平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき

その25 なみが帰ってこない

文・写真 平嶋彰彦


 昨年の8月29日、夏の間ほったらかしにしていた庭の手入れをした。そのときに撮った写真がph1~ph3である。前回の連載エッセイで、わが家の小さな庭と飼いネコについて触れることがあった。写真ph1をご覧いただきたい。庭と通りの境に雑然と植えたイチジク、サンショウ、キンカン、ノウゼンカズラなどが勝手放題に枝を伸ばしている。
 写真ph2、ph3のネコは、わが家の飼いネコである。名前はなみで、生後11カ月。家の中に閉じ込めておくのはかわいそうなので、妻と私の目の届くときは庭で遊ばせていた。この日はいつもとようすが違うせいか、木陰にじっとすわったまま、私のすることをおとなしく眺めていた。

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ph1 手入れ前の庭。2022.08.29 8:36am

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ph2 なみ。2022.08.29 1;17pm

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ph3 手入れ後の庭となみ。2022.08.29 3:42pm

 それから6日後の9月4日、私が外出から帰ると、なみが玄関に出てこない。妻と息子が2人そろって浮かない顔をしていた。なみが目を離したすきに逃げ出したまま帰ってこない。近所を捜しまわったがどこにもいない。かれこれ5時間になる。というのである。
 これまでもネコは飼ってきた。逃げ出しても、たいてい1時間か2時間もすれば帰ってくる。迷子になって家に帰れなくなったか、そうでなければ、連れ去られたのである。
 翌日の夜明けから捜索を始め、習志野市役所と習志野警察にも失踪届を出した。
 すると、どこで知ったのか、同じマンションに住むご夫婦が、捜索願のポスターをつくってくれるという。近くの動物病院とコンビニに貼らせてもらいましょうといい、その手配までしてくれた。ご夫婦は野良ネコの世話をするグループのメンバーで、近くには同じようなグループが2つもあるとのこと。そちらへも連絡し協力を頼んでくれるという。
 これも前回の連載で書いているが、近所の一戸建てにやはり野良ネコの世話をしている私と同年配のご夫婦が住んでいる。同じグループのメンバーである。そのご主人が、迷いネコを捕まえるのに役立つかも知れないということで、どこからか動物用の捕獲機を借りてきてくれた。溺れる者は藁をもつかむの諺を絵に描いたように、捕獲機は専用駐車場の庭への出入口に仕掛けることにした。
 そのいっぽうで、私は私なりに捜査の協力を頼むチラシをつくった。近くにあるカメラのキタムラで、なみの近影をサービスサイズで60枚プリント(ph4)、写真の裏には彼女の特徴と連絡先などを書いた下記のメモを貼りつけた。

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ph4 捜索願に使ったなみの肖像。2022.08.21

〇ネコを捜しています
9月4日午後3時ごろより行方不明に
名前…なみ/種類…ノルウェージャンフォレストキャット/性別…メス/年齢…11カ月/体重…4キロ
特徴…①体の色が白・黒・茶の三毛/②水色の首輪をつけている/③しっぽは長くて太い/⓸目は茶色がかった黄色で、大きい/⑤耳の内側に長い毛が生えている
(後略)

 9月に入ったばかりで、30度を超える猛暑が毎日のように続いていた。捜す時間は昼間ではなく、朝と夕方に集中することにし、捜す範囲も近場から始めて、放射状に広げていった。私の住むマンションの周りは一戸建ての多い新興住宅地である。塀に囲まれ庭の見えないような家は少ない。人通りもそれなりにある。いっぷう変わったネコだから、見かけたら印象に残るはずである。
 一軒々々表からも裏からもしらみつぶしに覗いてまわった。脈のありそうな人には、写真とメモを渡し、見かけたら連絡して欲しいと頼んでいった。しかし、2日、3日と捜し回ってみたが、なみは見つからなかった。というよりも、これといった手がかりがまったく得られなかった。そもそも目撃した者が誰1人としていないのである。
 失踪して5日目になる9月8日、息子が会社勤めに、妻がダンスのサークルに出かけたあと、船橋東警察署(船橋市習志野台)から電話がかかってきた。ネコを捕獲して預かっているのだが、お宅から失踪届の出ているネコとよく似ているというのである。
 こちらから問い返すと、見つかった場所は三山(船橋市)で、私の家からおよそ3キロも距離がある。それも保護しているのは1匹ではなく、2匹だという。2匹で仲よく遊んでいるところを捕獲されたらしい。
 どういうことなのかなんとなく腑に落ちない。しかし、白・黒・茶の三毛で、水色の首輪をしている。体つきは大柄で、しっぽが長くて太いとのことである。だとすれば、わが家のなみにまず間違いないように思われた。
 ところが警察へ引き取りに出かけると、これがとんでもないネコ違いだった。特徴は確かに電話で確認した通りである。しかし、大柄といっても中途半端でない。7キロか8キロ近くありそうな巨体で、無宿無頼の太々しい面構えで私を睨みつけた。
 家に戻って意気消沈していると、窓の外で物音がする。なんだろうと思って、行ってみると庭の入口に置いた捕獲機の柵が閉じていた。何かが掛かったのである。覆っていた毛布を外すと、檻のなかでネコが暴れていた。近所でよく見かける野良の三毛ネコだった。
 その日の夕方のことである。私が空振りの捜索から戻るとまもなく、息子が帰ってきて、玄関の扉を開けるなり、「どこかでネコの鳴き声が聞こえる。外に出て確かめてくれないか」と私を呼ぶ。場所はマンション裏側の立体駐車場の付近だが、「捜してもなにもいない。ただの幻聴かもしれない」とのことである。
 幻聴かどうかはともかく、はじめての手掛かりらしい手掛かりである。そこで、息子には1階から上の居住部分を捜してもらい、私は立体駐車場を見直すことにした。私が「なみちゃん、なみちゃん」と大きな声で呼びかけると、まさかとは思ったが、なんということだろう、「ニャオ、ニャオ」と大きな声で答えが返ってきた。
 立体駐車場には地下部分がある。稼働していないときは密閉されて外からは見えない。地下にいるに違いない。そこで鍵を使って、立体駐車場を稼働させると、1階部分のプレートがスライドして、地下にあった空車のプレートが現れた。なみはそこにいた。プレートの真ん中にぽつんとすわり、私の方を見上げていたのである。
 なみを発見したまではよかったが、彼女をどうやって救出するのかが難問だった。立体駐車場には金網の扉がある。この扉は車の出し入れのときだけ開くのだが、そのとき1階の床はプレートで密閉されてしまう。稼働の途中で地下は一時的に開いた状態になるのだが、その状態で停止させることが出来ない。事故を防ぐためだろう。そういう設定になっているのである。マンションの管理会社に連絡し、専門の技術者の知恵を借りるしか、安全に救出する手立てはないように思われた。
 すぐに息子と妻を呼んだ。そして、なみの無事を確認してもらうため、立体駐車場をもう一度稼働させてみた。なみは隣のプレートに移動していた。車の下から顔だけ覗かせて、私たちを見上げている。まもなくして空車のプレートが上昇をはじめた。すると彼女は思い切った行動を決断する。ここぞとばかりに跳躍して、そのプレートに乗り移ったのである。
 想像もしなかった事態だった。固唾を飲んで見守っていると、彼女はもう一度私たちをびっくりさせる。プレートが地上に近づくと、ためらいもなく今度は地上階の端に飛び移ったのである。そしてすぐさま、扉の下のわずかなすき間を腹這いになって潜り抜け、私たち3人に駈けよってきた。
 なみは頭から尻尾の先までほこりまみれになっていた。しかし、何日も飲み食いしてないにもかかわらず、衰弱したようすはみられなかった。私がなみの頭を撫でていると、息子は「おれにも」といって、なみを抱き上げ、何度も頬をすり寄せていた。

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ph5 なみ。わが家にやってきて間もないころ。2022.03.03

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ph6 なみ。わが家の生活に慣れたころ。2022.03.03

 この失踪事件のあと、なみを庭に出さないようにした。というよりも出せなくなった。行方不明になったときの喪失感が恐ろしくなったからである。
 なみの前に飼っていたネコはサリーという名前だった。彼女は昨年の正月に16歳で亡くなった。人間なら80歳を過ぎた年齢だから大往生といってもいい。死因ははっきりしないが、医師の診たてによると泌尿器間が癌に侵されていたらしい。死の3ヶ月ほど前からは、2日か3日おきに病院で痛み止めの注射と栄養剤の点滴をしてもらった。一進一退の病状をつづけたあと、やがて少しずつ食欲をなくしていった。
 そのころには夜中になると決まったように私の枕元に潜り込んできた。死の当日、目を覚ますとサリーは眠ったまま涎を垂らしていた。その日の午後3時ごろだった。座布団のうえでぐったり横たわっていたが、とつぜん起き出し、2度3度大きく痙攣すると、そのまま息を引き取った。目を閉じてやり、抱きしめた。かわいそうで仕方なかった。だが、楽になったのである。これからはもう苦しまなくてもいい。涙があふれた。
 サリーが亡くなったあとは、妻も私もネコは飼わないことに決めていた。ネコの寿命よりも自分たちの寿命の方が短いからである。しかし、それには息子が同調しなかった。ネコのいない生活は耐えられない、私たちがいなくなれば自分が世話をする、というのである。自分が世話をするという息子の言葉は鵜呑みにしていいかどうか分からない。しかし、サリーを亡くした喪失感については妻も私も変わらなかった。

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ph7 なみ。救出された翌日。2022.09.09

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ph8 なみ。失踪事件の3ヶ月後。2022.11.29

 なみはそんな経緯から新しくわが家の一員になった。
 飼いネコは動物として扱われる一方、人間として扱われる。わが家の一員とは、王様または女王様であると同時に乞食であるような重層した存在を指す。人間は誰でも社会的な関係性のなかで生きている。人間が死ねば誰でも社会的な関係に大なり小なり空白と混乱が生じる。ネコの死は飼い主にしてみれば、ただの動物の死ではすまない。王様や女王様の死に等しいのである。王権は速やかに継承されなければならない。
 死は永遠の留守に例えられる。葬送と供養は個人の死を社会的に確認する手続きである。行方不明と死亡は似ているようだが大きな違いがある。行方不明者はいつかもどってくる可能性を否めない。例え葬式を済ませても、残された家族は不在者への執着をなかなか断ち切れない。その結果、けじめのつかない喪失感に苛まれ続けることになる。
 失踪事件が無事落着したあと、なみは以前にも増してわがままになった。
 食事が欲しくなると、朝といっても4時とか5時というとんでもない時間に、妻や私の布団に潜り込んできて、足の下や髪の毛を噛んでみたり爪を立てたりする。叱ってもやめようとしない。根負けしてエサを与えてしまう。
 妻と私が起きるのは6時ごろである。妻が朝食の支度をしたり私が洗濯や風呂掃除をしていると、甘えた鳴き声でまとわりついてくる。あとをついていくと、食卓にすわり直し、残したご飯を改めて食べはじめる。食べながらこちらをチラチラ見るから、声をかけたり体を撫でたりするのだが、妻か私あるいは息子が傍にいてやらないと、機嫌よく食事をとらないようになってしまったのである。
 ネコを飼っているのはあくまでも人間である。しかし、ネコは自分の主張を押しつけるばかりで、私たちの言うことを聞こうとはしない。ネコと上手につきあうのはきわめて難しい。なみの先輩になるサリーもそうだったが、人間がネコを飼っているつもりでいても、気がつくといつの間にか、飼い主の人間の方がネコに飼い慣らされてしまっているのである。

(ひらしま あきひこ)

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2023年7月14日です。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。