<2022年12月28日に亡くなった建築家の磯崎新は、1970年代後半から自作を題材にした版画の制作に取り組んだ。40年以上にわたり続いた版画の制作は「100年後をも見据えた〝建築批評〟だった」と、制作を支えたギャラリー「ときの忘れもの」の綿貫不二夫氏は話す。
(20230201/日経 文化さんのtwitterより)>
昨日2月1日の日本経済新聞の電子版の「文化往来」に磯崎新先生の版画制作が紹介されました。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD2682E0W3A120C2000000/

磯崎新「MOCA#1」
磯崎新先生が昨年末亡くなられ、呆然としているとき、日本経済新聞の美術担当の編集委員・窪田直子さんから取材のご連絡をいただきました。
「長年のご交流の中での思い出、建築設計以外の版画制作への取り組みなどについて、ぜひお話しいただけませんでしょうか。」というご依頼でした。
2009年に日経で連載された磯崎新先生の「私の履歴書」を担当されたのが窪田さんで、このときの「連載は建築が中心で、それ以外の活動についてあまりご紹介できなかったこともあり、大変興味があります。」とのこと。
お正月早々でしたが、1977年以来、40数年間に制作された版画作品(シルクスクリーン、銅版、リトグラフ、木版)やカタログ、資料などを大急ぎで準備し、取材当日には刷り師の石田了一さんと連刊画文集『栖(すみか)十二』『百二十の見えない都市』を企画・編集された植田実先生、磯崎アトリエOBのFさんにもご参加いただきました。
磯崎版画(シルクスクリーン)のすべてを刷ってきた石田了一さんが撮影していた1983年11月の磯崎先生へのインタビュー映像まで40年ぶりに見ることができました。
●磯崎新インタビュー「なぜ版画をつくるのか/現代版画センター企画・磯崎新全国展のために」
撮影:1983年 撮影者:石田了一
最初から2分50秒あたりまでは1983年11月のGAギャラリーの開館記念・磯崎新展の様子です。その後のインタビューは赤坂の磯崎新アトリエで行われました。
撮影:1983年 撮影者:石田了一
このとき磯崎先生は52歳、聞き手の綿貫は38歳でした。インタビュー後(11分50秒から)は再びGAギャラリーの開館記念・磯崎新展の様子です。
私たちが版元に名乗りを上げ(現代版画センター)、神楽坂時代の磯崎アトリエを初めて訪ねたのは1976年でした。第一作の『ヴィッラ』シリーズ及び大作『空洞としての美術館』の誕生は1977年です。
以来、40数年にわたり、磯崎版画をつくり続けてきました。
現代版画センターと、ときの忘れもののエディションだけで250点を超します。それ以外にも海外のエディション、コンペへの出品作など版画で制作されていましたから総数では500点を優に超すのではないでしょうか。
当初は(今でも)建築家の余技だろうとか、お遊びだろうとか、お前はゼネコンに売り込むつもりかと、散々に言われてきました。
初めてお会いしたときから「俺は海外ではアートオリエンテッド・アーキテクトと言われている」とはっきりアーティストとしての自負をもっておられました。
「俺の建築は100年後には1つも残らないだろう。でも紙は残る」とライトやピラネージの例をあげて断言されていました。
1977年のサンパウロ・ビエンナーレに出品した『空洞としての美術館』連作2点は4m80cmと、3m60cmもの版画の大作です。
このときのコミッショナーは針生一郎先生、
選ばれたのは、松澤宥、工藤哲巳、粟津潔、そして磯崎先生です。
錚々たる現代美術家たちに対抗するメディアとして磯崎先生は私を呼んで版画での出品を選びました。
<有難かったのは、サンパウロ・ビエンナーレの日本代表に突然えらばれながら、どういうメディアで表現しようか、と迷っていたときのことだ。綿貫さんが、それも版画でやったらどうですか、とすすめてくれた。だが、大きい展覧会だから作品も大きくなりますよ、というと、いいですよ、世界最大の版画にしたらいい、と平然たるものだった。必ずしも彼に成算あってのことだったとも見うけなかったが、その気迫にたよって、立体と組合わさった版画ができた。とにかくばかでかく、こんなあほらしく手のかかる仕事はめったに手がける人はいないだろう。
(磯崎新「版画としての建築」より、『堀内正和・磯崎新展ー西田画廊開廊記念展』図録所収 1982年 奈良・西田画廊刊)>
1985年の東京都庁舎コンペで、師の丹下健三先生に挑んだのも版画(シルクスクリーン)でです。
意識的に版画というメディアを自らの表現手段として選択し40数年間、版画をつくり続けました。
今回、日本経済新聞が注目するまで、美術手帖も、芸術新潮も、磯崎先生の本気の版画制作にまったく無関心でした(涙)。
ブログで「磯崎新の版画」というカテゴリーをつくっています。
ご参照いただければ幸いです。
磯崎先生は逝ってしまいましたが、未完の『百二十の見えない都市』連作は、いずれきちんと発表したいと思います。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

(20230201/日経 文化さんのtwitterより)>
昨日2月1日の日本経済新聞の電子版の「文化往来」に磯崎新先生の版画制作が紹介されました。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD2682E0W3A120C2000000/

磯崎新「MOCA#1」
磯崎新先生が昨年末亡くなられ、呆然としているとき、日本経済新聞の美術担当の編集委員・窪田直子さんから取材のご連絡をいただきました。
「長年のご交流の中での思い出、建築設計以外の版画制作への取り組みなどについて、ぜひお話しいただけませんでしょうか。」というご依頼でした。
2009年に日経で連載された磯崎新先生の「私の履歴書」を担当されたのが窪田さんで、このときの「連載は建築が中心で、それ以外の活動についてあまりご紹介できなかったこともあり、大変興味があります。」とのこと。
お正月早々でしたが、1977年以来、40数年間に制作された版画作品(シルクスクリーン、銅版、リトグラフ、木版)やカタログ、資料などを大急ぎで準備し、取材当日には刷り師の石田了一さんと連刊画文集『栖(すみか)十二』『百二十の見えない都市』を企画・編集された植田実先生、磯崎アトリエOBのFさんにもご参加いただきました。
磯崎版画(シルクスクリーン)のすべてを刷ってきた石田了一さんが撮影していた1983年11月の磯崎先生へのインタビュー映像まで40年ぶりに見ることができました。
●磯崎新インタビュー「なぜ版画をつくるのか/現代版画センター企画・磯崎新全国展のために」
撮影:1983年 撮影者:石田了一
最初から2分50秒あたりまでは1983年11月のGAギャラリーの開館記念・磯崎新展の様子です。その後のインタビューは赤坂の磯崎新アトリエで行われました。
撮影:1983年 撮影者:石田了一
このとき磯崎先生は52歳、聞き手の綿貫は38歳でした。インタビュー後(11分50秒から)は再びGAギャラリーの開館記念・磯崎新展の様子です。
私たちが版元に名乗りを上げ(現代版画センター)、神楽坂時代の磯崎アトリエを初めて訪ねたのは1976年でした。第一作の『ヴィッラ』シリーズ及び大作『空洞としての美術館』の誕生は1977年です。
以来、40数年にわたり、磯崎版画をつくり続けてきました。
現代版画センターと、ときの忘れもののエディションだけで250点を超します。それ以外にも海外のエディション、コンペへの出品作など版画で制作されていましたから総数では500点を優に超すのではないでしょうか。
当初は(今でも)建築家の余技だろうとか、お遊びだろうとか、お前はゼネコンに売り込むつもりかと、散々に言われてきました。
初めてお会いしたときから「俺は海外ではアートオリエンテッド・アーキテクトと言われている」とはっきりアーティストとしての自負をもっておられました。
「俺の建築は100年後には1つも残らないだろう。でも紙は残る」とライトやピラネージの例をあげて断言されていました。
1977年のサンパウロ・ビエンナーレに出品した『空洞としての美術館』連作2点は4m80cmと、3m60cmもの版画の大作です。
このときのコミッショナーは針生一郎先生、
選ばれたのは、松澤宥、工藤哲巳、粟津潔、そして磯崎先生です。
錚々たる現代美術家たちに対抗するメディアとして磯崎先生は私を呼んで版画での出品を選びました。
<有難かったのは、サンパウロ・ビエンナーレの日本代表に突然えらばれながら、どういうメディアで表現しようか、と迷っていたときのことだ。綿貫さんが、それも版画でやったらどうですか、とすすめてくれた。だが、大きい展覧会だから作品も大きくなりますよ、というと、いいですよ、世界最大の版画にしたらいい、と平然たるものだった。必ずしも彼に成算あってのことだったとも見うけなかったが、その気迫にたよって、立体と組合わさった版画ができた。とにかくばかでかく、こんなあほらしく手のかかる仕事はめったに手がける人はいないだろう。
(磯崎新「版画としての建築」より、『堀内正和・磯崎新展ー西田画廊開廊記念展』図録所収 1982年 奈良・西田画廊刊)>
1985年の東京都庁舎コンペで、師の丹下健三先生に挑んだのも版画(シルクスクリーン)でです。
意識的に版画というメディアを自らの表現手段として選択し40数年間、版画をつくり続けました。
今回、日本経済新聞が注目するまで、美術手帖も、芸術新潮も、磯崎先生の本気の版画制作にまったく無関心でした(涙)。
ブログで「磯崎新の版画」というカテゴリーをつくっています。
ご参照いただければ幸いです。
磯崎先生は逝ってしまいましたが、未完の『百二十の見えない都市』連作は、いずれきちんと発表したいと思います。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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