平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき

その27 市川—葛飾の真間の入江

文・写真 平嶋彰彦


 JR総武線で東京から千葉方面に向かうと、小岩駅の次が市川駅である。途中、江戸川を渡る。川が県境になっていて、渡ると千葉県である。市川市には国府台の地名がある。古代における下総国府の所在地とされる。京成本線に市川真間駅があり、その北側一帯の地名を真間という。そこが『万葉集』で詠われる真間の手児奈(ままのてこな)の伝承地である。
 江戸川(利根川)は、真間から南東方向に約4キロ下ったところで、江戸川本流と旧江戸川に分岐する。旧江戸川はそれよりさらに南西方向に蛇行しながら流れて、約10キロ先で東京湾に注いでいる。この旧江戸川の左岸に開かれたのが行徳である。

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ph1 旧江戸川河畔。常夜灯公園。市川市関ケ島1-9。2022.09.27

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ph2 旧江戸川河畔。常夜灯公園からみた東篠崎(江戸川区)方向の遠望。2022.09.27

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ph3 行徳街道。旧浅子神輿店。本行徳35-7。2022.09.27

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ph4 行徳街道。塩問屋の加藤家住宅と煉瓦塀。本行徳33-7。2022.09.27。

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ph5 寺町通り。徳願寺の仁王門と鐘楼。本行徳5-22。2022.09.27

 行徳については連載その16(前編)、(後編)で書いている。ご覧になっていただきたい。行徳は昨年9月にも大学写真部時代の友人たちと訪れた。そのときに撮った写真がph1~5である。街歩きをした後の懇親会で、古代下総の文化的中心だったといわれる市川真間のあたりをいつか歩いてみようということになった。忘れかけた宿題をはたしたのは今年の6月27日。そのときに撮った写真がph6~20である。
 この日はJR市川駅で集合したあと、駅西側にある40階建ビルの展望台から市街を俯瞰した。眼下に江戸川が滔々と流れるさまに思わずおおっと息を呑む。北東方向を眺めると、鉄橋が3本。JR総武線、国道14号そして京成本線である。対岸の円形の模様はアマチュア野球のグラウンドらしい(ph6)。
 江戸川を眺めているうちに、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』で、犬塚信乃と犬飼見八(現八)が決闘をするくだりを思い出した。場所は滸我(現在の茨木県古河市)の芳流閣。古河には足利成氏(古河公方)が拠点とした平山城があった。芳流閣は馬琴の虚構と思われるが、利根川(江戸川)河畔に築かれた3層構造の物見櫓である。
 信乃と見八の犬士2人は組み合ったまま、屋根から利根川に繋がれた小舟に転落。小舟は2人を乗せたまま、川の流れに任せて下り、行徳に漂着したところを、地元で旅店(はたご)を営む文五兵衛なる町人に発見された(註1)。
 古河から行徳まではおよそ70キロの距離である。信乃と見八の漂流のくだりは、室町時代に船便による水上交通が、行徳と古河の間に発達していたばかりでなく、行徳が利根川河口の要衝であった歴史を馬琴が承知していたことを物語る。ちなみに1373(応安6)年というから、『南総里見八犬伝』の時代より100年ほど前になるが、利根川の流路に沿って散在した香取神社(下総一宮)の川関の1つが、行徳の河畔にも設置されていたとのことである(註2)。
 古河から行徳までの途中に五霞町(茨木県猿島郡)と野田市(千葉県野田市)がある。五霞町は古河から10キロほど下った利根川の右岸にある。街歩きのメンバーの1人伊勢淳二君はこの町の住人である。利根川は五霞町の東南で江戸川と分岐する。五霞町の隣が野田市である。市域は東西を利根川と江戸川に挟まれ、南北が裾拡がりに細長い。その南端に利根川と江戸川を繋ぐ運河がある。これは近代になってから開削された(註3)。
 野田には多久彰紀君が住んでいる。かれもまた街歩きのメンバーである。2013年11月と翌年4月に彼の案内で、野田の街歩きをすることがあった。2度目のときは花見の季節だったので、幸手市の権現堂堤まで足を延ばした。権現堂川は利根川の支流である。堤防の桜並木は関東屈指の桜の名所として名高い。街歩きの後、伊勢君から五霞町の自宅に招かれ、ご馳走になった思い出もなつかしい。
 野田の醤油生産は戦国時代に遡るとのことだが、地回りの醤油産地を意識した本格的な生産体制が確立するのは、安永(1772~81)の頃だとされる。享保年間(1716~36)というと、江戸に幕府が開かれて100年が過ぎているが、江戸市中で消費される醤油の4分の3は関西産のいわゆる下り醤油だったという。流通の観点からいえば、生産地は消費地に近い方が望ましい。そこで下り醤油に代わる地回りの醤油産地が求められた。
 幸いなことに、野田は利根川にも江戸川にも面していた。寛永年間(1624~44)に利根川の河川改修工事があり、それを契機に、双方の川筋には水運の拠点が形成されていた。船で醤油を運ぶなら行徳まではいくらも時間がかからない。地回りの醤油生産地としては、利根川河口の銚子が野田に先行して発展していた。しかし、幕末のころになると、野田が生産高で銚子を凌ぐようになった。その理由は、江戸に近いのみならず、江戸川の水運を利用できたことにあったという。(註4)。

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ph6 JR市川駅近くの超高層ビル屋上からみた江戸川の上流方向。手前に架かる橋は、左からJR総武線・国道14号線(千葉街道)・京成本線。2023.6.27

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ph7 JR市川駅中央改札口。私たち街歩きの仲間と同年代と思しき年老いた手児奈の一団。2023.6.27

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ph8 国道14号線に面した駐輪場。なぜかバイクばかりが目立つ。市川1-12-23。2023.6.27

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ph9 大門通り。銅板葺きの酒店武蔵屋。「市川ほうずき市灯籠流し受付申込所」の貼紙と欧文の店名「MUSHASHIYA」とのアンバランス。市川2-33-20。2023.6.27

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ph10 大門通り。武蔵屋。昭和の面影がなつかしい塩の看板。市川2-33-20。2023.6.27

 千葉街道(国道14号)のJR市川駅付近から、北側に向かって真っすぐ伸びているのが大門通りである。この通りを1キロほど歩くと小高い段丘につきあたる。長くて急な石段がついていて、その上に建つのが日蓮宗の古刹として名高い真間山弘法寺(ぐほうじ)である(ph16)。
 弘法寺の150メールほど手前を真間川が流れている(ph14)。真間川は江戸川の支流の1つである。京成本線の国府台駅の北側で分岐すると、真間から八幡へと流れたあと、南東に方向を変えながら、原木から東京湾に注いでいる。
 真間川に現在架かる橋を入江橋という。この橋から弘法寺までの間に、真間の継ぎ橋・真間の井・手児奈霊神堂など、真間の手児奈にちなむ歴史的な文化遺跡があり、市川の観光名所になっている(ph17~19)。
 真間の手児奈は、多くの男たちから求婚の申し出を受けるが、それをすべて断り続けた挙句、若くして自ら命を断ったとされる。『万葉集』巻9の挽歌の1つには、高橋虫麻呂が詠んだとされる次のような長歌と反歌がある(註5)。

    勝鹿の真間娘子を詠む歌一首
  鶏が鳴く 吾嬬の国に 古に ありける事と 今までに 絶えず言ひ来る
  勝鹿の 真間の 手児奈が 麻衣に 青衿着け 直さ麻を 裳には織り着て
  髪だにも 掻きは梳らず 履をだに 穿かずに行けども 錦綾の 中につつめる
  斎児も 妹に如かめや 望月の 満れる面わに 花の如く 笑みて立てれば
  夏虫の火に入るが如 水門入に 船漕ぐ如く 行きかぐれ 人のいふ時
  いくばくも 生けらじものを 何とすか 身をたな知りて 波の音の 
  騒ぐ湊の 奥津城に 妹は臥せる 遠き代に ありける事を 
  昨日しも 見けむが如く 思ほゆるかも
(巻9-1807)

    反歌
  葛飾の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
(巻9-1808)

 葛飾の真間の港には、遠い昔にあった事だというが、今でも語り草になっている真間の手児奈の奥津城(おくつき)すなわち墓所があった。手児奈の手児(てこ)は年若い女・おとめのこと。奈(な)は大人(おとな)・翁(おきな)のなと同じで人を指す(註6)。反歌には「葛飾の真間の井を見れば」とあるから、高橋虫麻呂は葛飾の真間を訪ね、語り継がれた伝説を彼なりに考え合わせ、この長歌と反歌を詠んだものと思われる。
 葛飾の真間には清浄な水が湧き出る井戸があった。手児奈は、その井戸に、毎日のようにやってきては水汲みをしていたのである。「立ち平し」はわかりにくい古語だが、立平・立均とも書き、「たちならし」と読む。平らにするが本来の意味だが、転じて、踏みならすように常に行き来する、しばしばおとずれる、の意味に使われるようになった(註7)。
 手児奈は、麻衣に青衿(あおくび)、「直さ麻」とは麻だけで織った裳、髪も梳(けず)らず、履物もはかない、というような粗末な身なりをしていた。しかし、錦や綾を身にまとった高貴な家の姫君も、この娘の美しさにはかなわなかった。彼女が満月のように欠けるところのない顔立ちで、花のような微笑みを浮かべると、夏の虫が火に飛び込むように、港に船が寄り集まるように、多くの男たちが競い合うように彼女に求婚を申し出た。
 そこで手児奈はどうしたかというと、男たちの思惑をよそに、どのみち人は長くは生きられないものを、何としたものかと悩んだすえ、自分の身の程を思い知ると、波の立ち騒ぐ港を墓所と定めて、その身を投じた、というのである。
 疑問がないこともない。「錦綾の 中につつめる 斎児も」の「斎児(いつきご)」を高貴な姫君と現代語訳を試みてみたのだが、「斎児」(斎子)には、大事にかしづき育てる子という意味のほかに、神の祭に奉仕する清浄な童女、特に即位や大嘗会の時に奉仕する女子の司の意味がある(註8)。もし後者の意味であれば、「斎児も 妹に如かめや」は、神に仕える聖なる女性として、手児奈の右に出るものは誰もいなかったという意味になる。
 ところで、手児奈はそもそも何のために水汲みをしていたのだろうか。「斎児」の語句が喚起させるのは、彼女が真間で汲んだ清浄な水を神の食膳に供えていたのではないか、という民俗学的な連想である。もしそうだとすれば、真間の手児奈とは神が白羽の矢を立てた神聖で清浄なる女性、あるいは神が丹塗の矢に変じて訪れたという古代神話に登場する玉依姫の1人だった、ということにならないだろうか。男たちの求婚をすべて断ったのも、それが理由だったのではないだろうか(註9)。

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ph11 大門通り。居酒屋てまり。市川1-14-8。2023.6.27

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ph12 大門通り。肉の山崎。市川3-1-21。2023.6.27

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ph13 大門通り。蔦のからまる家。奥の小高い丘に弘法寺が建つ。真間2-21。2023.6.27

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ph14 大門通り。入江橋からみた真間川の上流方向。右側の鬱蒼とした森は河岸段丘の急斜面。真間4-7。2023.6.27

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ph15 須和田公園。現代の真間の手児奈とそのボーイフレンド(お兄さんかも)。須和田公園は弥生中期から平安にいたる複合遺跡を整備したもの。銅像はその一画のバラ園に飾られている。須和田2-34。2023.6.27

 巻14に下総国の相聞歌が4首載っている。いずれも詠み人知らずである(註10)。

  葛飾の真間の手児名をまことかも我に寄すとふ真間の手児奈を(巻14-3384)
  葛飾の真間の手児名がありしかば真間のおすひに波もとどろに(巻14-3385)
  にほ鳥の葛飾早稲を贄すともそのかなしきを外に立てめやも(巻14-3386)
  足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ(巻14-3387)

 3384番では、手児奈といい仲だという噂が立てられるだけでも名誉であるかのごとく、彼女を称讃している。詠んだのは遥か後代の人で、自分がその時代に生きていれば、という仮定のはなしである。
 3385番の「真間のおすひ」の「おすひ」は磯辺のことで、上代における東国の方言だという(註11)。市川は東京湾の最奥にある海辺だから、よほどの荒れた天候でなければ波の立つことはない。あの真間の手児奈がいたものだから、滅多に見ることのない白波が立つように、人々が上へ下への大騒ぎをしたということらしい。
 3386番は、新嘗祭の夜を詠った歌である。連載その21(前編)では、同じ『万葉集』巻14に載る「誰そこの屋の戸押そぶる新嘗にわが背を遣りて齋ふこの戸を」の歌に言及したことがある(註12)。新嘗祭はその年に収穫した穀物の初穂を神に供える祭事である。その夜に訪れるという神をもてなすため、特別な女性1人が家のなかに残り、それ以外の者は、家の外に退出するのが習わしだったとされる(註13)。
 「かなしきを」は愛しいわが夫をという意味合いである。いかに重要な神事であろうとも、その夫を外に追い除けて、平気でいられるわけがない、と異論を唱えていることになる。この歌に手児奈の名はない。しかし、先に述べたように、手児奈は年若い女・おとめの総称で、固有名詞というより本来は普通名詞だったようにみられる。したがって、この歌の女性は既婚者ではあるが、やはり真間の手児奈の1人ということではないだろうか。
 次の3387番の歌で歌われる男は真間の継ぎ橋のあたりに思いを寄せる女性が住んでいたらしい。この女性も真間の手児奈と呼んでいいのかもしれない。男は馬に乗るくらいだから、身分は高いとみられる。継ぎ橋は構造的には太鼓の胴に似ている。足音のしない馬が欲しいのは、噂の立つ心配をせず、彼女の家に通いたいからである。
 巻14の3385と3386で詠われる真間の手児奈は、高橋虫麻呂の歌と違って、独身をひたすらに貫こうとする気配は感じられない。続く3387と3388に手児奈の名はない。しかし、真間の手児奈の伝説に主題を求めているのは明らかで、この2首に登場する女性が既婚者であるのはいうまでもない。
 『万葉集』にはそのほかにも手児奈を詠んだ歌があり、巻3には、山部赤人の長歌と反歌2首が載っている。こちらの手児奈も高橋虫麻呂の歌とはかなり内容的な喰い違いがあり、いかに語り継がれた伝承といえども、とても同一人物を対象にしたものとは考えにくい(註14)。

   葛飾の真間娘子の墓を過ぐる時、山部宿祢赤人の作る歌一首
  古に ありけむ人の 倭文幡の 帯解きかへて 伏屋立て 妻問しけむ 勝鹿の
  真間の手兒名が 奥つ城を こことは聞けど 真木の葉や 茂みたるらむ
  松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我は 忘らゆましじ
(巻3-431)

    反歌
  我も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥津城処
(巻3-432)
  葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ(巻3-433)

 「倭文幡(しつはた)」は、唐から輸入された織物にたいする日本古来の織物。「帯解きかへて」は、男と女が帯を解き、互に交換すること。「伏屋(ふせや)」は新婚夫婦が生活するための小屋。「妻問」は嫁取婚になる前の古い婚姻習俗で、男が恋人または妻である女のもとへ通うことである(註15)。したがって、「伏屋立て 妻問しけむ」は、伝説のなかでは、手児奈が未婚の女性ではなかったことを示唆する。
 真間の手児奈の奥津城の跡地に建立されたのが、手児奈霊神堂である(ph19)。
堂舎の建つのは真間山弘法寺の南西方向の崖下である。『江戸名所図会』によると、1501(文亀元)年、「この神(手児奈)」から真間山弘法寺の「中興第七世日与上人に霊告あり。よつてここに崇め奉るといへり」、すなわち祠(神社)を設けて「手児奈明神」と名乗ったところ、婦人の安産成就や小児の疱瘡除けの守護神として信仰を集めたというのである(註16)。
 市川市のHPでも、ほぼ同様に創建縁起と御利益を紹介している(註17)。
 想像をたくましくすれば、日与上人の前に手児奈の亡魂が現れたのは、上人のあるいは仏教の広大な慈悲にすがり、救済を求めたということではなかったか、と考えられる。『万葉集』によれば、彼女は自ら命を絶ったとされる。しかし、心残りの想いを断ち切れず、この世を彷徨っていたのではないだろうか。わがために祠を設け、わが魂の苦悩を慰めてもらえるなら、その代償に、安産祈願や疱瘡平癒の願いごとを叶えることに尽力を惜しまない、ということであったかもしれない。
 翻って見渡せば、語り継がれた手児奈の女性像が過ぎゆく時間の霧に紛れ込んでいるように、それまでは彼女の奥津城の在り処もすっかり忘れ去られていたのである。

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ph16 弘法寺仁王門。第七世日与上人に手児奈の霊告があり、手児奈の墓所跡に手児奈霊神堂を建立したとされる。真間4-9-1。2023.6.27

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ph17 大門通り。真間の継ぎ橋。真間の入江には多くの洲があり、洲から洲へ渡す橋を、継ぎ橋と呼んだらしい。真間4-7-24。2023.6.27

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ph18 真間の井。真間の手児奈が水を汲んだとされる。弘法寺の末寺である亀井院の裏庭にある。真間4-4-9。2023.6.27

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ph19 手児奈霊神堂。江戸時代には手児奈明神と呼ばれ、安産成就や疱瘡除けの信仰があった。1501年、弘法寺七世日与上人が手児奈の霊告を受け、その墓所跡に建立した、ということである。真間4-5-21。

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ph20 手児奈霊神堂。『万葉集』の時代に遡る、真間の入江の跡とみられる古池。真間4-5-21。2023.6.27

 『江戸名所図会』は、葛飾の真間の浦を弘法寺の前に広がる水田の地だとしている。土地の人たちの言い伝えによると、昔は真間の崖下まで波が打ち寄せていたというのである。同書には「真間弘法寺」と題した挿絵が載っている。これは2枚続きの絵図になっていて、弘法寺のみならず、「手児奈明神」(手児奈霊神堂)、「まゝの井」、「まゝの継橋」などが描き込まれていて興味深い(註18)。
 『江戸名所図会』をみると、弘法寺の崖下は現在とは違い水田と湿地が拡がっている。人家は弘法寺の参道(大門通り)に何軒か確認されるだけである。参道に橋が2本架かっているが、弘法寺に近い小さい橋が「まゝの継橋」である。「まゝの継橋」を弘法寺の方へ向かうと、右手に脇道がある。うねうねと曲がりくねった道の突き当りが「手児奈明神」である。
 もう一本の橋には名前が記されていない。しかし、位置関係からすると、これは現在、真間川に架かる入江橋の前身ではないかと思われる。この橋と「手児奈明神」の間は、川の流れともその岸辺の湿地とも判断のつかない曖昧な描き方をしているが、かなり目立つ文字で「まゝの入江」と書いている。
 そこで『万葉集』に改めて目を通すと、山部赤人の歌には「葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ」)(巻3-433)とあり、高橋虫麻呂は「波の音の 騒ぐ湊の 奥津城に 妹は臥せる」(巻9-1807)とも詠んでいる。また巻14に載る東歌には、下総国の歌として、次の一首があげられている(註19)。

  葛飾の真間の浦廻を漕ぐ船の船人騒く波立つらしも(巻14-3349)

 「浦廻」はうらみと読み、海岸の曲がって入りくんだところ、すなわち入江を指す(註20)。波が立つのは天候に異変のある前兆であるが、陸地が近い予告でもある。どちらの場合も船人の動きは騒がしくなる。
 つまり、『万葉集』に詠われた上代のころ、葛飾の真間に比定される市川市真間のあたりは、利根川(江戸川)河口に位置する海岸線の入江で、下総の国内のみならず、東国と畿内を連絡する水上交通の要衝であったことがうかがえる。
 『江戸名所図会』の刊行は1834~36(天保5~7)年である。『万葉集』の完成は奈良時代末とされる。ということは、それよりおよそ1000年の間に、東京湾の最奥部ともいうべき葛飾の真間の一帯では、陸地化が進む一方で、海岸線が後退したことになる。
 わが国の穀倉地帯となる平野は国土のわずか4分の1にすぎない。高取正男によれば、その平野の多くが実は非常に新しい時代につくりだされた。紀元前5000年から3000年のころには、海面は今より10メートルほど高かったが、寒冷期に入っていたことから、海面は徐々に後退していった。例えば、律令政府の手で班田収授のために整備された条里制の遺構は、沿岸地帯では海抜5メートル以下の地域には分布していない、というのである(註21)。
 手児奈霊神堂の写真を撮っていると、案内役の柏木久育君が、お堂の脇に池がありますよ、と教えてくれた。『万葉集』のころにもあった入江の跡だという。行ってみると、古びた池があり、カルガモのカップルが、仲睦まじく羽を休めている。水面には樹木の枝が頭を垂れたり、あるいは折れたまま横たわっていて、奥の岸辺に目をやると、葦が繁るに任せて群落をなしていた(ph20)。
 街歩きの後、画像を整理しながら、あれこれ調べていて、図らずも学んだことがもう1つある。先にも取りあげた『万葉集』の「にほ鳥の葛飾早稲を贄すとも」(巻14-3386)の「にほ鳥」のことである。「にほ鳥」とは水鳥のカイツブリのことで、水中に潜って小魚を漁る習性から、潜(かず)くの枕詞となり、転じて、葛飾に掛かる枕詞になったというのである(註22)。
 カイツブリとカルガモは、種類も生態も異なるが、水辺を好んで生息する野鳥の仲間であることに変わりはない。子育ての時期もやはり夏の初めである。手児奈霊神堂の古池は失われた真間の入江の面影を残す奇跡的な自然遺産というべきかも知れない。『万葉集』のころには夏の初めともなれば、カイツブリやカルガモに限らない、多くの種類の水鳥たちが、あたかも「波の音の騒ぐ」ように子育てをする涙ぐましい情景が、入江のそこかしこで見られたに違いないのである。

【註】
註1 『南総里見八犬伝 (二)』「第三十回 芳流閣上に信乃血戦す/坂東河原に見八勇を顕す」、「第三十一回 水閣の扁舟両雄を資く/江村の釣舟双狗を認る」(岩波文庫、1990)。5.芳流閣の決闘-八犬伝の世界 | たてやまフィールドミュージアム - 館山市立博物館 (hanaumikaidou.com)
註2 『日本歴史地名大系 12 千葉県の地名』「市川市」(平凡社、1996)
註3 『日本歴史地名大系 12 千葉県の地名』「野田市」(平凡社、1996)
註4 『日本歴史地名大系 12 千葉県の地名』「野田市」(平凡社、1996) 野田醤油(のだしょうゆ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)
註5 『万葉集(二)』「巻9-1807、1808」(日本古典文学大系、岩波書店、1959)
註6 『精選版日本語大辞典』「手児」(小学館)
註7 『精選版日本語大辞典』「立平・立均」(小学館)
註8 『精選版日本語大辞典』「斎子」(小学館)
註9 『妹の力』「玉依姫考 八」(『柳田国男全集11』所収、ちくま文庫、1990)
註10 『万葉集(三)』「巻14-3384~3387」(日本古典文学大系、岩波書店、1959)。
註11 『精選版日本語大辞典』「おすひ」(小学館)
註12 『万葉集(三)』「巻14-3460」(日本古典文学大系、岩波書店、1959)
註13 『折口信夫全集』「第一巻 古代研究 国文学篇」「国文学の発生(第三稿)」(中公文庫、1981)
註14 『万葉集(一)』「巻3-431~433」(日本古典文学大系、岩波書店、1959)。
註15 同上。『精選版日本語大辞典』「倭文」、「伏屋」、「妻問い」(小学館)。
註16 『江戸名所図会 6』「巻七 真間の手児奈旧跡」(ちくま学芸文庫、1997)
註17 市川・真間界隈 | 市川市公式Webサイト (ichikawa.lg.jp)
註18 『江戸名所図会 6』「巻七 真間の浦、および(挿絵)真間弘法寺」(ちくま学芸文庫、1997)。なお、「真間山弘法寺」の絵図(2枚続き)は、WEBサイトに『歴史散歩 江戸名所図会 巻之七 第二十冊』があり、下記のURLで検索すると閲覧できる。
http://arasan.saloon.jp/rekishi/images/edomeishozue2026.jpg
http://arasan.saloon.jp/rekishi/images/edomeishozue2027.jpg
註19 『万葉集(三)』巻14-3349番(日本古典文学大系、岩波書店、1959)
註20 『精選版日本語大辞典』「浦廻」(小学館)
註21 『民間信仰史の研究』「前代の村落生活」(高取正男、法蔵館、1982)
註22 『精選版日本語大辞典』「鳰鳥の」(小学館)

(ひらしま あきひこ)

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2023年11月14日です。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com 
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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