平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき

その26 横浜―釣鐘状入海の現在―

文・写真 平嶋彰彦


 今年になって大学写真部の旧友たちと3回にわたって横浜を歩いた。この街歩きの仲間については、連載23と24でも触れている。ご覧になっていただきたい。
 3月は、近代建築の数多く残る横浜港に沿ったいわゆる関内地区で、このときに撮った写真がph1~ph2である。4月には、伊勢佐木町→横浜橋通商店街→三吉橋商店街→真金町→黄金町→日ノ出町→宮川町→野毛町。写真はph3~ph11になる。5月は、寿町→石川町(地蔵坂下)→山手町→大芝台(中華義荘・地蔵王廟)。こちらの写真がph12~ph20である。4月と5月に歩いたのは、いずれも関外地区ということになる。

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ph1 横浜税関。中区海岸通1-1。2023.03.16

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ph2 横浜赤レンガ倉庫。中区新港1-1。2023.03.16

 ふだんの行き先は東京の都心が中心である。といっても、ときどきは東京を離れる。神奈川県の小田原や箱根、あるいは千葉県の野田や行徳を訪れたこともあった。横浜には近代の文化遺産ともされる名建築が数多く残されている。しかし、聞いてみると誰も彼もていねいに歩いたことはないらしい。では一度横浜に行ってみないか、ということになった。
 街歩きのコースと下見は、いつものように、福田和久・宇野敏雄・柏木久育の3君である。自分1人のときは別だが、この仲間たちと歩くとき私自身は下調べをしない。資料にあたるのはいつも撮影の後である。下見がしっかりしていることもあるが、むしろ、出たとこ勝負で写真を撮ることの方が新鮮で面白いからである。
 写真は記録である。記憶の拠り所になる。写真は突きつめれば、ある時ある場所で自分の見た何かである。デジタルカメラだから、撮影時間は自動的に記録される。撮影場所も記録させられる。しかし、地名がそのまま記録されるわけではない。そこで、パソコンのモニターで画像と地図を見比べながら、歩いた道筋をもう一度たどってみる。すると、撮影時には気づかなかった何かが見えてくる。街歩きのもう一つの魅力といえる。
 横浜市の伊勢佐木町のあたりがその昔は入海だったことも、そんなふうにして知った。すると、メンバーの鈴木淑子さんから次のようなメールが届いた。
 「横浜は釣鐘型の入り江になっていた場所を、江戸時代初期に埋め立てたようです。横浜では、吉田新田として、小学校の社会の教科書にも出てきます。先日歩いた所は、昔は海だったということですね !!」
 鈴木さんの書いているように、入り江は釣り鐘状の形になっていて、これを干拓して耕地化したのだという。(註1)。釣鐘の頂点から胴体に相当するのは、現在の大岡川と中村川に挟まれた内側、また釣鐘の底に相当するのはJR根岸線の桜木町から石川町までの間である。この入海に注いでいたのが大岡川で、それまでの河口は現在の京急南太田駅付近にあった。新田開発するにあたり、それを大岡川と中村川に分流するばかりでなく、流路を延長して、人工河川を開削したのである。
 開発にあたったのは摂津出身で江戸に出て木材や石材を取り扱っていた吉田勘兵衛という商人である。工事は1656(明暦2)年に着手したが、翌年の大雨による事故で失敗。2年後に再度着手して、1667(寛文7)年に完成した。新田は開発者に因んで吉田新田と呼ばれた。1656年といえば、明暦の大火の1年前で、江戸は開府以来の都市計画がようやく一段落し、外縁に向かってさらに拡大化を図る時期にあたっていた。
 その吉田家に残された開墾図がある。これには現在の元町付近が「横浜村」と記されている。村から東に向かって延びる細長い砂州が「宗閑嶋」(しゅうかんじま)である。その先端は現在のJR関内駅付近まで及んでいる。これが近代日本を代表する港湾都市として発展する横浜の原像である(註2)。
 宗教民俗学者として知られる高取正男は中世末から近世初期の新田開発について次のように述べている(註3)。

 この時期になされた沿岸デルタ地帯における大河川の堤防構築や、内陸部での溜池・用水路の設置は、各地に広大な新田地帯をつくりだした。こうした開発工事は幕府や藩の直営化か、その許可をえた有力商人の手である種の企業として遂行された。

 この時期とは15世紀後半から17世紀までの中世末から近世初期のこと。近世幕藩体制の確立が、大規模な土木事業を可能にする権力と富力をつくりだしたのである。また、治水と耕地造成の土木技術については、戦国大名が富国強兵のため力を注いだ金銀の鉱山開発の技術が応用されたことが見逃せないともいう。吉田新田の開墾は、全国各地の河川の河口域で実施された新田開発の典型的な一例だったことになる。

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ph3 「WORMAN RESIDENCE」。中区曙町4-54。2023.04.21

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ph4 横浜橋商店街。南区高根町。2023.04.21

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ph5 金刀比羅大鷲神社。永真遊郭(港崎遊郭の後身)跡。南区真金町1-3。2023.04.21

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ph6 大通り公園。吉田新田開発のため掘られた吉田川跡。中区弥生町3-3。2023.04.21

 小学校の修学旅行は日帰りの東京見学だった。1958年だから65年前の昔話になる。東京湾の富津岬から内側はかつて干潟の海岸が続いていた。私が生まれ育ったのは館山市の太平洋側である。サザエやアワビは潜って捕っていたが、アサリやハマグリは実物を見たことがなかった。干潟の海をバスの車窓から眺めるのを楽しみにしていたが、国道に沿った東京湾の海岸線はすでに埋立工事が進んでいて、昔ながらの海は遥か彼方に後退していた。担任の教師の説明では、海を埋め立てて、工場を誘致するとか水田を新たに造成したりするのだということだった。
 今も昔も変わらないが、房総半島の南部にはこれといった就職先がほとんどない。そのため中学や高校を卒業すると農家や漁家または商家を継ぐ者以外は、東京近辺に働きに出るのだが、私の周りでは、その行き先として、東京都内よりも横浜や横須賀方面を選ぶ者が多かった。南房総の海岸線は断崖が多く、近代までは陸路が未発達だったが、海路であれば三浦半島は目の前にあり、東京よりも横須賀や横浜の方が行き来に便利だった。
 私も中学を卒業したら就職するつもりでいた。家は田畑がわずかしかなかった。また父親が大病をして、貧乏のどん底だった。そんなことから、横浜と聞くと産業や文化の先進地域という一種の憧れが身に染みてしまっている。その一方で、自分が実際には生きることのなかったもう一つの人生のことが、わけもなく、この年になっても頭をよぎるのである。
 私が住んでいるマンションは習志野市役所の近くにある。隣り合うように、中世の城跡を整備した公園があるのだが、その西側は切り立った崖になっている。崖下が昔の海岸線である。現在は国道14号が通っているが、戦国時代のころまでは満潮時になると崖を波が洗っていた。そのため、房総の内陸部からの荷物は、千葉の登戸で船に積み替え、海路で江戸方面に運ばれたという(註4)。
 城址公園の西側を袖ヶ浦という。1960年代の埋立地である。いまのマンションに移るまで、そこにある賃貸の公団住宅袖ヶ浦団地に20年ほど住んだ。団地のすぐ傍を京葉道路が走っているのだが、私が住み始めたころ、それより海側は立入禁止になっていた。というのも、さらに大規模な埋立工事が進行していたのである。
 立入禁止であっても、見たいという欲望には逆らえない。是非はともかく、こっそり見に行くことになる。海岸の埋立地は塩分が抜けると、やがて砂漠から草原に変貌していく。大型の商業施設や集合住宅あるいは中小の工場団地などが建設されるまでの、つかの間ではあるが、失われたはずの自然が蘇えるのである。そこにコアジサシ・チドリなど水鳥やヒバリ・ヨシキリなど草原の鳥がやって来て子育てをするようになる。
 袖ヶ浦という地名は習志野市の外にもある。千葉県内には袖ヶ浦市があるが、東京都の芝浦もその昔は袖ヶ浦という別名で呼ばれたという(註5)。袖ヶ浦の「袖」というのは、ヤマトタケルノミコトの妻のオトタチバナヒメがまとっていた着衣の袖のこと。ヤマトタケルが上総国に渡ろうとして、走水(横須賀)の沖合で嵐に見舞われると、オトタチバナヒメは海神の怒りを鎮めるため入水したとされる(註6)。その着衣の袖が流れ着いた海岸を袖ヶ浦というらしい。あるいは袖ヶ浦の地名は特定の海岸というよりも、東京湾の干潟の海を総称してそう呼んだとも考えられる。

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ph7 「GIFT SHOP」。伊勢崎町5-128。2023.04.21

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ph8 間口の狭い集合住宅。中区黄金町2。2023.04.21

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ph9 間口の狭い集合住宅。中区黄金町2。2023.04.21

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ph10 壁画のある建物。中区前里町1。2023.04.21

 袖ヶ浦が芝浦の別名だと書いたが、その芝浦にあった木造アパートに大学のころ2年ほど住んだことがある。アパートから東側へ5分ほど歩くと芝浦の花街があった。どことなく裏寂れた印象しか記憶にないのだが、もとは検番だったという木造2階建ての立派な建物が残っていて、たしかその向いに芝浦園という料亭があった。
 アパートの西側は道を隔てて東京ガスのガスタンク。北側はJRの線路になっていた。その内側には、まだ船溜まりが残っていて、朽ちかけた小舟が何艘も係留されていた。船溜まりの周りは作業場になっていて、1964年の東京オリンピックのころまでは海苔を干していたという。そこが落語「芝浜」に出てくる雑魚場であるのを知ったのは、ずいぶん後になってからである。
 芝浦は近代になって造成された埋立地である。
 1872(明治5)年、新橋と横浜(現在の桜木町駅)間に東海道線が開業するが、芝浦の一帯では海中に高架を築き、その上に線路を敷設した。私が住んだアパートのあたりもそのころは海の中だった。芝浦の埋め立てが本格化するのは1906(明治39)年からで、「東京港修復を企画した隅田川河口改良工事として実施され」、1913(大正2)年にまず日の出埠頭が完成、関東大震災の後に竹芝桟橋や芝浦埠頭が築造された(註7)。
 私の住んだ1960年代後半には芝浦埠頭はいまと違って立入りが自由にできた。父親の乗るタグボートの船溜まりは埠頭の外れにあった。その船に中学時代の友達もいた。海辺育ちだから、海ならどこでもかまわず見たかったこともある。そんなことで、暇をもてあますとよく芝浦埠頭に遊びに出かけた。
 運河沿いの道を、あちこち道草を喰いながら歩いて行くのだが、運河はどこもかしこもゴミだらけで悪臭が鼻をついた。海岸通りに出ると、仕事にあぶれた日雇い労働者が、路地のものかげに座り込んで、コップ酒をあおっている姿を見かけた。私の妻の実家は芝1丁目で、そこはJR線路の陸側にあった。妻は子どものころ、両親から線路の向こう側に遊びに行っては駄目だ、といわれたという。これも後年になって知ったことだが、明治時代における東京の三大貧民窟の1つとされる芝新網町は、彼女の家から歩いて5分もかからない古川に架かる金杉橋の向いにあった。

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ph11 「鳶・土工」の募集広告。中区宮川町3-80。2023.04.21

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ph12 吉浜公園。中区吉浜町2-19。2023.05.30

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ph13 マンション「アジアビル」前の十字路。中区寿町3。2023.05.30

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ph14 「港館本館」・「第二館」・「第三館」のある通り。中区寿町3-11。2023.05.30

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ph15 中村川の護岸工事。奥はJR根岸線石川町駅。中区石川町2。2023.05.30

 横浜の伊勢佐木町・真金町・寿町・石川町などのいわゆる関外地区は初めて歩いた町である。自分の人生ではこれまで縁もゆかりもない町にもかかわらず、いつかどこかでみた気がしてならない。先に書いたように、もしかしたら、横浜で暮らしていたかも知れないからである。
 カメラを手にした街歩きである。目につきなんとなく気になれば、とりあえずシャッターを押す。これも繰り返しになるが、パソコンで写真を整理しながら、何度もその画像を眺める。眺めるうちに、どういうわけか、忘れかけていた様々な記憶がふと蘇ってきては消えていく。またその一方で、分からないことがあれば調べてみるのだが、そうすると、まさかと思うような埋もれた歴史に行き当たることがある。
 寿町から南西に200メートルほど歩くとJR根岸線の石川町駅に出る(ph15)。すぐ傍を流れるのが中村川で、この川に架かるのが亀の橋である(ph16)。この橋のたもとに大小4体の地蔵様が祀られていた(ph17)。メンバーの面々に倣って私も写真を撮ったのだが、像容にこれといった特徴があるわけでもなく、とりわけ古いものでもなさそうだった。ただ一つ、石柱に刻まれた「濡れ地蔵尊」という聞きなれない呼称がなんとかく気になった。
 インターネットで検索すると、地蔵坂と濡れ地蔵について詳細に考察した記事が寄稿されていた。あいにくこちらの飲み込みも悪く、どんな由緒か必ずしも分明でないのだが、憶測を交えて整理すると、こういうことになる(註8)。
 根岸の浜にきよという娘がいた。彼女は14歳のとき、港崎(みよざき)遊郭の岩亀楼に身売りされた。それから3年か4年して、きよは洋妾(らしゃめん)、すなわち在留外国人の妾に召し出されることになった。彼女はそれを悲しみ、岩亀楼から逃げ出した。現在の関内駅の傍には番所があったが、番所役人の目を搔い潜り、地蔵坂の坂上まで来ると、地蔵菩薩が祀られていた。彼女はそこで一息ついた後、実家の根岸を通り過ぎ、本牧の弁天鼻にいたると、その断崖から海中に身を投げた。それを目撃する者もいたが、きよの死体は浮かびもしなければ見つかりもしなかった。事件の翌日、地蔵坂の地蔵を世話しているお婆さんが行ってみると、この日に限って、地蔵はびっしょり水に濡れ、その首から下は海藻が涎掛けのようにまとわりついていた。後日の噂話になるが、きよとそっくりな娘が杉田の梅林近くにあった茶店で働いている姿を、何人もが見かけたとのことである(註9)。
 港崎遊郭の岩亀楼には、これと同好異曲の洋妾の伝承がある。こちらは江戸深川生れ(諸説あるらしい)の亀遊(喜遊)という遊女で、8歳で吉原に売られ、品川岩槻屋をへて、横浜に移った。亀遊は在留外国人といっても米国商人の洋妾になることを拒み、自害して果てた。辞世の句は「つゆをだにいとふ大和の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ」とされる(註10)。有吉佐和子の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』はこの事件を主題にした小説。上村松園に「遊女亀遊」の美人画があるが、これをみると、岩亀楼の郭内で自刃したものとみられる(註11)。
 港崎遊郭は1859(安政6)年の横浜開港とともに開設された(註12)。場所は現在の横浜スタジアムのすぐ傍で、日本大通りの西側である。1866(慶応2)年に大火のあと、この一帯が外国人居留地に指定されると、遊郭は関外の吉田新田に移転した(註13)。
 亀遊は実在の人物であったかどうか疑わしいとされる(註14)。濡れ地蔵の伝承に出てくる根岸生れの遊女きよについても同様ではないかと思われる。この当時、横浜に在留する外国人は一般の女性を妾にできなかった。どうしてもという場合は、一度娼妓の籍に入れる規則になっていた。頑迷な攘夷思想が横行する世相もあり、洋妾は一般の人々からの蔑視の眼差しにさらされたという(註15)。

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ph16 中村川に架かる亀の橋。高台は外国人居留地だった山手町方向。中区石川町2。2023.05.30

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ph17 亀の橋たもとの「濡れ地蔵尊」。もとは地蔵坂の坂上にあった。中区石川町2-6-3。2023.05.30

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ph18 地蔵坂の坂下付近の街並み。中区石川町3。2023.05.30

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ph19 山手イタリア山公園。外交官の家。中区山手町16。2023.05.30

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ph20 大芝台の中国人墓地から見た旧根岸競馬場一等馬見所の遠望。明治には洋妾の姿も見られた。中区根岸台。2023.05.30

 地蔵坂のまわりに高台がある。そこが山手町である。近代横浜の文化遺産として、外交官内田定槌の邸宅が残っているが、この町は外国人居留地だったところでもある(ph19)。地蔵坂の坂下を流れるのが中村川である。そのあたりの低地が石川町である。また地蔵坂の坂下から坂上に向かって、山手町に両側を挟まれるように、帯状の窪地が延びている。この窪地やはり石川町である。
 濡れ地蔵が中村川に架かる亀の橋に移設されたのは2001年のこと。それまでは地蔵坂の坂上に祀られていた。地蔵の世話をしてきたのは石川町の住民だが、高齢化が進んだためそれが出来なくなり、坂下に移転することになったそうである(註16)。
 地蔵坂は石川町から根岸・本牧に通う道筋である。と同時に、山手町と石川町との境界にもなっていた。地蔵は国境や村境のみならず、墓地の入口や寺院の門前にも多く祀られる。境界が分かつのは、あの世とこの世であり、天国と地獄である。
 地蔵坂に沿って高台の山手町には在留外国人と居住を許可された特定の日本人が住んだ。それにたいして低地や窪地の石川町には日本人の庶民階層が住んだ。山手町の外国人のなかには洋妾を囲う者もいただろうし、地蔵坂では外国人が洋妾を連れて外出する姿が見られたはずである。低地の住人からみれば、高台は天国に擬えられ、自分たちの住む町は地獄にも等しく思われたのではないだろうか。
 わが国の庶民信仰では地蔵菩薩は代受苦の救世主とされてきた。地蔵坂の地蔵様もまた庶民信仰の伝統に応えて、おきよの身代わりになって海に飛び込んだに違いない。地蔵様だからいくら捜しても死体は見つからなかった。そんなことは現実にはありえない。もちろん作り話に違いない。その後、おきよとよく似た娘を杉田の梅園の茶屋でみかけたともいう。想像をたくましくすれば、遊郭から逃げ出したおきよを見兼ねた地蔵坂の住人たちが、彼女をかくまい、安全な場所へ導いた、というような可能性も考えられなくもない。
 濡れ地蔵の洋妾にまつわる伝承では最後の最後に、おきよが地獄から抜け出し、この世に元気で復活したことになっている。地蔵菩薩の広大な慈悲の前では誰もが等しく、攘夷思想も洋妾への蔑視も問題にされない。あくまでも幻想の世界のなかでということに過ぎないが、平安時代のころから累積された庶民信仰の巧知が彼女に救いの手を差しのべたのである。

【註】
註1 『横浜旧吉田新田の研究』。武相叢書 第6編 (横浜旧吉田新田の研究) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) 。「歩いて調べる吉田新田の歴史」H24 (city.yokohama.jp)。『横浜開港記念館企画展示 ハマの大地を創る—吉田新田から近代都市へ―』(横浜開港資料館、2016)
註2 同上
註3 『民間信仰史の研究』「前代の村落生活」(高取正男、法蔵館、1982)
註4 『大日本歴史地名大系12 千葉県の地名』「習志野市」および「千葉市」(平凡社、1996)
註5 『大日本歴史地名大系13 東京都の地名』「港区」(平凡社、2002)
註6 『古事記・祝詞』「景行天皇4小碓命の東伐」(岩波古典文学大系1、1968)
註7 『大日本歴史地名大系13 東京都の地名』「港区」(平凡社、2002)
註8 横濱彷徨録 地蔵坂(2) 濡(ぬ)れ地蔵変遷 (fc2.com)横濱彷徨録 地蔵坂(3) なぜ「濡れ地蔵」と呼ばれるのか (fc2.com)
註9 杉田は横浜市磯子区杉田で、梅林があった。杉田梅まつり2023|幻の杉田梅林 賑い復興 (shunsaika.yokohama)
註10 『朝日日本歴史人物事典』「岩亀楼亀遊」(朝日出版)
註11 上村松園の「遊女亀遊」。遊女亀遊:上村松園の美人画 (hix05.com)
註12 『日本大百科全書(ニッポニカ)』「岩亀楼」(原島陽一、小学館)
註13 『日本歴史地名大系14 神奈川県の地名』「横浜 日本大通り」(平凡社、1984)。)
註14 『朝日日本歴史人物事典』「岩亀楼亀遊」(朝日出版)
註15 『横浜繁盛記』「半面の横浜 其二 洋妾」(横浜新報社、1903)。横浜繁昌記 : 附・神奈川県紳士録 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
註16 横濱彷徨録 地蔵坂(2) 濡(ぬ)れ地蔵変遷 (fc2.com)

(ひらしま あきひこ)

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2023年9月14日です。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
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