アートのための場所づくり 1970年代から90年代の群馬におけるアートスペース
田中龍也(群馬県立近代美術館 学芸員)
群馬県立近代美術館では、4月9日まで、企画展示「アートのための場所づくり 1970年代から90年代の群馬におけるアートスペース」を開催しています。この展覧会では、1970年代から90年代にかけて群馬県内で活動した5つのアートスペース——煥乎堂ギャラリィ、ぐんまアートセンター、コンセプトスペース、アートハウス、北関東造形美術館——を取り上げ、関連する作品や資料によりそれぞれの成り立ちから活動の展開までをたどり、実施してきた展覧会・イベントを総覧することで、それぞれの活動の実態を明らかにすることを目的としています。当館では2016年に開催した「群馬NOMOグループの全貌」展で、60年代、前橋を拠点に活動した前衛美術家集団を取り上げましたが、今回はそれに続く時代の群馬における美術動向を検証しようとするものです。
この時代、群馬県内には美術館や画廊、市民ギャラリーなどが次々に設立され、それぞれが活動方針をかかげ、役割分担をしつつもお互いに影響を与え合いながら活動する状況が生まれてきました。したがって本展では、作家たちが集い、作品を発表し、観客と交流する「場所」に着目し、運営体制や活動方針を踏まえつつ、いかにして県内で活動する作家たちに影響を与え、群馬の美術をめぐる状況に変化をもたらしてきたか、今後の研究にも資するように基礎データの収集・記録に重点を置きました。
1 煥乎堂ギャラリィ

展覧会は、設立順にスペースごとの5章立てとしています。まず第1章は、明治初期に創業され、今も前橋で営業を続ける書店、煥乎堂が運営していた「煥乎堂ギャラリィ」です。煥乎堂では古くから店内で展覧会等を開催しており、確認できる最も古い記録は1938年まで遡ることができます。70年代に本格的な展示スペースが整備され「煥乎堂ギャラリィ」と名乗るようになってからは、年間を通して多種多様な展覧会が開催されました。とりわけ県内で活躍する重鎮作家をセレクトし新春企画として毎年開催されていた「煥乎堂美術展」や、若手作家や現代美術に取り組む作家を取り上げた「煥乎堂創作美術展」といったシリーズ展は、地元作家に作品発表の場を提供し、また作品販売によって作家を支え、他方で作品を鑑賞し購入する観客を育てることで、地域文化を支えました。2005年に経営改革の一環としてギャラリィは閉じられますが、煥乎堂は20世紀後半を通して展覧会や文藝講座、美術講座、コンサートや映画鑑賞会などを開催し続け、多様な表現者とその受容者が集い交流する場を提供していました。その活動を支えたのが、65年煥乎堂に入社し、以後展覧会・イベント企画の責任者となる岡田芳保(1937- )でした。少年時代からフランス文学等に傾倒し、自ら詩作も行う岡田はこの頃「アクションポエムの会」を結成して街頭でゲリラ的に詩を配るなどの活動を展開し、また66年から67年にかけて群馬NOMOグループと共催で討論会や講演会を開催しています。岡田の文学的素養と好奇心に基づいた幅広い交友関係が、煥乎堂ギャラリィの多彩な企画の背後にあったと言えます。
2 ぐんまアートセンター

群馬NOMOグループは1960年代、金子英彦(1924-2010)が運営するやまだや画廊を拠点に活動を続けてきましたが、70年以降活動を休止します。やまだや画廊は62年、金子が県下唯一の本格的企画画廊をうたい前橋駅前に開業し、64年からは県庁前通りの前橋ビル内にスペースを構えていましたが、金子が画廊を閉めることを決めた74年、藤森勝次(1940- )や品田静男(1940-1999)らが中心となり作家による共同運営という形でそのスペースを引き継いだのが「ぐんまアートセンター」です。その特徴は、「理事」と呼ばれる会員の会費によって運営されたことと、美術作家に限らず工芸、デザイン、写真など幅広い分野のクリエーターが参加していたことです。団体展や群馬県美術展覧会(県展)とは距離を置く若い作家たちは、自由に展示できる場所の確保を目指して「ぐんまアートセンターギャラリー」を開設し、理事には年1回、展覧会を開催できる権利が与えられました。その他にも様々な企画展やグループ展が開催され、異分野の作家たちが相互に刺激を与え合いながら活動を展開しました。美術の分野では、当時の動向を反映して、また決して広くない会場の制約もあり、版画に取り組む作家が多く見られました。また、「版画」や「写真」、「環境芸術」など様々なテーマで頻繁に座談会も開催し、その模様は新聞や、75年11月に機関誌として創刊された『ぐんまアートセンターニュース』に記録されています。ぐんまアートセンターの活動は、80年6月22日の解散会(式)をもって終了します。6年間と短命に終わりましたが、当時主に30代だった参加作家たちは、以後それぞれの分野で活躍していきます。彼らにとって、ここは揺籃の場であり、実験の場であったと言えるでしょう。
3 コンセプトスペース

1980年代に入ると、群馬県内には新しい世代が台頭します。福田篤夫(1958- )は82年、自らが住む長屋を使って渋川に「コンセプトスペース」を立ち上げ、生活、制作、企画、展示を同一地平で行い、身近な生活空間から現代の美術状況を考えることを目的に、現在まで既成の美術にとらわれない視点で国内外の現代美術作家の個展等を企画し続けています。85年、渋川市総合公園を会場に「しぶかわ野外美術展」を企画し、87年からは「渋川現代彫刻トリエンナーレ」として3年おきに規模を拡大しながら93年まで開催したことは、当時としては画期的なことでした。89年4月から93年末までは、美術予備校である高崎美術学院内に設置された「コンセプトスペースR2」を使いコンセプトスペースと連動した展覧会を企画、2006年にはコンセプトスペース隣の長屋を新たに借り受けて「コンセプトスペース/R2」を開設、さらに07年からは渋川の美術予備校、田中アートプログラム内に設けられたAIS Galleryの企画も行っています。その他、明治期に迎賓館として建てられた前橋の臨江閣(2018年国指定重要文化財)を会場とした「数寄者達-琳派以後の方法-」展(99年から断続的に2015年まで)や、群馬セキスイハイムが運営する「ライフ アップ スクエア アイズ」(前橋)を会場とした「開かれた偏見のない眼=心展」(2012~18年)など、福田は幅広く展示スペースを求め、それぞれの場所の歴史・特徴を活かした企画を実現しています。
4 アートハウス

1987年沼田で活動を始めた「アートハウス」は、吉田富久一(1953- )を中心とした運営会メンバーがそれぞれ展覧会などを企画・実施するという体制で、高崎、前橋と場所を移しながら活発に活動しました。沼田時代は松井写真館3階の空きスペースを改装してスタジオ兼ギャラリーとして美術教室の収益により展覧会などの企画を実施し、90年高崎に移ってからは会則「ようこそ“アートハウス”へ」を制定し会員制の組織として再結成され、運営会を構成する会員の会費によって運営する体制となりました。92年7月には『アートハウスニュース』を創刊、活動の告知や報告、展評などを掲載し、以後2、3ヶ月ごとに発行します。95年、前年「コミュニケーションハウス ノイエス朝日」を前橋にオープンした朝日印刷工業とアートハウスの間で、96年から2000年までの5年間、ノイエス朝日を会場に毎年3回の企画展をアートハウスが企画するという契約が交わされました。以後アートハウスはギャラリー機能をノイエス朝日に移し、さらに活発に展覧会を企画していきます。98年には活動開始10年を記念して「アートハウスの10年」展を開催し、あわせて多方面の関係者からの寄稿とアートハウスの活動記録をまとめた冊子『ようこそ“アートハウス”へ』を出版しています。またアートハウスは活動の初期から各地の芸術・文化発信者あるいは機関との連携を試みており、99年には金沢市民芸術村アート工房を会場に「アートハウスワールド01 メディアトランスファー:媒介するもの」展を企画・実施しました。2001年以降展示スペースを失ったアートハウスは、有鄰館(桐生)で展覧会を開催し、02年には東京で定例会を数回開催しましたが、以後活動を休止しています。
5 北関東造形美術館

1963年に品田静男が創設した品田デザイン研究所に起源を持つ北関東造形美術専門学校は、92年、前橋市石関町に新キャンパスを建設し、校内に北関東造形美術館を開館しました。以後同館では、白川昌生(1948- )を中心とした「場所・群馬」による展覧会、そして海外、主にヨーロッパから招聘した作家の個展が次々と開催されていきます。89年から北関東造形美術専門学校で教鞭を執っていた白川は93年夏、「場所・群馬」成立宣言を行い、国境を越えた美術の普遍化、システムの画一化に異議を唱え、それぞれの「場所」で作家が生み出す美術の特異性や落差、屈折に価値を見出すべきと訴えました。翌94年から98年まで毎年、計5回の「場所・群馬」展が同館で開催されています。また「場所・群馬」の活動開始と時を同じくして、地元の上毛新聞社が「近代化遺産保存活用キャンペーン」を開始、その一環として同社と北関東造形美術館の共催により、94年秋、臨江閣を会場として「場所・群馬-他者のまなざし展-」が開催されました。翌95年からは「臨江閣プロジェクト」と銘打たれ、98年まで毎年秋に臨江閣を会場に展覧会が続けられました。一方、海外作家を紹介する展覧会も同じ94年から始まり、美術評論家の小倉正史(1934-2020)がコミッショナーを務めて9月に「サルキス展」、11月に「カトリーヌ・ボーグラン展」が開催され、その後も「ギュンター・ウッカー展」や、交換留学を行っていたフランス国立セルジ=ポントワーズ美術学校に関係する作家の展覧会などが年に1、2回のペースで開催されていきます。その他、より広く地域の作家たちに参加を促した「群馬アンデパンダン展」の開催(1994、96、98年)や、商店街の空きスペースを活用した「街のコミュニケーションギャラリー・るんかい」の開設(97年)など、特質すべき活動を行いましたが、98年に小倉、99年に白川が相次いで同校を離れたことで同館は活動を縮小し、2001年に閉館しました。
この時代、1974年開館の群馬県立近代美術館をはじめ公立美術館も次々とつくられましたが、美術館ではカバーしきれない同時代の動向を取り上げ、作家の最新の作品を発表する場所を提供してきたのがこれらのスペースと言えます。今回紹介できなかったものも含め、それらの総体が地域における美術活動を形作ってきたのです。
東京を中心とした従来の美術史では語られることのなかった地域における美術活動を調査し美術史を紡ぐ作業は近年各地で進んでいます。県立美術館として、群馬における美術活動を調査し、記録していくことは、当館に課された重要な使命のひとつです。本展では1970年代から90年代までを取り上げましたが、それに続く時代、あるいは先行する時代について、今後も調査を続けていきたいと思っています。
(たなか たつや)
※文中の写真は全て本展会場風景[筆者撮影]
■田中龍也(たなか・たつや)
群馬県立近代美術館学芸員
1971年生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業後、98年より現職。近年の主な企画展に「群馬の美術2017-地域社会における現代美術の居場所」(2017年)、「長島有里枝×竹村京「まえといま」」(2019年)、「絵画のミカタ-5人のアーティストとみる群馬県立近代美術館のコレクション」(2020年)がある。
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「アートのための場所づくり 1970年代から90年代の群馬におけるアートスペース」
会期:2023年1月21日(土)~4月9日(日)
会場:群馬県立近代美術館(群馬県高崎市綿貫町992-1)
展覧会チラシ(クリックを二度すると拡大されます)


出品リスト(クリックを二度すると拡大されます)




●『アートのための場所づくり 1970年代から90年代の群馬におけるアートスペース』図録
展覧会会期=2023年1月21日―4月9日
発行:2023年2月17日
企画・監修:群馬県立近代美術館
執筆:染谷滋、井上康彦、田中龍也
編集:田中龍也
デザイン:木村稔将、阿部原己(Tanuki)
体裁:25.6×18.5cm、208頁
発行:(株)ライブアートブックス
価格:2,800円(税込)+送料370円
ときの忘れもので扱っています。
目次(画面を二度クリックすると拡大されます)
*画廊亭主敬白
<いつも案内ありがとうございます。
70年代後半の群馬アートセンターの活動がとりあげられました。当時現代版画センターとのつながりもあり青海、尾崎両氏によるオークションもあった記憶があります。
当時のシルクの作品を出品しております。
いつもご無沙汰で申しわけありません、お詫びまで 内堀進>
亭主は群馬の山間の名久田村(現・中之条町)に生まれ、幼時は温泉町の草津で、小学校、中学校は浅間山麓の嬬恋村で過ごしました。高崎高校に入学したときは、なんて凄い大都会に来たかとカルチャーショックでした。
今回の展覧会を知らせてくれた内堀進さん、煥乎堂の岡田芳保さん、ぐんまアートセンターの金子英彦さん、品田静男さん、藤森勝次さん、前島芳隆さんはいずれも現代版画センターの活動を支えてくださった恩人です。
前橋や高崎で、幾度も展覧会や頒布会、オークションを開催し、故郷の皆さんに助けていただきました。彼らの活動の軌跡を熱心な学芸員たちが掘り起こし、検証と顕彰の動きとなったことに感慨を新たにしています。特にカタログは労作です。
内堀進さんからお知らせをいただき、倉庫を探索し半世紀前の金子英彦さんの作品を見つけることができたのでご紹介します。
金子英彦
「10センチ・10センチのあかとしろの正方形による作品3×3」
1977年
アクリル、シルクスクリーン・木
サイズ:45:8×45.8×厚さ3.5cm
裏にサインと年記あり
金子英彦(作品・赤)
アクリル、シルクスクリーン・木
サイズ:31.3×31.1×厚さ4.0cm
金子英彦(作品・青)
アクリル、シルクスクリーン・木
サイズ:31.1×31.3×厚さ4.0cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
金子英彦さんの略歴は同展図録194頁より再録、引用しました。
田中龍也(群馬県立近代美術館 学芸員)
群馬県立近代美術館では、4月9日まで、企画展示「アートのための場所づくり 1970年代から90年代の群馬におけるアートスペース」を開催しています。この展覧会では、1970年代から90年代にかけて群馬県内で活動した5つのアートスペース——煥乎堂ギャラリィ、ぐんまアートセンター、コンセプトスペース、アートハウス、北関東造形美術館——を取り上げ、関連する作品や資料によりそれぞれの成り立ちから活動の展開までをたどり、実施してきた展覧会・イベントを総覧することで、それぞれの活動の実態を明らかにすることを目的としています。当館では2016年に開催した「群馬NOMOグループの全貌」展で、60年代、前橋を拠点に活動した前衛美術家集団を取り上げましたが、今回はそれに続く時代の群馬における美術動向を検証しようとするものです。
この時代、群馬県内には美術館や画廊、市民ギャラリーなどが次々に設立され、それぞれが活動方針をかかげ、役割分担をしつつもお互いに影響を与え合いながら活動する状況が生まれてきました。したがって本展では、作家たちが集い、作品を発表し、観客と交流する「場所」に着目し、運営体制や活動方針を踏まえつつ、いかにして県内で活動する作家たちに影響を与え、群馬の美術をめぐる状況に変化をもたらしてきたか、今後の研究にも資するように基礎データの収集・記録に重点を置きました。
1 煥乎堂ギャラリィ

展覧会は、設立順にスペースごとの5章立てとしています。まず第1章は、明治初期に創業され、今も前橋で営業を続ける書店、煥乎堂が運営していた「煥乎堂ギャラリィ」です。煥乎堂では古くから店内で展覧会等を開催しており、確認できる最も古い記録は1938年まで遡ることができます。70年代に本格的な展示スペースが整備され「煥乎堂ギャラリィ」と名乗るようになってからは、年間を通して多種多様な展覧会が開催されました。とりわけ県内で活躍する重鎮作家をセレクトし新春企画として毎年開催されていた「煥乎堂美術展」や、若手作家や現代美術に取り組む作家を取り上げた「煥乎堂創作美術展」といったシリーズ展は、地元作家に作品発表の場を提供し、また作品販売によって作家を支え、他方で作品を鑑賞し購入する観客を育てることで、地域文化を支えました。2005年に経営改革の一環としてギャラリィは閉じられますが、煥乎堂は20世紀後半を通して展覧会や文藝講座、美術講座、コンサートや映画鑑賞会などを開催し続け、多様な表現者とその受容者が集い交流する場を提供していました。その活動を支えたのが、65年煥乎堂に入社し、以後展覧会・イベント企画の責任者となる岡田芳保(1937- )でした。少年時代からフランス文学等に傾倒し、自ら詩作も行う岡田はこの頃「アクションポエムの会」を結成して街頭でゲリラ的に詩を配るなどの活動を展開し、また66年から67年にかけて群馬NOMOグループと共催で討論会や講演会を開催しています。岡田の文学的素養と好奇心に基づいた幅広い交友関係が、煥乎堂ギャラリィの多彩な企画の背後にあったと言えます。
2 ぐんまアートセンター

群馬NOMOグループは1960年代、金子英彦(1924-2010)が運営するやまだや画廊を拠点に活動を続けてきましたが、70年以降活動を休止します。やまだや画廊は62年、金子が県下唯一の本格的企画画廊をうたい前橋駅前に開業し、64年からは県庁前通りの前橋ビル内にスペースを構えていましたが、金子が画廊を閉めることを決めた74年、藤森勝次(1940- )や品田静男(1940-1999)らが中心となり作家による共同運営という形でそのスペースを引き継いだのが「ぐんまアートセンター」です。その特徴は、「理事」と呼ばれる会員の会費によって運営されたことと、美術作家に限らず工芸、デザイン、写真など幅広い分野のクリエーターが参加していたことです。団体展や群馬県美術展覧会(県展)とは距離を置く若い作家たちは、自由に展示できる場所の確保を目指して「ぐんまアートセンターギャラリー」を開設し、理事には年1回、展覧会を開催できる権利が与えられました。その他にも様々な企画展やグループ展が開催され、異分野の作家たちが相互に刺激を与え合いながら活動を展開しました。美術の分野では、当時の動向を反映して、また決して広くない会場の制約もあり、版画に取り組む作家が多く見られました。また、「版画」や「写真」、「環境芸術」など様々なテーマで頻繁に座談会も開催し、その模様は新聞や、75年11月に機関誌として創刊された『ぐんまアートセンターニュース』に記録されています。ぐんまアートセンターの活動は、80年6月22日の解散会(式)をもって終了します。6年間と短命に終わりましたが、当時主に30代だった参加作家たちは、以後それぞれの分野で活躍していきます。彼らにとって、ここは揺籃の場であり、実験の場であったと言えるでしょう。
3 コンセプトスペース

1980年代に入ると、群馬県内には新しい世代が台頭します。福田篤夫(1958- )は82年、自らが住む長屋を使って渋川に「コンセプトスペース」を立ち上げ、生活、制作、企画、展示を同一地平で行い、身近な生活空間から現代の美術状況を考えることを目的に、現在まで既成の美術にとらわれない視点で国内外の現代美術作家の個展等を企画し続けています。85年、渋川市総合公園を会場に「しぶかわ野外美術展」を企画し、87年からは「渋川現代彫刻トリエンナーレ」として3年おきに規模を拡大しながら93年まで開催したことは、当時としては画期的なことでした。89年4月から93年末までは、美術予備校である高崎美術学院内に設置された「コンセプトスペースR2」を使いコンセプトスペースと連動した展覧会を企画、2006年にはコンセプトスペース隣の長屋を新たに借り受けて「コンセプトスペース/R2」を開設、さらに07年からは渋川の美術予備校、田中アートプログラム内に設けられたAIS Galleryの企画も行っています。その他、明治期に迎賓館として建てられた前橋の臨江閣(2018年国指定重要文化財)を会場とした「数寄者達-琳派以後の方法-」展(99年から断続的に2015年まで)や、群馬セキスイハイムが運営する「ライフ アップ スクエア アイズ」(前橋)を会場とした「開かれた偏見のない眼=心展」(2012~18年)など、福田は幅広く展示スペースを求め、それぞれの場所の歴史・特徴を活かした企画を実現しています。
4 アートハウス

1987年沼田で活動を始めた「アートハウス」は、吉田富久一(1953- )を中心とした運営会メンバーがそれぞれ展覧会などを企画・実施するという体制で、高崎、前橋と場所を移しながら活発に活動しました。沼田時代は松井写真館3階の空きスペースを改装してスタジオ兼ギャラリーとして美術教室の収益により展覧会などの企画を実施し、90年高崎に移ってからは会則「ようこそ“アートハウス”へ」を制定し会員制の組織として再結成され、運営会を構成する会員の会費によって運営する体制となりました。92年7月には『アートハウスニュース』を創刊、活動の告知や報告、展評などを掲載し、以後2、3ヶ月ごとに発行します。95年、前年「コミュニケーションハウス ノイエス朝日」を前橋にオープンした朝日印刷工業とアートハウスの間で、96年から2000年までの5年間、ノイエス朝日を会場に毎年3回の企画展をアートハウスが企画するという契約が交わされました。以後アートハウスはギャラリー機能をノイエス朝日に移し、さらに活発に展覧会を企画していきます。98年には活動開始10年を記念して「アートハウスの10年」展を開催し、あわせて多方面の関係者からの寄稿とアートハウスの活動記録をまとめた冊子『ようこそ“アートハウス”へ』を出版しています。またアートハウスは活動の初期から各地の芸術・文化発信者あるいは機関との連携を試みており、99年には金沢市民芸術村アート工房を会場に「アートハウスワールド01 メディアトランスファー:媒介するもの」展を企画・実施しました。2001年以降展示スペースを失ったアートハウスは、有鄰館(桐生)で展覧会を開催し、02年には東京で定例会を数回開催しましたが、以後活動を休止しています。
5 北関東造形美術館

1963年に品田静男が創設した品田デザイン研究所に起源を持つ北関東造形美術専門学校は、92年、前橋市石関町に新キャンパスを建設し、校内に北関東造形美術館を開館しました。以後同館では、白川昌生(1948- )を中心とした「場所・群馬」による展覧会、そして海外、主にヨーロッパから招聘した作家の個展が次々と開催されていきます。89年から北関東造形美術専門学校で教鞭を執っていた白川は93年夏、「場所・群馬」成立宣言を行い、国境を越えた美術の普遍化、システムの画一化に異議を唱え、それぞれの「場所」で作家が生み出す美術の特異性や落差、屈折に価値を見出すべきと訴えました。翌94年から98年まで毎年、計5回の「場所・群馬」展が同館で開催されています。また「場所・群馬」の活動開始と時を同じくして、地元の上毛新聞社が「近代化遺産保存活用キャンペーン」を開始、その一環として同社と北関東造形美術館の共催により、94年秋、臨江閣を会場として「場所・群馬-他者のまなざし展-」が開催されました。翌95年からは「臨江閣プロジェクト」と銘打たれ、98年まで毎年秋に臨江閣を会場に展覧会が続けられました。一方、海外作家を紹介する展覧会も同じ94年から始まり、美術評論家の小倉正史(1934-2020)がコミッショナーを務めて9月に「サルキス展」、11月に「カトリーヌ・ボーグラン展」が開催され、その後も「ギュンター・ウッカー展」や、交換留学を行っていたフランス国立セルジ=ポントワーズ美術学校に関係する作家の展覧会などが年に1、2回のペースで開催されていきます。その他、より広く地域の作家たちに参加を促した「群馬アンデパンダン展」の開催(1994、96、98年)や、商店街の空きスペースを活用した「街のコミュニケーションギャラリー・るんかい」の開設(97年)など、特質すべき活動を行いましたが、98年に小倉、99年に白川が相次いで同校を離れたことで同館は活動を縮小し、2001年に閉館しました。
この時代、1974年開館の群馬県立近代美術館をはじめ公立美術館も次々とつくられましたが、美術館ではカバーしきれない同時代の動向を取り上げ、作家の最新の作品を発表する場所を提供してきたのがこれらのスペースと言えます。今回紹介できなかったものも含め、それらの総体が地域における美術活動を形作ってきたのです。
東京を中心とした従来の美術史では語られることのなかった地域における美術活動を調査し美術史を紡ぐ作業は近年各地で進んでいます。県立美術館として、群馬における美術活動を調査し、記録していくことは、当館に課された重要な使命のひとつです。本展では1970年代から90年代までを取り上げましたが、それに続く時代、あるいは先行する時代について、今後も調査を続けていきたいと思っています。
(たなか たつや)
※文中の写真は全て本展会場風景[筆者撮影]
■田中龍也(たなか・たつや)
群馬県立近代美術館学芸員
1971年生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業後、98年より現職。近年の主な企画展に「群馬の美術2017-地域社会における現代美術の居場所」(2017年)、「長島有里枝×竹村京「まえといま」」(2019年)、「絵画のミカタ-5人のアーティストとみる群馬県立近代美術館のコレクション」(2020年)がある。
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「アートのための場所づくり 1970年代から90年代の群馬におけるアートスペース」
会期:2023年1月21日(土)~4月9日(日)
会場:群馬県立近代美術館(群馬県高崎市綿貫町992-1)
展覧会チラシ(クリックを二度すると拡大されます)


出品リスト(クリックを二度すると拡大されます)




●『アートのための場所づくり 1970年代から90年代の群馬におけるアートスペース』図録
展覧会会期=2023年1月21日―4月9日発行:2023年2月17日
企画・監修:群馬県立近代美術館
執筆:染谷滋、井上康彦、田中龍也
編集:田中龍也
デザイン:木村稔将、阿部原己(Tanuki)
体裁:25.6×18.5cm、208頁
発行:(株)ライブアートブックス
価格:2,800円(税込)+送料370円
ときの忘れもので扱っています。
目次(画面を二度クリックすると拡大されます)*画廊亭主敬白
<いつも案内ありがとうございます。
70年代後半の群馬アートセンターの活動がとりあげられました。当時現代版画センターとのつながりもあり青海、尾崎両氏によるオークションもあった記憶があります。
当時のシルクの作品を出品しております。
いつもご無沙汰で申しわけありません、お詫びまで 内堀進>
亭主は群馬の山間の名久田村(現・中之条町)に生まれ、幼時は温泉町の草津で、小学校、中学校は浅間山麓の嬬恋村で過ごしました。高崎高校に入学したときは、なんて凄い大都会に来たかとカルチャーショックでした。
今回の展覧会を知らせてくれた内堀進さん、煥乎堂の岡田芳保さん、ぐんまアートセンターの金子英彦さん、品田静男さん、藤森勝次さん、前島芳隆さんはいずれも現代版画センターの活動を支えてくださった恩人です。
前橋や高崎で、幾度も展覧会や頒布会、オークションを開催し、故郷の皆さんに助けていただきました。彼らの活動の軌跡を熱心な学芸員たちが掘り起こし、検証と顕彰の動きとなったことに感慨を新たにしています。特にカタログは労作です。
内堀進さんからお知らせをいただき、倉庫を探索し半世紀前の金子英彦さんの作品を見つけることができたのでご紹介します。
金子英彦「10センチ・10センチのあかとしろの正方形による作品3×3」
1977年
アクリル、シルクスクリーン・木
サイズ:45:8×45.8×厚さ3.5cm
裏にサインと年記あり
金子英彦(作品・赤)アクリル、シルクスクリーン・木
サイズ:31.3×31.1×厚さ4.0cm
金子英彦(作品・青)アクリル、シルクスクリーン・木
サイズ:31.1×31.3×厚さ4.0cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
金子英彦さんの略歴は同展図録194頁より再録、引用しました。
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