瀧口修造と作家たち ― 私のコレクションより ―
第14回(最終回)「瀧口修造と詩画集」
清家克久
瀧口修造は、戦前に日本で唯一のシュルレアリスム詩画集として、阿部展也(芳文)との共作で『妖精の距離』(1937年10月春鳥会刊)を刊行している。戦後、瀧口の詩(戦前の作品)に6人の作家の版画による『スフィンクス』(久保貞次郎私家版1954年6月刊)が編まれたが、それまで詩集は一冊も出していない。そのことについて、巖谷國士は「画家との共作というかたちでしか、「詩集」というものを考えなかったということか。」(「オマージュ瀧口修造展」カタログ序文1982年7月佐谷画廊刊より)と述べて、そこに瀧口修造の秘密があると暗示している。1960年代以降、時評的な仕事を辞退してからは、内外の著名な画家との詩画集制作が活動の大きな比重を占めることになったのはその表れでもあるだろう。
瀧口は、折にふれて詩と絵画の関係について論じているが、「詩人と画家がそれぞれの個性をすこしも失わず、妥協することなく、ひとつの曲を奏でる、いやひとつのオブジェに化することができれば、それがすばらしい成果といえるだろう。」そして「詩と絵とはつねに貧しいときのパンと水のようなものでなければならないのである。」(「ミロと詩画集」芸術新潮1959年4月初出より、『コレクション瀧口修造』第2巻みすず書房1991年7月刊収録)と詩画集への熱い想いを吐露している。
そこで、私が持っているものでまだ紹介していない瀧口修造の詩画集をここにまとめて取り上げ、この連載の結びとしたい。
「ミロの星とともに」
(1978年平凡社刊、限定500部上製本定価3万9千円)
図版1.
ミロの星とともに(1978年平凡社刊)
上製本
限定500部内第114番
47.5×46×6cm(外函)
図版2.
同上、内函、本冊表紙、別刷仏文訳および奥付
図版3.
同上、内容の一部(全長37.5×576cm)
ジョアン・ミロの挿画の一部を表紙にした段ボール函に黒布織装の夫婦函が収められ、その中には本冊と瀧口のあとがき、仏文のテキスト、一枚刷りの奥付などが入っている。本冊は伸ばすと全長5m76cmの大作である。
ミロとの共作は、『手づくり諺』(ポリグラファ社1970年刊)に続いて二回目である。瀧口修造の日本語の詩による本文の刷り見本をミロの許へ送り、ミロがそれに絵付けした画稿を元に日本の印刷技術の粋を尽くして完成したもので、ミロは「私の情熱を掻きたてた」と手紙に書き、途中から特装本(限定50部)のリトグラフまで制作するという熱の入れようだったことが瀧口のあとがきに紹介されている。日本には古来より文字と絵画が織りなす物語「絵巻」の伝統があるが、瀧口の発案で折本形式が採用され、東西の詩人と画家の稀有の出会いと友情から生まれた記念すべき作品となった。当初、私家版として出す予定であったことから、奥付には編集=東京・磁場、編者=海藤日出男となっており、ここにも『マルセル・デュシャン語録』(1968年私家版)の制作など、常に瀧口の活動を支え協力していた海藤の存在があった。(本書は、私が最初に入手した瀧口修造の詩画集で、書店を経由せず直接出版社に注文した。)
「黄よ。おまえはなぜ」
(1964年11月南画廊刊)
図版4.
黄よ。おまえはなぜ(1964年11月南画廊刊)
紙帙表紙
27.8×38.0cm
図版5.
同上、本文無綴8葉+瀧口修造による英文1葉
1964年11月16日から12月5日にかけて南画廊で開催されたサム・フランシス展のカタログとして刊行された詩画集である。サム・フランシスの絵の中に瀧口の詩がレイアウトされた無綴の原色図版8葉と瀧口の英文詩1葉が紙帙(表紙絵もサム・フランシス)に収められている。サム・フランシスは、1957年の初来日以来瀧口修造が最も親しく交流した外国人画家であり、自著『余白に書く』(1966年5月みすず書房刊)の表紙絵に彼の作品(絵具の飛沫)を使っている。
詩画集制作の動機と経緯について、瀧口は会期中に次のように紹介している。「こんどの個展が決まったとき、急にサム・フランシスから、カタログに自分が絵を描くから、おまえは何か言葉を書かないかという勧誘をうけた。それもお定まりの序文や作家論なぞではなく自分に関係のないショートストーリーでもよいという。絵に賛をするとか、文章にさし絵を描くということはあるが、期日の迫っているこの場合、互いに持ち寄ったものをぶっつけ合うということになるのである。これは画家の絵に関するかぎり、ほとんど絶対の自由のあるスリリングな場である。しかし目下療養中の私として、この限られた時間にできたことは、数日間、画家とともに歩き、あるいは一日独座し自然におもいつく短い言葉を書きつらねることであった。そこには理由もわからぬとっぴな文句も飛びだしてきたが、結局、多くは画家とひそかな関係のある言葉なのであった。警句の恰好をした断片を集めた詩画集ともいえないものだが、言葉は絵の中に散らされ、象嵌されて、形としては前例を見ない画文集「黄よ、おまえは」ができあがった。」(「読売新聞夕刊」1964年11月30日初出、『コレクション瀧口修造』第4巻1993年10月みすず書房刊収録)なお、本書には発行部数や定価の表示がなく、当時は観覧者か関係者しか入手できなかったと思われる。(1985年に東京の古書店から3万9千円で購入)
「星は人の指ほどの──」
(1965年2月野中ユリ私家版、限定250部番号サイン入り)
図版6.
星は人の指ほどの─(1965年2月野中ユリ私家版)
限定250部内72番
サイン入り
表紙12.5×11.4cm
図版7.
同上、内容の一部
図版8.
野中ユリ個展カタログより「不知抄」
1967年9月シロタ画廊刊
未綴12頁の小冊子に野中ユリのデカルコマニーのような水彩画図版4点と瀧口修造の詩が印刷され、後見返しに野中の直筆によるサインと限定番号が入っている。他にも二人による私家版(瀧口が画餅荘と命名した架空の出版社)の詩画集として1967年9月に刊行された『不知抄』があるが、こちらは表紙に偏光板、本文は三枚の雲母板に瀧口の詩を印刷し、光をあてると文字が浮き上がるという無類の造本で、作者だけが所有する限定二部のオブジェ本だ。
野中ユリは「私が物をつくる者として、瀧口修造の詩と最も深く係わることができたのは、いずれも私の私家版限定本として出した「星は人の指ほどの──」(1965)と「不知抄」(1967)を、両方とも私の個展の際に手づくり的に制作したときである。無謀とも思えることだが、二度とも私が本の形体、材質、造本を考え、できればこのような形で詩を入れた本を、とお願いし、瀧口氏がそのイメージを受け入れ、かつ踏み越えて、それぞれ全く志向のちがう本のために新しく詩を書いて下さったのだった。私は割付をし、校正をし、製版印刷には立ち会って、瀧口氏の詩稿をこの手に取って作業をする幸福を二度も持つことができたということになる。」(「宇宙軸はここに」『太陽』特集・瀧口修造のミクロコスモス平凡社1993年4月刊より)と書いている。
限定250部となっているが実際に印刷されたのは百数十部だそうである。(「本の宇宙」展カタログ栃木県立美術館1992年7月刊より)(1986年に東京の古書店から3万9千円で購入)
「自由な手・抄」
(1973年9月ジイキュウ出版社刊、限定500部内特装本100部署名入り定価4千5百円)
図版9.
自由な手・抄
マン・レイ絵 ポール・エリュアール詩 瀧口修造訳(1973年9月ジイキュウ出版社刊)
特装本限定100部内第24番
瀧口修造毛筆署名入り
函と本冊15.4×13.0cm
図版10.
同上、内容の一部(約53頁)
図版11.
自由な手(1937年パリ、ジャンヌ・ビュッシェ版)原書
右表紙左裏表紙
下本文の一部(山中散生「シュルレアリスム資料と回想」(1971年6月美術出版社刊より)
マン・レイの素描とポール・エリュアールの詩による詩画集を瀧口修造が抄訳したものである。瀧口は本書のあとがきで次のように解説している。「マン・レイは1936年から1939年にかけての夏を、南仏ムージャンの質素なホテル「見晴らし荘」(ラ・ヴァスト・オリゾン)に、ピカソやドーラ・マール、ポール・エリュアールとニュッシュ夫人、ローランド・ペンローズなどと一緒に暮すのをつねとしていたが、「自由な手」は主に1936年から37年にかけて、そうした雰囲気のなかで描かれた一連の素描に、エリュアールがひとつひとつ詩を書きおろし、1937年にジャンヌ・ビュッシェ画廊から出版された。訳者は1938年3月号「みづゑ」に一部を紹介したが、今度それに手を加え、さらに若干篇を訳出した。「自由な手」は序のほかに2部からなる54篇の詩と素描の組合せを含み、巻末に一連の肖像が加えられている。この小冊は日本における最初のマン・レイ展(1973年9月、南天子画廊において開催)を記念して、その片鱗をしのぶものである。──訳者記。」
本書は、函および表紙とも白一色の瀧口好みの清楚な装幀で、原書のイメージとは異なっている。特装本の本文用紙には版画用BFK紙が使用され、女性の肌のような滑らかな感触がエロティックな作品に魅力を添えている。戦前の訳から35年の時を経て装いも新たな訳詩画集として甦ったのは、敬愛する画家と詩人へのオマージュに他ならない。(1985年に東京の古書店から2万6千円で購入)
(1975年10月西村画廊刊、限定130部内上装本110部)
図版12.
小球子譚(1975年10月西村画廊刊)
限定130部内上装本第84番
函と本冊
9×8.5×2cm
図版13.
同上、内容の一部
瀧口修造の物語風散文詩と篠原佳尾のサイン入り銅版画13葉(内3葉に手彩色)による未綴19頁の豆本である。篠原佳尾は音楽大学を中退し、加納光於に師事して銅版画を学ぶという異色の経歴と独特な感性を持つ女性作家である。舞踏家の土方巽は「彼女の絵は計り知れぬ性愛のためのデッサンであろう。」(『美貌の青空』1987年1月筑摩書房刊より)と評しているが、この作品でも人体の一部か生殖器官のようなものが描かれている。瀧口の「いつの頃からか、私のなかに、凡そ小指の先ほどの球のようなもの、小球人とでも呼ぶほかないものが住みついてしまったらしい。」という書き出しの物語と重なって、秘め事のようなミニアチュールの世界を醸成している。瀧口は、篠原の個展に寄せて何度か詩を贈っているが、1967年3月銀芳堂画廊のカタログ序文「短い夢」と、1973年12月ギャラリー21刊行の銅版画集『WOHIN』(限定35部)の「瞬くあいだ」があり、本作もその一つである。(1985年に西村画廊から2万円で購入)
(せいけ かつひさ)
■清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。
・清家克久さんの連載エッセイ「瀧口修造と作家たち―私のコレクションより―」は今月が最終回です。
清家克久さんの「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか。
あわせてお読みください。
●本日のお勧め作品は松本竣介です。
松本竣介
《人》
※『松本竣介とその時代』(2011年 大川美術館)P34所収 No.68
c.1946
紙にペン、水彩
Image size: 24.5x17.5cm
Sheet size: 28.0x19.0cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
第14回(最終回)「瀧口修造と詩画集」
清家克久
瀧口修造は、戦前に日本で唯一のシュルレアリスム詩画集として、阿部展也(芳文)との共作で『妖精の距離』(1937年10月春鳥会刊)を刊行している。戦後、瀧口の詩(戦前の作品)に6人の作家の版画による『スフィンクス』(久保貞次郎私家版1954年6月刊)が編まれたが、それまで詩集は一冊も出していない。そのことについて、巖谷國士は「画家との共作というかたちでしか、「詩集」というものを考えなかったということか。」(「オマージュ瀧口修造展」カタログ序文1982年7月佐谷画廊刊より)と述べて、そこに瀧口修造の秘密があると暗示している。1960年代以降、時評的な仕事を辞退してからは、内外の著名な画家との詩画集制作が活動の大きな比重を占めることになったのはその表れでもあるだろう。
瀧口は、折にふれて詩と絵画の関係について論じているが、「詩人と画家がそれぞれの個性をすこしも失わず、妥協することなく、ひとつの曲を奏でる、いやひとつのオブジェに化することができれば、それがすばらしい成果といえるだろう。」そして「詩と絵とはつねに貧しいときのパンと水のようなものでなければならないのである。」(「ミロと詩画集」芸術新潮1959年4月初出より、『コレクション瀧口修造』第2巻みすず書房1991年7月刊収録)と詩画集への熱い想いを吐露している。
そこで、私が持っているものでまだ紹介していない瀧口修造の詩画集をここにまとめて取り上げ、この連載の結びとしたい。
☆
「ミロの星とともに」
(1978年平凡社刊、限定500部上製本定価3万9千円)
図版1.ミロの星とともに(1978年平凡社刊)
上製本
限定500部内第114番
47.5×46×6cm(外函)
図版2.同上、内函、本冊表紙、別刷仏文訳および奥付
図版3.同上、内容の一部(全長37.5×576cm)
ジョアン・ミロの挿画の一部を表紙にした段ボール函に黒布織装の夫婦函が収められ、その中には本冊と瀧口のあとがき、仏文のテキスト、一枚刷りの奥付などが入っている。本冊は伸ばすと全長5m76cmの大作である。
ミロとの共作は、『手づくり諺』(ポリグラファ社1970年刊)に続いて二回目である。瀧口修造の日本語の詩による本文の刷り見本をミロの許へ送り、ミロがそれに絵付けした画稿を元に日本の印刷技術の粋を尽くして完成したもので、ミロは「私の情熱を掻きたてた」と手紙に書き、途中から特装本(限定50部)のリトグラフまで制作するという熱の入れようだったことが瀧口のあとがきに紹介されている。日本には古来より文字と絵画が織りなす物語「絵巻」の伝統があるが、瀧口の発案で折本形式が採用され、東西の詩人と画家の稀有の出会いと友情から生まれた記念すべき作品となった。当初、私家版として出す予定であったことから、奥付には編集=東京・磁場、編者=海藤日出男となっており、ここにも『マルセル・デュシャン語録』(1968年私家版)の制作など、常に瀧口の活動を支え協力していた海藤の存在があった。(本書は、私が最初に入手した瀧口修造の詩画集で、書店を経由せず直接出版社に注文した。)
☆
「黄よ。おまえはなぜ」
(1964年11月南画廊刊)
図版4.黄よ。おまえはなぜ(1964年11月南画廊刊)
紙帙表紙
27.8×38.0cm
図版5.同上、本文無綴8葉+瀧口修造による英文1葉
1964年11月16日から12月5日にかけて南画廊で開催されたサム・フランシス展のカタログとして刊行された詩画集である。サム・フランシスの絵の中に瀧口の詩がレイアウトされた無綴の原色図版8葉と瀧口の英文詩1葉が紙帙(表紙絵もサム・フランシス)に収められている。サム・フランシスは、1957年の初来日以来瀧口修造が最も親しく交流した外国人画家であり、自著『余白に書く』(1966年5月みすず書房刊)の表紙絵に彼の作品(絵具の飛沫)を使っている。
詩画集制作の動機と経緯について、瀧口は会期中に次のように紹介している。「こんどの個展が決まったとき、急にサム・フランシスから、カタログに自分が絵を描くから、おまえは何か言葉を書かないかという勧誘をうけた。それもお定まりの序文や作家論なぞではなく自分に関係のないショートストーリーでもよいという。絵に賛をするとか、文章にさし絵を描くということはあるが、期日の迫っているこの場合、互いに持ち寄ったものをぶっつけ合うということになるのである。これは画家の絵に関するかぎり、ほとんど絶対の自由のあるスリリングな場である。しかし目下療養中の私として、この限られた時間にできたことは、数日間、画家とともに歩き、あるいは一日独座し自然におもいつく短い言葉を書きつらねることであった。そこには理由もわからぬとっぴな文句も飛びだしてきたが、結局、多くは画家とひそかな関係のある言葉なのであった。警句の恰好をした断片を集めた詩画集ともいえないものだが、言葉は絵の中に散らされ、象嵌されて、形としては前例を見ない画文集「黄よ、おまえは」ができあがった。」(「読売新聞夕刊」1964年11月30日初出、『コレクション瀧口修造』第4巻1993年10月みすず書房刊収録)なお、本書には発行部数や定価の表示がなく、当時は観覧者か関係者しか入手できなかったと思われる。(1985年に東京の古書店から3万9千円で購入)
☆
「星は人の指ほどの──」
(1965年2月野中ユリ私家版、限定250部番号サイン入り)
図版6.星は人の指ほどの─(1965年2月野中ユリ私家版)
限定250部内72番
サイン入り
表紙12.5×11.4cm
図版7.同上、内容の一部
図版8.野中ユリ個展カタログより「不知抄」
1967年9月シロタ画廊刊
未綴12頁の小冊子に野中ユリのデカルコマニーのような水彩画図版4点と瀧口修造の詩が印刷され、後見返しに野中の直筆によるサインと限定番号が入っている。他にも二人による私家版(瀧口が画餅荘と命名した架空の出版社)の詩画集として1967年9月に刊行された『不知抄』があるが、こちらは表紙に偏光板、本文は三枚の雲母板に瀧口の詩を印刷し、光をあてると文字が浮き上がるという無類の造本で、作者だけが所有する限定二部のオブジェ本だ。
野中ユリは「私が物をつくる者として、瀧口修造の詩と最も深く係わることができたのは、いずれも私の私家版限定本として出した「星は人の指ほどの──」(1965)と「不知抄」(1967)を、両方とも私の個展の際に手づくり的に制作したときである。無謀とも思えることだが、二度とも私が本の形体、材質、造本を考え、できればこのような形で詩を入れた本を、とお願いし、瀧口氏がそのイメージを受け入れ、かつ踏み越えて、それぞれ全く志向のちがう本のために新しく詩を書いて下さったのだった。私は割付をし、校正をし、製版印刷には立ち会って、瀧口氏の詩稿をこの手に取って作業をする幸福を二度も持つことができたということになる。」(「宇宙軸はここに」『太陽』特集・瀧口修造のミクロコスモス平凡社1993年4月刊より)と書いている。
限定250部となっているが実際に印刷されたのは百数十部だそうである。(「本の宇宙」展カタログ栃木県立美術館1992年7月刊より)(1986年に東京の古書店から3万9千円で購入)
☆
「自由な手・抄」
(1973年9月ジイキュウ出版社刊、限定500部内特装本100部署名入り定価4千5百円)
図版9.自由な手・抄
マン・レイ絵 ポール・エリュアール詩 瀧口修造訳(1973年9月ジイキュウ出版社刊)
特装本限定100部内第24番
瀧口修造毛筆署名入り
函と本冊15.4×13.0cm
図版10.同上、内容の一部(約53頁)
図版11.自由な手(1937年パリ、ジャンヌ・ビュッシェ版)原書
右表紙左裏表紙
下本文の一部(山中散生「シュルレアリスム資料と回想」(1971年6月美術出版社刊より)
マン・レイの素描とポール・エリュアールの詩による詩画集を瀧口修造が抄訳したものである。瀧口は本書のあとがきで次のように解説している。「マン・レイは1936年から1939年にかけての夏を、南仏ムージャンの質素なホテル「見晴らし荘」(ラ・ヴァスト・オリゾン)に、ピカソやドーラ・マール、ポール・エリュアールとニュッシュ夫人、ローランド・ペンローズなどと一緒に暮すのをつねとしていたが、「自由な手」は主に1936年から37年にかけて、そうした雰囲気のなかで描かれた一連の素描に、エリュアールがひとつひとつ詩を書きおろし、1937年にジャンヌ・ビュッシェ画廊から出版された。訳者は1938年3月号「みづゑ」に一部を紹介したが、今度それに手を加え、さらに若干篇を訳出した。「自由な手」は序のほかに2部からなる54篇の詩と素描の組合せを含み、巻末に一連の肖像が加えられている。この小冊は日本における最初のマン・レイ展(1973年9月、南天子画廊において開催)を記念して、その片鱗をしのぶものである。──訳者記。」
本書は、函および表紙とも白一色の瀧口好みの清楚な装幀で、原書のイメージとは異なっている。特装本の本文用紙には版画用BFK紙が使用され、女性の肌のような滑らかな感触がエロティックな作品に魅力を添えている。戦前の訳から35年の時を経て装いも新たな訳詩画集として甦ったのは、敬愛する画家と詩人へのオマージュに他ならない。(1985年に東京の古書店から2万6千円で購入)
☆
「小球子譚」(1975年10月西村画廊刊、限定130部内上装本110部)
図版12.小球子譚(1975年10月西村画廊刊)
限定130部内上装本第84番
函と本冊
9×8.5×2cm
図版13.同上、内容の一部
瀧口修造の物語風散文詩と篠原佳尾のサイン入り銅版画13葉(内3葉に手彩色)による未綴19頁の豆本である。篠原佳尾は音楽大学を中退し、加納光於に師事して銅版画を学ぶという異色の経歴と独特な感性を持つ女性作家である。舞踏家の土方巽は「彼女の絵は計り知れぬ性愛のためのデッサンであろう。」(『美貌の青空』1987年1月筑摩書房刊より)と評しているが、この作品でも人体の一部か生殖器官のようなものが描かれている。瀧口の「いつの頃からか、私のなかに、凡そ小指の先ほどの球のようなもの、小球人とでも呼ぶほかないものが住みついてしまったらしい。」という書き出しの物語と重なって、秘め事のようなミニアチュールの世界を醸成している。瀧口は、篠原の個展に寄せて何度か詩を贈っているが、1967年3月銀芳堂画廊のカタログ序文「短い夢」と、1973年12月ギャラリー21刊行の銅版画集『WOHIN』(限定35部)の「瞬くあいだ」があり、本作もその一つである。(1985年に西村画廊から2万円で購入)
(せいけ かつひさ)
■清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。
・清家克久さんの連載エッセイ「瀧口修造と作家たち―私のコレクションより―」は今月が最終回です。
清家克久さんの「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか。
あわせてお読みください。
●本日のお勧め作品は松本竣介です。
松本竣介《人》
※『松本竣介とその時代』(2011年 大川美術館)P34所収 No.68
c.1946
紙にペン、水彩
Image size: 24.5x17.5cm
Sheet size: 28.0x19.0cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
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