ガウディの話している言葉が理解できなかったらしい。警官は中央政府に属しているから、カタルーニャ愛国者にたいして嫌がらせをしたとも言える。ガウディは4時間取り調べを受けた後収監され、保釈金10ドゥーロ(20ペセタ)を払い釈放されたというエピソードが残っている。

1. ガウディが職務尋問にあって、更に収監されるという事件が起きたサン・ジュスト教会の外観
私がスペインに着いた1971年はフランコはまだ存命であったから、公用語はカスティージャ語しか使用が認められていなかった。中央集権化を言語からも狙ったわけだが、このせいでバルセロナではカタルーニャ語を教えるところはもちろんなかった。街では公然とカタルーニャ語を話す人はごく少なかった。もちろん、街の看板でも見ることはできなかったし、本屋にいってもカタルーニャ語で書かれた本は隅の方にあるのだろうが、中々見つからなかった。同世代の友人たちはいずれも反フランコである人でさえも、カスティージャ語で教育を受けているから、家庭内では使っているから話すことはできるが、書くことのできる人はいなかった。
バルセロナで生まれたジョアン・ミロ(Joan Miro i Ferra, 1893 -1983年)は戦後亡命さえしなかったが、バルセロナを去り、政治から距離を置くために奥さんの生まれ故郷マジョルカ島に移り隠遁生活を送った。ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 –1973年) はフランコのいるスペインには戻らないとして、亡命生活を続け故国に戻らないまま他界していた。建築家ではアントニ・ボネット(Antonio Bonet i Castellana, 1913-1989年)はCIAMのアテネ大会で、船員服で仮装して大会に紛れ込み、ル・コルビュジェやセルトに接近し親交を結び、その後パリでコルブに従事。コルブの事務所でアルゼンチン人の建築家と知りあいになり、アルゼンチンに移住。これで事実上国を去っていたが、その後バルセロナに戻っていた。ジョセップ・リュイス・セルト(Josep Lluis Sert i Lopez, 1902-1983)は大使だった叔父を頼りにパリに亡命し、その後アメリカに渡ってフランコの存命中は帰国しなかった。しかし、セルトはお忍びで帰国していたらしく、友人であるミロのためにマジョルカ島のパルマに1956年、アトリエをそして二人の郷里であるバルセロナのモンジュイックの山にミロ・ファンデーション(1972‐1975年)を建設していた。セルト、ミロと親交の篤かったトーレス・クラベ(Josep Torres i Clave, 1906 -1939年)はセルトとともにCIAMに参加して、国内ではGATCPAC (Grup d'Arquitectes i Tecnics Catalans per al Progres de l'Arquitectura Contemporania現代建築発展のためのカタルーニャの建築家とエンジニアのグループの意)を組織して建築運動を展開しながら実作も残したが、戦争から逃げるのでは無く、第二共和制政府側について戦場で散った。

2. バルセロナのジョアン・ミロの生家のあるパッサジェ・デル・クレディト(Passathe del Credit)

3. ミロの生家のファサードに張られている記念のプレート

4. ミロのマジョルカのアトリエの現在(設計はジョセップ・リュイス・セルト)

5. ミロのマジョルカのアトリエ外観

6. ミロの最晩年にデザインしたミロ広場の彫刻模型

7. ピカソ・ミュージアム開設時に嵌められた館案内(現在は見当たりません)

8. ピカソ没にバルセロナ大学に掲げられた半旗

9. ピカソ没(1973年4月8日)を報じた当時の新聞

10. ピカソの代表作「アビニョンの娘たち」のモデルがいた娼婦宿(d’Avinyo通り44番地)

11. セルトが設計した友人ミロのファンデーション、工事中の現場

12. ミロ・ファンデーション建設工事標識

13. 増築部分改造されている現在のミロ・ファンデーション
周りの 友人たちの間ではフランコが死んだらシャンペン(当時はカバもシャンペンと呼ばれていた)を開けて、死を祝うのだというのをいつも聞かされていた。だが、唯一あった国営放送のテレビニュースではフランコ総督による除幕式、起工式、公式訪問のニュースが毎日のように流れていた。私のように外国人でスペイン戦争で亡くなった親戚、縁者もいなければ、国の事情もよく分からないので周りの言っていることと、報道されていることのギャップが良く分からなかった。そういうことが何年も続いたのだが、ちょうど死の一年前ぐらいだったろうか総督フランコ将軍がついに病に倒れたという報道が公然と流れるようになった。フランコはマドリッド郊外のパルド宮に居を構えていたが、そこには一直線の街道が市内とを結んでいる。ニュースでは毎日治療に当たっている医師団の公式会見が報道され、しかもフランコの回復を祈る国民が、この街道を埋め尽くし、ゲートには花や蝋燭が山のように置かれているという映像が流されていた。しかし一方では友人たちの間では相変わらず誰一人フランコの事をよく言う人はいなく、シャンペンを冷やし始めたとかいう人が周りにいた。

14. 没年にバルセロナで開催された見本市に出席したフランコ(83歳)
そこでこれはどちらが正しいのだろうか自分で確かめるしかないと思い、バルセロナから車を飛ばして、フランコの居住宮まで見に行った。その日はちょうど日曜だったので、これはニュースで毎日流れているように、入口が見えないほどに人だかりがしているなと思ったら、何のことは無い、そんな人は誰もいなかった。ただ、私のような興味本位の連中が乗った車が私と同じように集まる群衆を見るためだろうか、のろのろ運転しているのでちょっとした渋滞があった程度だった。この国はどうなっているのだろうかと・・・。

15. フランコ没を報じた当時の新聞
*図版は全て筆者撮影
(たんげ としあき)
■丹下敏明(たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作(カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画(現在進行中)などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画(全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展(バルセロナ・アパレハドール協会展示会場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社(1976年)、『ガウディの生涯』彰国社(1978年)、『スペイン建築史』相模書房(1979年)、『ポルトガル』実業之日本社(1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社(1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会(1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版(1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社(1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社(2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社(2022年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2023年3月16日です。どうぞお楽しみに。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
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