今日から「平嶋彰彦写真展」カタログ刊行 11月17日~25日
本日11月17日から開催する「平嶋彰彦写真展」にあわせて、カタログ『平嶋彰彦 東京ラビリンス 1985~1986/2009~2023』を刊行しました。本日は同書籍の中から、平嶋彰彦先生と大竹昭子先生の対談をご紹介します。

カタログ『平嶋彰彦 東京ラビリンス 1985~1986/2009~2023』
発行:2023年11月17日
監修:大竹昭子
執筆:森山大道、大竹昭子、平嶋彰彦
頁数:40頁
図版:35点
編集:尾立麗子(ときの忘れもの)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
価格:1,000円+税、送料250円
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平嶋彰彦×大竹昭子 対談
「見る/見られるのあわいに惹かれて」
大竹 前回の「東京ラビリンス」は、1985年、 戦災焼失区域を表示した『東京都35区区分地図帖』が復刻されたとき、当時お勤めだった毎日新聞社の同僚、西井一夫さんと共にそれを手がかりに街を歩くという連載を、「毎日グラフ」でおこなった際に撮影された、モノクロ写真が中心でした。
今回の展示は、新聞社を退職後に自主的に撮られたものでまとめられています。前回は三脚を使っての撮影でしたが、今回はスナップショットでしょうか。カラーで撮影地もいろいろですね。
平嶋 三脚はいまも持ち歩いていて、今回の作品も3分の1は三脚の撮影です。一人歩きの場合は、だいたいの目的地を一か所か二か所決めて出かけます。たとえば「浅草寺にとりあえず行ってみよう」というように。浅草駅に降りたらあとは成り行きで歩いて、目についたものや変なもの、「おや」と感じるようなものを撮っていくという感じですね。
大竹 気分が乗る日と乗らない日がないですか?
平嶋 ありますよ。面白くない一日っていうか、まったく冴えない一日が。
大竹 その一方で、シャッターを押しはじめると、調子があがってくることもあるでしょう?
平嶋 歩くと、いやおうなくものを見ますよね。見るっていう行為には、相手から促される部分と、内発的・自発的な部分とがあって、それがうまく重なったときに、写真を撮ろうとする意欲がわいてくる気がします。
会社に勤めていたときは、どういうわけか、スポーツの取材が多かったんですが、600ミリとか400ミリの望遠レンズで瞬間的にピントを合わせ、シャッターチャンスを捕まえるのは、賭けみたいなこところがあります。「これ」というシーンを一度はともかく二度もミスすると、冴えない一日になる予感がしてくる。逆に、最初にいいシーンが撮れたりすると、なんとなく、その日は一日中うまくいくんです。調子にのるっていう感じかな。それは街歩きの写真でも同じです。
大竹 調子が落ちるのは、たとえばどんなときですか?
平嶋 写真を撮ったあとで、「今撮ったでしょ」というようなことを言われるときでしょうか。カメラを向けたら相手が嫌がる場面かどうかはそれなりの経験があるから分かります。相手に抗議されない工夫もある程度しています。滅多にないのですが、思いもしなかった場面で抗議を受けることがあります。そうすると気持ちが落ち込んでしまいます。
スナップショットって狩猟用語ですけど、僕にとってはどちらかというと、釣りに似ている感じがして。釣りをしているときって、何が釣れるかわからないじゃないですか。例えば、アジを釣ろうとしていたらタイが釣れちゃうみたいなこともある。
大竹 写真は「釣り上げた」ものの複写だとすれば、魚拓のようなものかもしれないですね。
平嶋 街中で人をスナップするのはたいてい5メートル以内になります。レンズは50ミリか24ミリです。僕の技術的な下手さや、オートフォーカスじゃないせいもあるんだけど、意外に思うかもしれませんが、距離が近いと、人の表情は正確に把握できなくなりますし、ピントもなかなか合わせにくくなります。
大竹 えっ、オートフォーカスを使わない? 理由は何ですか?
平嶋 街歩きで使っているのは50ミリと24ミリのシフトレンズです。これはピントも露出もマニュアルで合わせるしかないんですね。
大竹 シフトレンズは補正機能がついていて、建物の縦線などが補正されます。レンズを変えてオートフォーカスを使う選択肢もあると思うけど、それはしたくないんですか?
平嶋 変えてもいいんですけど、ビルや人家の佇まいにも関心があります。なるべく歪めないようにしたいという気持ちを捨てきれないんですね。それでシフトレンズを使っているわけです。レンズやカメラを買い替えるとなるとお金がかかります。現役時代からマニュアルでやってきたから、それに慣れていることもあります。不便といえば不便ですが、それでもいいやと。でも、スナップは瞬間的な作業ですから、撮りそこないがたくさんあります。オートフォーカスならきちんと撮れるのに、と悔やむこともないではないですが(笑)。
大竹 いまは肖像権の問題があって、ストリートで人にカメラを向けるのは容易ではないでしょう。
平嶋 僕が現役だった30年とか40年前と比べると、かなりきつい状況だと思います。ただ、ストリートフォトには元々隠し撮りみたいな感じがあるじゃないですか。よくよく考えてみると、いま大竹さんとお話しているような距離感で相手の顔をじっと見ることはふつうはしないわけで。つまり普段はなるべく人の顔を見ないというのが、一種の礼儀みたいになっています。だから路上のスナップで、写される側の人が不快感を抱くのも仕方がないと思うんです。じゃあ撮るのを止めるかって言われると、やっぱり撮りたいという欲望はけっこう根深くて、シャッターを押すか押さないかで結構迷うんだけど、「大丈夫そうだ」というラインは、そうですね、言ってしまえば勘ですね、賭けと言っても
いいかもしれません。
大竹 写真の歴史が始まって以来、写真に写されたいろいろなものが私たちの滋養になっています。そういう人間が積み重ねてきた経験や歴史に対して、もう少し寛容になれないかなという気もしますけど。撮るなと言うあなた自身の記憶は、写真によって作られてきたんだよと。
平嶋 それはその通りだと思います。それで言うと、写真を撮る側ももう少し毅然とした態度で撮ればいいと思うんです。後ろめたい気持ちがあったり、腰の引けた姿勢だったりすると、相手に見透かされます。相手に了解してもらってから撮るにこしたことないのですが、スナップショットでは、たいていの場合、そうするわけにもいきません。抗議を受けたら、相手の気持ちを汲んで、その場で謝罪する覚悟も必要だと思います。「表現の自由」とかいう言葉はそういう場では通らない気がします。
大竹 「表現の自由」を盾にとって議論するのではなく、ひとりの人間として対することが大事ですよね。
平嶋 そう思います。拒否されたら撮らない、抗議されたら謝罪する。面倒くさいことだけど、それはしょうがないと思います。その一方で、写真家は写真家で、なぜ写真を撮るのか、という根拠をもう少し意識したほうがいいとも思います。スナップショットは肖像権の問題があります。しかし、撮ったときは公表がしにくくても、10年、20年たてば写真を見る環境が変わることもあります。いまダメだからと言って、カメラを向けるのを躊躇するのではなく……。
大竹 とりあえず、撮っておく。平嶋 そう。ともかく、撮ることが大事だと思う。
*
大竹 今回写真は退職後に撮られたもので、つまり、社会を担っているという意識があった頃とは異なる自分が撮っているわけですが、そのあたりのことをどう感じていますか? 気持ちの弾み方が若々しいですけど。
平嶋 森山大道さんがどこかで言っていたと思うけど、街に出ると魅力的な被写体がたくさんあって、撮ることを誘惑される感じがある、ということです。僕自身には森山さんみたいな強烈な目の欲望があるわけでないのですが、写真を撮るという行為は、自力的な行為である一方、他力的な行為なんだということです。
街歩きの行先はたいがい下町ですが、下町は乱暴な言い方をすると、見物料のいらない花屋敷とか美術館みたいな印象があります。狭い敷地に軒を連ねる家の佇まいとか、その軒先に花を植えている様子とか、個別には見事さはないのですが、みんなそれぞれに工夫していて、他人に見られることを意識して街並みが作られています。 見る/見られるの関係が非常に穏やかというか、落ち着いてい
て、しかも開放的なんですね。
下町にも塀のある家がありますが、その塀も割と低くて家の中が見えるんですね。いまは少なくなったけど、昔は窓に格子がついていて、家の中を完全に隠してはいませんでした。家の中と外に空気が通っているんですね。単に風通しがいいだけじゃなくて、人の気持ちにもそれが感じられる。僕はマンション住まいですが、マンションの閉鎖性とはまるで逆ですよね。なぜ下町なのかと言えば、そうした人間関係の通気性に誘われて、下町に足を向けているんだと思います。
大竹 見る/見られる関係が揺らいだり、境界が明確でないところに惹きつけられているということですね。
平嶋 少し話が脱線しますが、国語辞書の中で「見る」という言葉の意味を拾っていくと、夫婦になる、つまり異性と契るという意味が出てくるんですね。平安時代の上流階級では、女性が自分の姿を、なにか物を隔てることをしないで、男性に見せることは、心を許す証しだったらしい。つまり、見ることがイコール婚姻の意味になるわけです。現代でも男女の関係に限りません。人の顔をまじまじと見ることはないでしょう。つまり、日常的な世界では、見るのは心を許された相手だけ。
その反対に、ボクシングの試合や相撲の取組みでは敵となる相手を見るというよりも、睨みつけることをします。野生動物の世界では、目をそらすことは負けを意味するようですが、格闘技の世界でも、見るという行為に勝負の帰趨がかかっているように思います。見る/見られるの関係でいえば、都市の繁華街も特別な地区ではないでしょうか。どういうことかというと、当然、見ることを拒否する雰囲気はなくて、派手なデザインと宣伝文句に知恵を凝らし、通りすがりの人たちの目を奪おうとしているわけです。お互いのあいだに独特な見る/見られるの関係があるような気がします。
大竹 繁華街では「見る」ことはポジティブで対等な意味合いがあるけれど、それとはまったく逆なのがタワーマンションのような空間です。建物自体が「見ないでくれ」と言っているようだし、住人同士も顔を合わせるのを避けるような空気があります。
平嶋 このあいだ(2023年6月)、大学時代の写真部の連中と街歩きをしたついでに、JR市川駅のすぐそばの40階建てのタワーマンションに上ったことがあります。そこは屋上が市川市の管理する展望台になっているんですが、その展望台の一画に「ここでは双眼鏡は使わないでください」と書かれていたんです。
大竹 わざわざそう書いてあるんですか?
平嶋 よくよく見たら、展望台の正面に同じようなタワーマンションがあるんですね。距離は100メートルぐらいでしょうか。その間には低層の施設ばかりで、見た目の限りですが、人の住まいは見当たらない。つまり、露骨な言い方をすれば、双眼鏡でこのタワーマンションを覗き見しないでください、ということになるわけです。
大竹 ツインビルは70年代頃から建ちはじめましたけど、当初はオフィスだけだったからそれほど問題はなかったけれど、次第に住居にもなってきましたからね。
平嶋 マンションは昔風に言えば棟割り長屋です。住んでいる人たちが小さな空き地に樹木を植えたり、鉢植えの草花を置いたりし、楽しんでいたんですね。いまは管理会社か不動産会社の管理下に置かれていますから、そんなことは出来なくなってしまった。マンションの植栽はそれなりにきれいにしているけれど、だからといって、写真に撮ろうという気にはならないんですね。やはり個人の創作物というのは、上手い下手はあっても独特の個性があるんですね。かなりアナーキーなものもあって、見ていて楽しいんですね。
*
大竹 私は街を歩いていると、よく写真家の長野重一さんの言葉を思い出すんです。彼は1950年代にストリートスナップをよく撮っていて、「フォトエッセイ」と呼ばれて人気が高かったのですが、ある時からその「フォトエッセイ」が成立しにくくなり、写真をやめて映画の世界に行きます。ところが、60歳を過ぎて再び街に出てスナップするんです。そのきっかけというのが、街がすごく遠く見えたことだそうなんです。そう気がついた途端に写真が撮れるようになったと。
平嶋 『遠い視線』って写真集にはそんな背景があったとは知りませんでした。僕はそれまで長野重一さんの写真をいいと思っていなかったんですが、あるとき、『昭和二十年東京地図』のころだったかな、西井一夫さんがこの写真集を見せて、「お前、どう思うか」っていうんですね。「滅茶苦茶いいですよ、これ」って答えると、彼は「そうだよな、やっぱり」というんですね。
大竹 きっと長野さんなりに街に対するポジションが決まったんでしょうね。平嶋さんの場合はどうですか。どのあたりに自分の立ち位置を見いだしているのでしょうか?
平嶋 例えば上の写真について話すと、ここは浅草の観光名所ですよね。毎月2回、今戸2丁目に用事があってこの公園を通ります。ちょうど桜の季節でカメラをもって歩いていたら、この女の子が今戸橋の脇に自転車を置いたのが目に入ったんです。それで、「あれ」と思ってカメラを構えたんですね。それまでになかったものが、ポンと現われただけで、「おおっ」という雰囲気になって。
大竹 なんか物語を感じさせます。
平嶋 自分がふだん写真の被写体にしているのは、だれもが見慣れた東京の名所なわけですけど、そこをたまたま人が歩いて通るとか、なにかのちょっとしたきっかけで雰囲気が変わることがあります。それでとりあえず撮ってみることにしているのですが、画像を見ると、自分がそれまで思っていたのとはどこか違ったものが写っているんですね。
大竹 とすれば、風景になにかの要素が加わって変化する、その瞬間に遭遇する楽しさが、写真を撮りつづける動機になっているのでしょうか?
平嶋 カメラを持って街を歩くと、ふだん見過ごしていたものが目に入ることがあります。見飽きた街並みのようでも写真に撮ってみると見慣れない街並みが写っています。まして、そこに人が加わったりすればなおさらです。おっしゃる通りかも知れません。自分にとっては、ささやかと言えばささやか、贅沢と言えば贅沢な楽しみになっているように思います。
*
大竹 東京はどこまで行っても市街地が途切れず、世界に類を見ないメガロポリスですが、エリアごとの性格は甚だしく違います。
平嶋 統一感がないですね。
大竹 西東京に住んでいると、京成電車にほとんど縁がないですが、たまに乗ってみると、外国に行っているような気分になりますよ。
平嶋 わかります、わかります。僕は生れも育ちも千葉県で、いまも京成津田沼駅の近くに住んでいますから、自分自身はそんなふうに思わないのですが、僕の息子は同じエリアに住んでいるにも拘らず、そうじゃなくて、京成電車に乗ると、居合わせた乗客がどんな暮らしをしているのか不思議な気がする、と言うんですね。
大竹 距離的にも、たとえば国立から京成立石に行くとすれば、もう横断です。このサイズ感と多様性は写真家にとって魅力ではないでしょうか。永遠に写欲を刺激するものに出会えるんですから。
平嶋 「どこも一緒」のように見えても、実際に足で歩いてみると、同じじゃない。その町それぞれの固有な表情があります。なんとなく知っているつもりの町でも、久しぶりに歩いてみると、それまでとはどことなく違う知らない町になっています。
大竹 人が住んでいる限り、人の営みによって生まれる表情があって、目を凝らせば、必ずなにか見えてくるはずです。物書きは往々にして、「街は変わってしまった」と嘆いて自分の目にシャッターをおろしがちですが、写真家はそうではないですよね。少なくともいい写真を撮る人は幻影を追うことはしないです。
平嶋 街のありように従うしかないじゃないですか。変化の仕方の良し悪しはともかく、それを事実として認めないと、自分の居場所がなくなってしまう気がします。
大竹 写真が、自分と街との関係を修復する仲立ちをしているような感じですね。
平嶋 たしか荒木経惟さんだったと思うけど、「ファインダーで四隅さえ決めれば、物は写るんだ」という意味のことを言っていて。
大竹 言い換えれば「写真とは四隅を決める行為である」。名言ですね。
平嶋 目の前のことを文字で残そうとしたら文章力が必要です。他者にも理解できる文章でなくてはならないし、随分時間もかかります。絵だってそうですよね。でも写真なら、四隅さえ決めればあとはポンと写しとれてしまう。
大竹 森山さんの言う「現実の複写」。
平嶋 複写と言っても三次元の世界の複写なわけですが、人間には想像力があるから、平面の写真からもとの景色を思い浮かべたり、実際に見たものとどれだけ違うのかを考えたりすることができる。
大竹 写真の不思議さはそこです。同じものを繰り返し見ることができ、しかもその像は静止していて動画よりもイメージの定着力が強いように思います。
平嶋 視覚の世界は、あくまでも僕にとってはと言うことですが、知覚のなかでも一番確信を
持てる領域じゃないかと思います。ところが、肉眼で眺めているものを写真に写して見ると、
それまで思っていた世界の確かさが揺らぐ感覚があります。その揺らぎは、認識の仕方に影響を与えずにはおかないはずです。
大竹 撮れたものを見直すうちに、現実とは異なるイメージが頭のなかに蓄積されていきますよね。
平嶋 僕のなかで人の記憶はだいたい写真に結びついているんですね。例えば自分の父親の遺影が実家に飾ってあります。僕の長男が2歳か3歳のころ、彼を膝に抱いたスナップショットでした。それを写真店に頼んで、肌着姿を背広姿に着せ替えて、遺影にしてもらったんです。始めのうちは「どこか不自然だな」とか「前もって遺影は撮っておくべきだった」と思っていたんですが、今になってみると、親父といえば一番最初にその写真の笑顔を思い出すんです。
大竹 遺影を。
平嶋 ええ。人に限らず、街並みや自然の風景もそうかも知れません。
(2023年6月29日 於 ときの忘れもの)
※作品集『東京ラビリンス1985~1986/2009~2023』より転載
◆平嶋彰彦写真展―東京ラビリンス/カラー
会期:2023年11月17日(金)~11月25日(土) 11:00-19:00 ※会期中無休
監修:大竹昭子
2020年の第一回平嶋彰彦展に続く第二回個展では2009年~2023年に街歩きで撮影したカラー写真の中から20点を展示します。
全20点の画像と価格は11月9日ブログをご参照ください。
平嶋彰彦作品集『東京ラビリンス1985~1986/2009~2023』(執筆/森山大道、大竹昭子、平嶋彰彦、B5判・39頁、1,100円)を刊行します。
11月18日(土)16時より平嶋彰彦と大竹昭子によるギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。メールにてご予約ください( info@tokinowasuremono.com)。
なお、11月18日(土)は山手線外回りの大崎~渋谷~池袋間の全列車が、11月19日(日)は山手線内回りの池袋~渋谷~大崎間の全列車が運休しています。お気をつけてお越しくださいませ。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。

建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
本日11月17日から開催する「平嶋彰彦写真展」にあわせて、カタログ『平嶋彰彦 東京ラビリンス 1985~1986/2009~2023』を刊行しました。本日は同書籍の中から、平嶋彰彦先生と大竹昭子先生の対談をご紹介します。

カタログ『平嶋彰彦 東京ラビリンス 1985~1986/2009~2023』
発行:2023年11月17日
監修:大竹昭子
執筆:森山大道、大竹昭子、平嶋彰彦
頁数:40頁
図版:35点
編集:尾立麗子(ときの忘れもの)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
価格:1,000円+税、送料250円
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平嶋彰彦×大竹昭子 対談
「見る/見られるのあわいに惹かれて」
大竹 前回の「東京ラビリンス」は、1985年、 戦災焼失区域を表示した『東京都35区区分地図帖』が復刻されたとき、当時お勤めだった毎日新聞社の同僚、西井一夫さんと共にそれを手がかりに街を歩くという連載を、「毎日グラフ」でおこなった際に撮影された、モノクロ写真が中心でした。
今回の展示は、新聞社を退職後に自主的に撮られたものでまとめられています。前回は三脚を使っての撮影でしたが、今回はスナップショットでしょうか。カラーで撮影地もいろいろですね。
平嶋 三脚はいまも持ち歩いていて、今回の作品も3分の1は三脚の撮影です。一人歩きの場合は、だいたいの目的地を一か所か二か所決めて出かけます。たとえば「浅草寺にとりあえず行ってみよう」というように。浅草駅に降りたらあとは成り行きで歩いて、目についたものや変なもの、「おや」と感じるようなものを撮っていくという感じですね。
大竹 気分が乗る日と乗らない日がないですか?
平嶋 ありますよ。面白くない一日っていうか、まったく冴えない一日が。
大竹 その一方で、シャッターを押しはじめると、調子があがってくることもあるでしょう?
平嶋 歩くと、いやおうなくものを見ますよね。見るっていう行為には、相手から促される部分と、内発的・自発的な部分とがあって、それがうまく重なったときに、写真を撮ろうとする意欲がわいてくる気がします。
会社に勤めていたときは、どういうわけか、スポーツの取材が多かったんですが、600ミリとか400ミリの望遠レンズで瞬間的にピントを合わせ、シャッターチャンスを捕まえるのは、賭けみたいなこところがあります。「これ」というシーンを一度はともかく二度もミスすると、冴えない一日になる予感がしてくる。逆に、最初にいいシーンが撮れたりすると、なんとなく、その日は一日中うまくいくんです。調子にのるっていう感じかな。それは街歩きの写真でも同じです。
大竹 調子が落ちるのは、たとえばどんなときですか?
平嶋 写真を撮ったあとで、「今撮ったでしょ」というようなことを言われるときでしょうか。カメラを向けたら相手が嫌がる場面かどうかはそれなりの経験があるから分かります。相手に抗議されない工夫もある程度しています。滅多にないのですが、思いもしなかった場面で抗議を受けることがあります。そうすると気持ちが落ち込んでしまいます。
スナップショットって狩猟用語ですけど、僕にとってはどちらかというと、釣りに似ている感じがして。釣りをしているときって、何が釣れるかわからないじゃないですか。例えば、アジを釣ろうとしていたらタイが釣れちゃうみたいなこともある。
大竹 写真は「釣り上げた」ものの複写だとすれば、魚拓のようなものかもしれないですね。
平嶋 街中で人をスナップするのはたいてい5メートル以内になります。レンズは50ミリか24ミリです。僕の技術的な下手さや、オートフォーカスじゃないせいもあるんだけど、意外に思うかもしれませんが、距離が近いと、人の表情は正確に把握できなくなりますし、ピントもなかなか合わせにくくなります。
大竹 えっ、オートフォーカスを使わない? 理由は何ですか?
平嶋 街歩きで使っているのは50ミリと24ミリのシフトレンズです。これはピントも露出もマニュアルで合わせるしかないんですね。
大竹 シフトレンズは補正機能がついていて、建物の縦線などが補正されます。レンズを変えてオートフォーカスを使う選択肢もあると思うけど、それはしたくないんですか?
平嶋 変えてもいいんですけど、ビルや人家の佇まいにも関心があります。なるべく歪めないようにしたいという気持ちを捨てきれないんですね。それでシフトレンズを使っているわけです。レンズやカメラを買い替えるとなるとお金がかかります。現役時代からマニュアルでやってきたから、それに慣れていることもあります。不便といえば不便ですが、それでもいいやと。でも、スナップは瞬間的な作業ですから、撮りそこないがたくさんあります。オートフォーカスならきちんと撮れるのに、と悔やむこともないではないですが(笑)。
大竹 いまは肖像権の問題があって、ストリートで人にカメラを向けるのは容易ではないでしょう。
平嶋 僕が現役だった30年とか40年前と比べると、かなりきつい状況だと思います。ただ、ストリートフォトには元々隠し撮りみたいな感じがあるじゃないですか。よくよく考えてみると、いま大竹さんとお話しているような距離感で相手の顔をじっと見ることはふつうはしないわけで。つまり普段はなるべく人の顔を見ないというのが、一種の礼儀みたいになっています。だから路上のスナップで、写される側の人が不快感を抱くのも仕方がないと思うんです。じゃあ撮るのを止めるかって言われると、やっぱり撮りたいという欲望はけっこう根深くて、シャッターを押すか押さないかで結構迷うんだけど、「大丈夫そうだ」というラインは、そうですね、言ってしまえば勘ですね、賭けと言っても
いいかもしれません。
大竹 写真の歴史が始まって以来、写真に写されたいろいろなものが私たちの滋養になっています。そういう人間が積み重ねてきた経験や歴史に対して、もう少し寛容になれないかなという気もしますけど。撮るなと言うあなた自身の記憶は、写真によって作られてきたんだよと。
平嶋 それはその通りだと思います。それで言うと、写真を撮る側ももう少し毅然とした態度で撮ればいいと思うんです。後ろめたい気持ちがあったり、腰の引けた姿勢だったりすると、相手に見透かされます。相手に了解してもらってから撮るにこしたことないのですが、スナップショットでは、たいていの場合、そうするわけにもいきません。抗議を受けたら、相手の気持ちを汲んで、その場で謝罪する覚悟も必要だと思います。「表現の自由」とかいう言葉はそういう場では通らない気がします。
大竹 「表現の自由」を盾にとって議論するのではなく、ひとりの人間として対することが大事ですよね。
平嶋 そう思います。拒否されたら撮らない、抗議されたら謝罪する。面倒くさいことだけど、それはしょうがないと思います。その一方で、写真家は写真家で、なぜ写真を撮るのか、という根拠をもう少し意識したほうがいいとも思います。スナップショットは肖像権の問題があります。しかし、撮ったときは公表がしにくくても、10年、20年たてば写真を見る環境が変わることもあります。いまダメだからと言って、カメラを向けるのを躊躇するのではなく……。
大竹 とりあえず、撮っておく。平嶋 そう。ともかく、撮ることが大事だと思う。
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大竹 今回写真は退職後に撮られたもので、つまり、社会を担っているという意識があった頃とは異なる自分が撮っているわけですが、そのあたりのことをどう感じていますか? 気持ちの弾み方が若々しいですけど。
平嶋 森山大道さんがどこかで言っていたと思うけど、街に出ると魅力的な被写体がたくさんあって、撮ることを誘惑される感じがある、ということです。僕自身には森山さんみたいな強烈な目の欲望があるわけでないのですが、写真を撮るという行為は、自力的な行為である一方、他力的な行為なんだということです。
街歩きの行先はたいがい下町ですが、下町は乱暴な言い方をすると、見物料のいらない花屋敷とか美術館みたいな印象があります。狭い敷地に軒を連ねる家の佇まいとか、その軒先に花を植えている様子とか、個別には見事さはないのですが、みんなそれぞれに工夫していて、他人に見られることを意識して街並みが作られています。 見る/見られるの関係が非常に穏やかというか、落ち着いてい
て、しかも開放的なんですね。
下町にも塀のある家がありますが、その塀も割と低くて家の中が見えるんですね。いまは少なくなったけど、昔は窓に格子がついていて、家の中を完全に隠してはいませんでした。家の中と外に空気が通っているんですね。単に風通しがいいだけじゃなくて、人の気持ちにもそれが感じられる。僕はマンション住まいですが、マンションの閉鎖性とはまるで逆ですよね。なぜ下町なのかと言えば、そうした人間関係の通気性に誘われて、下町に足を向けているんだと思います。
大竹 見る/見られる関係が揺らいだり、境界が明確でないところに惹きつけられているということですね。
平嶋 少し話が脱線しますが、国語辞書の中で「見る」という言葉の意味を拾っていくと、夫婦になる、つまり異性と契るという意味が出てくるんですね。平安時代の上流階級では、女性が自分の姿を、なにか物を隔てることをしないで、男性に見せることは、心を許す証しだったらしい。つまり、見ることがイコール婚姻の意味になるわけです。現代でも男女の関係に限りません。人の顔をまじまじと見ることはないでしょう。つまり、日常的な世界では、見るのは心を許された相手だけ。
その反対に、ボクシングの試合や相撲の取組みでは敵となる相手を見るというよりも、睨みつけることをします。野生動物の世界では、目をそらすことは負けを意味するようですが、格闘技の世界でも、見るという行為に勝負の帰趨がかかっているように思います。見る/見られるの関係でいえば、都市の繁華街も特別な地区ではないでしょうか。どういうことかというと、当然、見ることを拒否する雰囲気はなくて、派手なデザインと宣伝文句に知恵を凝らし、通りすがりの人たちの目を奪おうとしているわけです。お互いのあいだに独特な見る/見られるの関係があるような気がします。
大竹 繁華街では「見る」ことはポジティブで対等な意味合いがあるけれど、それとはまったく逆なのがタワーマンションのような空間です。建物自体が「見ないでくれ」と言っているようだし、住人同士も顔を合わせるのを避けるような空気があります。
平嶋 このあいだ(2023年6月)、大学時代の写真部の連中と街歩きをしたついでに、JR市川駅のすぐそばの40階建てのタワーマンションに上ったことがあります。そこは屋上が市川市の管理する展望台になっているんですが、その展望台の一画に「ここでは双眼鏡は使わないでください」と書かれていたんです。
大竹 わざわざそう書いてあるんですか?
平嶋 よくよく見たら、展望台の正面に同じようなタワーマンションがあるんですね。距離は100メートルぐらいでしょうか。その間には低層の施設ばかりで、見た目の限りですが、人の住まいは見当たらない。つまり、露骨な言い方をすれば、双眼鏡でこのタワーマンションを覗き見しないでください、ということになるわけです。
大竹 ツインビルは70年代頃から建ちはじめましたけど、当初はオフィスだけだったからそれほど問題はなかったけれど、次第に住居にもなってきましたからね。
平嶋 マンションは昔風に言えば棟割り長屋です。住んでいる人たちが小さな空き地に樹木を植えたり、鉢植えの草花を置いたりし、楽しんでいたんですね。いまは管理会社か不動産会社の管理下に置かれていますから、そんなことは出来なくなってしまった。マンションの植栽はそれなりにきれいにしているけれど、だからといって、写真に撮ろうという気にはならないんですね。やはり個人の創作物というのは、上手い下手はあっても独特の個性があるんですね。かなりアナーキーなものもあって、見ていて楽しいんですね。
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大竹 私は街を歩いていると、よく写真家の長野重一さんの言葉を思い出すんです。彼は1950年代にストリートスナップをよく撮っていて、「フォトエッセイ」と呼ばれて人気が高かったのですが、ある時からその「フォトエッセイ」が成立しにくくなり、写真をやめて映画の世界に行きます。ところが、60歳を過ぎて再び街に出てスナップするんです。そのきっかけというのが、街がすごく遠く見えたことだそうなんです。そう気がついた途端に写真が撮れるようになったと。
平嶋 『遠い視線』って写真集にはそんな背景があったとは知りませんでした。僕はそれまで長野重一さんの写真をいいと思っていなかったんですが、あるとき、『昭和二十年東京地図』のころだったかな、西井一夫さんがこの写真集を見せて、「お前、どう思うか」っていうんですね。「滅茶苦茶いいですよ、これ」って答えると、彼は「そうだよな、やっぱり」というんですね。
大竹 きっと長野さんなりに街に対するポジションが決まったんでしょうね。平嶋さんの場合はどうですか。どのあたりに自分の立ち位置を見いだしているのでしょうか?
平嶋 例えば上の写真について話すと、ここは浅草の観光名所ですよね。毎月2回、今戸2丁目に用事があってこの公園を通ります。ちょうど桜の季節でカメラをもって歩いていたら、この女の子が今戸橋の脇に自転車を置いたのが目に入ったんです。それで、「あれ」と思ってカメラを構えたんですね。それまでになかったものが、ポンと現われただけで、「おおっ」という雰囲気になって。
大竹 なんか物語を感じさせます。
平嶋 自分がふだん写真の被写体にしているのは、だれもが見慣れた東京の名所なわけですけど、そこをたまたま人が歩いて通るとか、なにかのちょっとしたきっかけで雰囲気が変わることがあります。それでとりあえず撮ってみることにしているのですが、画像を見ると、自分がそれまで思っていたのとはどこか違ったものが写っているんですね。
大竹 とすれば、風景になにかの要素が加わって変化する、その瞬間に遭遇する楽しさが、写真を撮りつづける動機になっているのでしょうか?
平嶋 カメラを持って街を歩くと、ふだん見過ごしていたものが目に入ることがあります。見飽きた街並みのようでも写真に撮ってみると見慣れない街並みが写っています。まして、そこに人が加わったりすればなおさらです。おっしゃる通りかも知れません。自分にとっては、ささやかと言えばささやか、贅沢と言えば贅沢な楽しみになっているように思います。
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大竹 東京はどこまで行っても市街地が途切れず、世界に類を見ないメガロポリスですが、エリアごとの性格は甚だしく違います。
平嶋 統一感がないですね。
大竹 西東京に住んでいると、京成電車にほとんど縁がないですが、たまに乗ってみると、外国に行っているような気分になりますよ。
平嶋 わかります、わかります。僕は生れも育ちも千葉県で、いまも京成津田沼駅の近くに住んでいますから、自分自身はそんなふうに思わないのですが、僕の息子は同じエリアに住んでいるにも拘らず、そうじゃなくて、京成電車に乗ると、居合わせた乗客がどんな暮らしをしているのか不思議な気がする、と言うんですね。
大竹 距離的にも、たとえば国立から京成立石に行くとすれば、もう横断です。このサイズ感と多様性は写真家にとって魅力ではないでしょうか。永遠に写欲を刺激するものに出会えるんですから。
平嶋 「どこも一緒」のように見えても、実際に足で歩いてみると、同じじゃない。その町それぞれの固有な表情があります。なんとなく知っているつもりの町でも、久しぶりに歩いてみると、それまでとはどことなく違う知らない町になっています。
大竹 人が住んでいる限り、人の営みによって生まれる表情があって、目を凝らせば、必ずなにか見えてくるはずです。物書きは往々にして、「街は変わってしまった」と嘆いて自分の目にシャッターをおろしがちですが、写真家はそうではないですよね。少なくともいい写真を撮る人は幻影を追うことはしないです。
平嶋 街のありように従うしかないじゃないですか。変化の仕方の良し悪しはともかく、それを事実として認めないと、自分の居場所がなくなってしまう気がします。
大竹 写真が、自分と街との関係を修復する仲立ちをしているような感じですね。
平嶋 たしか荒木経惟さんだったと思うけど、「ファインダーで四隅さえ決めれば、物は写るんだ」という意味のことを言っていて。
大竹 言い換えれば「写真とは四隅を決める行為である」。名言ですね。
平嶋 目の前のことを文字で残そうとしたら文章力が必要です。他者にも理解できる文章でなくてはならないし、随分時間もかかります。絵だってそうですよね。でも写真なら、四隅さえ決めればあとはポンと写しとれてしまう。
大竹 森山さんの言う「現実の複写」。
平嶋 複写と言っても三次元の世界の複写なわけですが、人間には想像力があるから、平面の写真からもとの景色を思い浮かべたり、実際に見たものとどれだけ違うのかを考えたりすることができる。
大竹 写真の不思議さはそこです。同じものを繰り返し見ることができ、しかもその像は静止していて動画よりもイメージの定着力が強いように思います。
平嶋 視覚の世界は、あくまでも僕にとってはと言うことですが、知覚のなかでも一番確信を
持てる領域じゃないかと思います。ところが、肉眼で眺めているものを写真に写して見ると、
それまで思っていた世界の確かさが揺らぐ感覚があります。その揺らぎは、認識の仕方に影響を与えずにはおかないはずです。
大竹 撮れたものを見直すうちに、現実とは異なるイメージが頭のなかに蓄積されていきますよね。
平嶋 僕のなかで人の記憶はだいたい写真に結びついているんですね。例えば自分の父親の遺影が実家に飾ってあります。僕の長男が2歳か3歳のころ、彼を膝に抱いたスナップショットでした。それを写真店に頼んで、肌着姿を背広姿に着せ替えて、遺影にしてもらったんです。始めのうちは「どこか不自然だな」とか「前もって遺影は撮っておくべきだった」と思っていたんですが、今になってみると、親父といえば一番最初にその写真の笑顔を思い出すんです。
大竹 遺影を。
平嶋 ええ。人に限らず、街並みや自然の風景もそうかも知れません。
(2023年6月29日 於 ときの忘れもの)
※作品集『東京ラビリンス1985~1986/2009~2023』より転載
◆平嶋彰彦写真展―東京ラビリンス/カラー
会期:2023年11月17日(金)~11月25日(土) 11:00-19:00 ※会期中無休
監修:大竹昭子
2020年の第一回平嶋彰彦展に続く第二回個展では2009年~2023年に街歩きで撮影したカラー写真の中から20点を展示します。全20点の画像と価格は11月9日ブログをご参照ください。
平嶋彰彦作品集『東京ラビリンス1985~1986/2009~2023』(執筆/森山大道、大竹昭子、平嶋彰彦、B5判・39頁、1,100円)を刊行します。
11月18日(土)16時より平嶋彰彦と大竹昭子によるギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。メールにてご予約ください( info@tokinowasuremono.com)。
なお、11月18日(土)は山手線外回りの大崎~渋谷~池袋間の全列車が、11月19日(日)は山手線内回りの池袋~渋谷~大崎間の全列車が運休しています。お気をつけてお越しくださいませ。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。

建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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