「ときの忘れものの本棚から」第17回
「難波田史男:宇宙ステーションへの旅」(6)
中尾美穂

「難波田 龍起 紀夫 史男―三人展」冊子
池田二十世紀美術館、1978年、編集:難波田龍起、フジテレビギャラリー より
左から難波田史男《作品》1967年、《夢の街角》1969年、《作品》1960年

同冊子より
左から難波田龍起《心象》1966年、《青の街》1972年

同冊子より
左から難波田紀夫《エーゲ海の旅にてA》1973年、《椿の花》1975年
1978年、静岡県伊東市の池田二十世紀美術館で開催された企画展「難波田 龍起 紀夫 史男―三人展」のカタログは30ページ足らずの薄い冊子だが、難波田家の画家たち、とくに長男・紀夫の作風を知ることができる貴重資料である。史男が父・龍起とは別の絵画表現をめざした経緯はこの連載でもざっと紹介したが、遅れて画家になった年子の兄・紀夫についてほとんど触れていなかった。三男の武男氏からとりわけ優れていたという長兄の芸術的才能や兄二人の仲の良さを聞くと、父との関係だけに焦点を当てるのは片手落ちのように感じられる。同冊子の略年譜をもとに、ここで彼らの歩みを整理してみようと思う。
父の龍起は1905年に旭川市で生まれ、1929年に国画会に入選、1938年に自由美術家協会会員になる(1959年退会)。1940年に紀夫、1941年に史男が誕生。1942年の第一回個展を経て、1949年北荘画廊での個展、1953年「抽象と幻想」展や1956年「世界・今日の美術展」への出品、1960年前後には南画廊での個展が続き、国内美術の先端で活動した作家のひとりである。史男がその背中を追うように画家を志し、大学在学中の1967年から個展の機会を得たのに対し、紀夫は1963年に青山学院大学法学部を卒業すると32歳になるまで会社勤務を続けた。数社を経て1972年に退職。同年に日本各地、次いで2か月にわたるソ連旅行を体験。史男とは八丈島方面へ旅した。このころ絵画制作を始めたとある。翌1973年にはギリシャを訪れ、旅先の風景を油彩で描いた。1974年にも史男と2人で九州を旅行し、その帰路、史男が死去。1975年、紀夫も急性心不全で亡くなり、翌年に東京地球堂ギャラリー主催の遺作展が開催されている。
難波田家のアルバムには池田二十世紀美術館での三人展を訪れた親族のスナップが多数収められていて、紀夫の鮮やかで平明な風景画が眼を惹いた。残念ながら同展出品作の詳細は不明だが、冊子に2点の油彩作品と、モノクロの図版でもう1点《ソ連の旅にてC》と題のついた1973年作の油絵が載っている。数本の枯れ木に人物のシルエット、彼方に広漠とした冬の平原が広がる構図である。影の伸び方からみて、独り、平原を見つめる人物や木々は写生でなく、過酷な自然の点景にすぎなくみえる。同ページに採録された彼のノートの断片をみてみよう。
「自然界に自然の法則があるように、人間社会にも人間性の法則が働いている。そのふたつの法則に基づいてわれわれの調和創造は可能だ。生活と自然との調和。そこに人間存在の誇りがある」
「あらゆる場合において最も願わしい事は、理想による現実の包摂である。そこに神がいる。しかし我々人間は現実の重荷を背負って、一歩一歩理想に近づかねばなるまい。それが我々の苦悩であり、喜びでもある」
(難波田紀夫「青春のノートより」)
わずかな文章からでも散見できる彼の高邁な思索については、龍起のあとがきが参考になるだろう。
「自然を深く愛した紀夫は、早くから日本の風土の荒廃を嘆き、郊外の諸問題をちみつに分析して長い論文「公害のない国」(1966-75)を書いたが、生涯ついに上梓に至らなかったのは、私としても残念な気がしてならない」
(難波田龍起「青春のノート」あとがき/同展カタログより)
もともと作家志望であったとも、明かされている。
「彼は三十歳なかばで急逝したが、あるいは大人物の面影があったのかも知れなかったといまにして考えるのである。だが、彼はもともと作家志望であったから、八年間の苦渋をなめた年月を経て、やっと脱サラの生活に入り解放され、国内外の旅を重ねてカメラや写生にあけくれした。その死後に夥しい写真と三十数点ほどの油絵を残した。彼の作品は、総じて厳密な写実的手法によって、執拗に対象を追求したものであった。
そこへゆくと、次男の史男の方は、自己の天性に逆らわず、はやく自分の進むべき道に入っていった。もちろん時間的に精神的に自由を束縛される職業人の生活を欲しなかったのである。しかし学習や労働を嫌ったわけではなかった。ただ現実社会のしくみに適しがたかったのである」
(難波田龍起「息子と絵を描くということ」/同展冊子より)
「苦渋をなめた」というのは、自由を犠牲にしたというくらいの意味だろうが、紀夫もまた、創作に打ち込む自由な時間を渇望したのは想像に難くない。その作風を同館の故・林紀一郎が次のようにまとめている。
「彼はかつて青年期の父が憧れたギリシャを訪ね、エーゲ海の海やアクロポリスの丘を眼のあたりにした折の印象を単年に画布に写しとった。またソビエト連邦の冬の旅を経験し、モスクワやレニングラードの街景、アムール川の河岸の風景を描写した。彼はカメラのレンズが捉えるリアリズムを愛したが、彼の眼と精神もまた、この現実の自然や風土に触発されて画心のシャッターを切った。彼は、現実がおぞましいからといって眼をふさぐような生き方をしない。現実が歪曲しているなら、それを美しく変革することができるという人間の能力を信じていた」
(林紀一郎「難波田父子三人展に寄せて―龍起・紀夫・史男―」/同展冊子より)
さて、史男が紀夫の創作を目にしていたかはわからない。表面的にみて二人の文章や絵画に類似点は少なく、もちろん父とのそれとも違う。図版に選ばれた「街」の表現をみても三者三様であるのは明らかである。もちろん兄弟ともに音楽や文学、旅行を好み、未知の土地への好奇心、社会への問題意識や理想を誰より共有し合っていたといってもいい。そのうえで現代における独自の絵画表現を意識していた史男は、他作家とも父や兄の思想とも一線を画し、自分だけの世界観を確立し、没入する一心であっただろう。そう考えるとその特異さ、性急さ、そして林氏の一文にある、「切り裂いて」という異様な感覚にも説得力が感じられるのである。
「父が絵画を志して三十年目にようやく拓いた抽象絵画の地平に、次男史男は、十代の後半、のっけから、爽やかな足取りで侵入し、カミュやサルトルばりの不条理と実存の感覚をぎらつかせる鋭敏な線描をもって、自由奔放な夢想を紡いでいった。紡ぐというよりは、切り裂いていったというべきかもしれない」
(林紀一郎「難波田父子三人展に寄せて―龍起・紀夫・史男―」)
*難波田紀夫作品は大川美術館(群馬県桐生市)、世田谷美術館(東京都世田谷区)に収蔵されている。
なお、大川美術館コレクションについては、初代館長の大川氏が龍起のアトリエ訪問の際に紀夫作品を気に入り、龍起から紀夫の代表的作品が寄贈されたと、難波田武男氏よりご教示いただいた。
*掲載写真は筆者撮影。
*掲載写真の利用については遺族の許諾が必要です。ご了承ください。
(なかお みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」は奇数月の19日に掲載します。
次回は3月19日の予定です。
●関連展覧会のご案内
「洋画の玉手箱」谷コレクション
会場:笠岡市立竹喬美術館
会期:2022年12月24日(土)~2月12日(日)
展示:難波田龍起:青のコンポジション、形象A、遺跡
:難波田史男:孤高の哲学者
「描かれた“北”~北海道立近代美術館コレクションから」
会場:北網圏北見文化センター
会期:2023年1月14日(土)~3月12日(日)
展示:難波田龍起:北国の家
「難波田史男:宇宙ステーションへの旅」(6)
中尾美穂

「難波田 龍起 紀夫 史男―三人展」冊子
池田二十世紀美術館、1978年、編集:難波田龍起、フジテレビギャラリー より
左から難波田史男《作品》1967年、《夢の街角》1969年、《作品》1960年

同冊子より
左から難波田龍起《心象》1966年、《青の街》1972年

同冊子より
左から難波田紀夫《エーゲ海の旅にてA》1973年、《椿の花》1975年
1978年、静岡県伊東市の池田二十世紀美術館で開催された企画展「難波田 龍起 紀夫 史男―三人展」のカタログは30ページ足らずの薄い冊子だが、難波田家の画家たち、とくに長男・紀夫の作風を知ることができる貴重資料である。史男が父・龍起とは別の絵画表現をめざした経緯はこの連載でもざっと紹介したが、遅れて画家になった年子の兄・紀夫についてほとんど触れていなかった。三男の武男氏からとりわけ優れていたという長兄の芸術的才能や兄二人の仲の良さを聞くと、父との関係だけに焦点を当てるのは片手落ちのように感じられる。同冊子の略年譜をもとに、ここで彼らの歩みを整理してみようと思う。
父の龍起は1905年に旭川市で生まれ、1929年に国画会に入選、1938年に自由美術家協会会員になる(1959年退会)。1940年に紀夫、1941年に史男が誕生。1942年の第一回個展を経て、1949年北荘画廊での個展、1953年「抽象と幻想」展や1956年「世界・今日の美術展」への出品、1960年前後には南画廊での個展が続き、国内美術の先端で活動した作家のひとりである。史男がその背中を追うように画家を志し、大学在学中の1967年から個展の機会を得たのに対し、紀夫は1963年に青山学院大学法学部を卒業すると32歳になるまで会社勤務を続けた。数社を経て1972年に退職。同年に日本各地、次いで2か月にわたるソ連旅行を体験。史男とは八丈島方面へ旅した。このころ絵画制作を始めたとある。翌1973年にはギリシャを訪れ、旅先の風景を油彩で描いた。1974年にも史男と2人で九州を旅行し、その帰路、史男が死去。1975年、紀夫も急性心不全で亡くなり、翌年に東京地球堂ギャラリー主催の遺作展が開催されている。
難波田家のアルバムには池田二十世紀美術館での三人展を訪れた親族のスナップが多数収められていて、紀夫の鮮やかで平明な風景画が眼を惹いた。残念ながら同展出品作の詳細は不明だが、冊子に2点の油彩作品と、モノクロの図版でもう1点《ソ連の旅にてC》と題のついた1973年作の油絵が載っている。数本の枯れ木に人物のシルエット、彼方に広漠とした冬の平原が広がる構図である。影の伸び方からみて、独り、平原を見つめる人物や木々は写生でなく、過酷な自然の点景にすぎなくみえる。同ページに採録された彼のノートの断片をみてみよう。
「自然界に自然の法則があるように、人間社会にも人間性の法則が働いている。そのふたつの法則に基づいてわれわれの調和創造は可能だ。生活と自然との調和。そこに人間存在の誇りがある」
「あらゆる場合において最も願わしい事は、理想による現実の包摂である。そこに神がいる。しかし我々人間は現実の重荷を背負って、一歩一歩理想に近づかねばなるまい。それが我々の苦悩であり、喜びでもある」
(難波田紀夫「青春のノートより」)
わずかな文章からでも散見できる彼の高邁な思索については、龍起のあとがきが参考になるだろう。
「自然を深く愛した紀夫は、早くから日本の風土の荒廃を嘆き、郊外の諸問題をちみつに分析して長い論文「公害のない国」(1966-75)を書いたが、生涯ついに上梓に至らなかったのは、私としても残念な気がしてならない」
(難波田龍起「青春のノート」あとがき/同展カタログより)
もともと作家志望であったとも、明かされている。
「彼は三十歳なかばで急逝したが、あるいは大人物の面影があったのかも知れなかったといまにして考えるのである。だが、彼はもともと作家志望であったから、八年間の苦渋をなめた年月を経て、やっと脱サラの生活に入り解放され、国内外の旅を重ねてカメラや写生にあけくれした。その死後に夥しい写真と三十数点ほどの油絵を残した。彼の作品は、総じて厳密な写実的手法によって、執拗に対象を追求したものであった。
そこへゆくと、次男の史男の方は、自己の天性に逆らわず、はやく自分の進むべき道に入っていった。もちろん時間的に精神的に自由を束縛される職業人の生活を欲しなかったのである。しかし学習や労働を嫌ったわけではなかった。ただ現実社会のしくみに適しがたかったのである」
(難波田龍起「息子と絵を描くということ」/同展冊子より)
「苦渋をなめた」というのは、自由を犠牲にしたというくらいの意味だろうが、紀夫もまた、創作に打ち込む自由な時間を渇望したのは想像に難くない。その作風を同館の故・林紀一郎が次のようにまとめている。
「彼はかつて青年期の父が憧れたギリシャを訪ね、エーゲ海の海やアクロポリスの丘を眼のあたりにした折の印象を単年に画布に写しとった。またソビエト連邦の冬の旅を経験し、モスクワやレニングラードの街景、アムール川の河岸の風景を描写した。彼はカメラのレンズが捉えるリアリズムを愛したが、彼の眼と精神もまた、この現実の自然や風土に触発されて画心のシャッターを切った。彼は、現実がおぞましいからといって眼をふさぐような生き方をしない。現実が歪曲しているなら、それを美しく変革することができるという人間の能力を信じていた」
(林紀一郎「難波田父子三人展に寄せて―龍起・紀夫・史男―」/同展冊子より)
さて、史男が紀夫の創作を目にしていたかはわからない。表面的にみて二人の文章や絵画に類似点は少なく、もちろん父とのそれとも違う。図版に選ばれた「街」の表現をみても三者三様であるのは明らかである。もちろん兄弟ともに音楽や文学、旅行を好み、未知の土地への好奇心、社会への問題意識や理想を誰より共有し合っていたといってもいい。そのうえで現代における独自の絵画表現を意識していた史男は、他作家とも父や兄の思想とも一線を画し、自分だけの世界観を確立し、没入する一心であっただろう。そう考えるとその特異さ、性急さ、そして林氏の一文にある、「切り裂いて」という異様な感覚にも説得力が感じられるのである。
「父が絵画を志して三十年目にようやく拓いた抽象絵画の地平に、次男史男は、十代の後半、のっけから、爽やかな足取りで侵入し、カミュやサルトルばりの不条理と実存の感覚をぎらつかせる鋭敏な線描をもって、自由奔放な夢想を紡いでいった。紡ぐというよりは、切り裂いていったというべきかもしれない」
(林紀一郎「難波田父子三人展に寄せて―龍起・紀夫・史男―」)
*難波田紀夫作品は大川美術館(群馬県桐生市)、世田谷美術館(東京都世田谷区)に収蔵されている。
なお、大川美術館コレクションについては、初代館長の大川氏が龍起のアトリエ訪問の際に紀夫作品を気に入り、龍起から紀夫の代表的作品が寄贈されたと、難波田武男氏よりご教示いただいた。
*掲載写真は筆者撮影。
*掲載写真の利用については遺族の許諾が必要です。ご了承ください。
(なかお みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」は奇数月の19日に掲載します。次回は3月19日の予定です。
●関連展覧会のご案内
「洋画の玉手箱」谷コレクション
会場:笠岡市立竹喬美術館
会期:2022年12月24日(土)~2月12日(日)
展示:難波田龍起:青のコンポジション、形象A、遺跡
:難波田史男:孤高の哲学者
「描かれた“北”~北海道立近代美術館コレクションから」
会場:北網圏北見文化センター
会期:2023年1月14日(土)~3月12日(日)
展示:難波田龍起:北国の家
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