三上豊のエッセイ「今昔画廊巡り」
口上
今月から「今昔画廊巡り」をする三上と申します。綿貫不二夫さんから会うたびに「昔の画廊のことを書け」と言われていました。かつて5軒ほどの貸し画廊の記録集を自前で制作したからでしょう。しかし、画廊の展覧会スケジュールはともかく、画廊そのものの経営についての資料などはほとんど目にできません。やむなく記憶で歩き出すことにしました。
50年も前の画廊を今巡ることで気がついたのは、街の変化です。意外にも画廊で発表された作品は、昔のDMや展評などで辿れることがありますが、画廊があった建物は消え、記憶もあやふやのままです。作家・作品中心の美術史からすれば画廊そのものがマージナルなものでしょうから、記録からも消えやすいのでしょう。今回、ひと昔前の画廊と現在を橋渡しできればと思っています。
第1回 ときわ画廊
70年代半ばに出版業界に入った私は、仕事で画廊巡りを始めたが、当時のルートは神田駅を降りて、ときわ画廊や田村画廊がスタートとなることが多かった。
ときわ画廊は、日本橋本石町4-2協栄生命ビル1階にあり、江戸通りに面した大きなガラス壁面が特徴的だった。60年代、江戸通りには都電が走っていた。今は協栄生命のビルはなく、ホテルが建つ。隣の常磐小学校はまだ健在だ。
画廊のデータに、貸し画廊で壁面30m、6日間8000円(69年当時)とある。開廊は1964年、準備期間展をへて、6月に矢島甲子夫展で正式に開廊した。初期は自由美術の作家たちの発表が多い。
オーナーの小柳玲子さん(2022年没)は詩人で協栄生命の関係者。出版社も運営し、詩人としては花神社などから『月夜の仕事』をはじめ多くの詩集を発表。出版社・夢人館からはフリーダ・カーロやゾンネンシュターンなどの画集を刊行した。
小柳さんは火曜日に画廊にでていたが、ほかの曜日には大村和子さんがいて、彼女が多くの作家と交友をもち、その気さくな人柄が、人々をときわ画廊に引きつけてもいた。夕方ともなれば、若い作家たちが事務所につめかけ、酒を飲み交わし、大村さんもタバコをふかして笑顔で相手をしていた。
画廊でタダ酒を飲むことを「アブラ酒」と言うそうで、深酒するなと上司から注意されたりした。確かに数件画廊を回っていくと、車座になってテーブルを囲み、賑やかな場は、いかにも仲間内といった業界空気が漂い、酒以上に敬遠することもあった。
ときわ画廊の事務所は展示のスペースからは見えず、逆にたむろしやすかったのかもしれない。ここからデビューして、何年か続けて発表し、やがて銀座へ進出するとか、またはここで消える作家など、1週間で様変わりする発表の光景が懐かしい。堀内正和、最上寿之、菅木志雄らが年頭に画廊企画で発表することもあった。また、よく夏に絵画の個展をする50代の作家がいて、ちっともうまくならないと思っていたら、大村さんが「そこがいいのよ」と言ったのが、妙に記憶に残っている。思えば、画廊に行っても、作家と話もせずに引き上げる私からすると、ときわ画廊の空間は一息つく場でもあった。呼吸をするように30回近くも個展をした作家もいた。
画廊は、1998年12月に閉廊した。最後に作家たちが「ありがとう、ときわ展」を開催、多くの記録写真が展示された。なお、私が作成した記録集『ときわ画廊 1964―1998』が閲覧できるいくつかの美術館ライブラリーもある。
(みかみ ゆたか)

*「ありがとう、ときわ展」を通りからガラス越しにみる。中央に大村さん。写真=大友佐恵

*ときわ画廊 間取り図

*画廊があった場所には、2023年現在ホテルが建つ。
『ときわ画廊 1964-1998』

1998年12月15日発行
1000部制作
《非売品》
著書:ときわ画廊(大村和子)
発行:三上豊
印刷・製本:信毎書籍印刷株式会社
■三上 豊(みかみ ゆたか)
1951年東京都に生まれる。11年間の『美術手帖』編集部勤務をへて、スカイドア、小学館等の美術図書を手掛け、2020年まで和光大学教授。現在フリーの編集者、東京文化財研究所客員研究員。主に日本近現代美術のドキュメンテーションについて研究。『ときわ画廊 1964-1998』、『秋山画廊 1963-1970』、『紙片現代美術史』等を編集・発行。
・三上豊のエッセイ「今昔画廊巡り」は毎月28日の更新です。次回は2023年6月28日です。どうぞお楽しみに。
口上
今月から「今昔画廊巡り」をする三上と申します。綿貫不二夫さんから会うたびに「昔の画廊のことを書け」と言われていました。かつて5軒ほどの貸し画廊の記録集を自前で制作したからでしょう。しかし、画廊の展覧会スケジュールはともかく、画廊そのものの経営についての資料などはほとんど目にできません。やむなく記憶で歩き出すことにしました。
50年も前の画廊を今巡ることで気がついたのは、街の変化です。意外にも画廊で発表された作品は、昔のDMや展評などで辿れることがありますが、画廊があった建物は消え、記憶もあやふやのままです。作家・作品中心の美術史からすれば画廊そのものがマージナルなものでしょうから、記録からも消えやすいのでしょう。今回、ひと昔前の画廊と現在を橋渡しできればと思っています。
第1回 ときわ画廊
70年代半ばに出版業界に入った私は、仕事で画廊巡りを始めたが、当時のルートは神田駅を降りて、ときわ画廊や田村画廊がスタートとなることが多かった。
ときわ画廊は、日本橋本石町4-2協栄生命ビル1階にあり、江戸通りに面した大きなガラス壁面が特徴的だった。60年代、江戸通りには都電が走っていた。今は協栄生命のビルはなく、ホテルが建つ。隣の常磐小学校はまだ健在だ。
画廊のデータに、貸し画廊で壁面30m、6日間8000円(69年当時)とある。開廊は1964年、準備期間展をへて、6月に矢島甲子夫展で正式に開廊した。初期は自由美術の作家たちの発表が多い。
オーナーの小柳玲子さん(2022年没)は詩人で協栄生命の関係者。出版社も運営し、詩人としては花神社などから『月夜の仕事』をはじめ多くの詩集を発表。出版社・夢人館からはフリーダ・カーロやゾンネンシュターンなどの画集を刊行した。
小柳さんは火曜日に画廊にでていたが、ほかの曜日には大村和子さんがいて、彼女が多くの作家と交友をもち、その気さくな人柄が、人々をときわ画廊に引きつけてもいた。夕方ともなれば、若い作家たちが事務所につめかけ、酒を飲み交わし、大村さんもタバコをふかして笑顔で相手をしていた。
画廊でタダ酒を飲むことを「アブラ酒」と言うそうで、深酒するなと上司から注意されたりした。確かに数件画廊を回っていくと、車座になってテーブルを囲み、賑やかな場は、いかにも仲間内といった業界空気が漂い、酒以上に敬遠することもあった。
ときわ画廊の事務所は展示のスペースからは見えず、逆にたむろしやすかったのかもしれない。ここからデビューして、何年か続けて発表し、やがて銀座へ進出するとか、またはここで消える作家など、1週間で様変わりする発表の光景が懐かしい。堀内正和、最上寿之、菅木志雄らが年頭に画廊企画で発表することもあった。また、よく夏に絵画の個展をする50代の作家がいて、ちっともうまくならないと思っていたら、大村さんが「そこがいいのよ」と言ったのが、妙に記憶に残っている。思えば、画廊に行っても、作家と話もせずに引き上げる私からすると、ときわ画廊の空間は一息つく場でもあった。呼吸をするように30回近くも個展をした作家もいた。
画廊は、1998年12月に閉廊した。最後に作家たちが「ありがとう、ときわ展」を開催、多くの記録写真が展示された。なお、私が作成した記録集『ときわ画廊 1964―1998』が閲覧できるいくつかの美術館ライブラリーもある。
(みかみ ゆたか)

*「ありがとう、ときわ展」を通りからガラス越しにみる。中央に大村さん。写真=大友佐恵

*ときわ画廊 間取り図

*画廊があった場所には、2023年現在ホテルが建つ。
『ときわ画廊 1964-1998』

1998年12月15日発行
1000部制作
《非売品》
著書:ときわ画廊(大村和子)
発行:三上豊
印刷・製本:信毎書籍印刷株式会社
■三上 豊(みかみ ゆたか)
1951年東京都に生まれる。11年間の『美術手帖』編集部勤務をへて、スカイドア、小学館等の美術図書を手掛け、2020年まで和光大学教授。現在フリーの編集者、東京文化財研究所客員研究員。主に日本近現代美術のドキュメンテーションについて研究。『ときわ画廊 1964-1998』、『秋山画廊 1963-1970』、『紙片現代美術史』等を編集・発行。
・三上豊のエッセイ「今昔画廊巡り」は毎月28日の更新です。次回は2023年6月28日です。どうぞお楽しみに。
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