平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき

その29 新宿歌舞伎町の悪所と新大久保の異郷

文・写真 平嶋彰彦


 新宿歌舞伎町の区役所通りにかつて小茶という飲み屋があった。この店を宇野敏雄君と柏木久育君と足しげく訪れた時期がある。1974(昭和49)年、私は最初の赴任地である北九州市(毎日新聞西部本社)から5年ぶりに東京に戻ってきた。27歳のときである。二人は大学写真部の後輩で、退社後にはじめた街歩きの会のメンバーである。
 小茶は木造二階の一戸建てで、間口は狭く、二階といっても天井は低かった。私の母親と年恰好の変わらないおばさんが一人で切り盛りしていた。たいていは私たちが最初の客だった。すると決まったように、ウィスキーの水割りに使う氷を氷屋に買い出しにやらされた。酒の肴はマグロのぶつ切り・たまご焼き・お新香ぐらいで品数は少なかった。見た目も素朴というか粗雑な感じだったが、他所の店にはないおふくろの味があった。
 おばさんはなぜか客にたいしてそっけなかった。その代わり、私たちは誰に遠慮するのでもなく落ち着いた雰囲気で長話をすることができた。話題になるのは最近に見聞きした小説や音楽、映画などとりとめもない。その多くは私の知らないことで、これはいまも変わらないが、私はひたすら聞き役にまわる。かれこれするうちに、サントリーホワイト1本を空にすると、区役所通りのすぐ向いにあるゴールデン街に河岸を変えた。

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ph1 新宿駅西口。思い出横丁。金券ショップ。西新宿1-2。2023.10.24

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ph2 新宿駅西口。思い出横丁。蕎麦屋。西新宿1-2。2023.10.24

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ph3 新宿駅西口。思い出横丁。焼き鳥屋。西新宿1-2。2023.10.24

 ゴールデン街でよく覚えているのは唯尼庵というバーだった。こちらの店は小茶とはまるで逆さまの雰囲気で、店を仕切っていたオネエサンは元気というかアナーキーな性分で、騒々しいこと極まりなかった。
 そのころのゴールデン街では、横尾忠則や宇野亜喜良の手がけた寺山修司の天井桟敷・唐十郎の状況劇場などアングラ演劇のポスターがいたるところに貼られていた。この店もその例に漏れず、客は誰も彼も見ず知らずの人たちばかりだったが、1960年代から70年代に突出した反権力の思潮を持つ若い世代の巣窟という感があった。
 1945(昭和20)年の空襲で、新宿は壊滅的な被害を受け、街並みの大半が焼野原になった。私が大学進学のため上京したのは1965年で、東京オリンピックの翌年になる。戦後の復興はテキヤの傘下にあった闇市から始まったというが、新宿駅南口の御大典広場や西口の思い出横丁の周りには、闇市時代の混沌と無秩序がうっすらと残っていた(ph1~ph3)。
 東京都は戦災からの復興計画の目玉として、新宿駅北方に歌舞伎座を設立し、これを中心に大規模な興行・文化街を構想した。しかし1950年に東京産業文化博覧会を開催するにとどまり、実現することはなかった。歌舞伎座の誘致は頓挫するが、その後この一帯には映画館や劇場といった娯楽施設あるいは風俗営業の店舗とかラブホテルなどが雨のあとの竹の子のように建設され、みるみるうちに東洋一とも称される歓楽街に成長した。歌舞伎町の町名は、この未完の夢の残滓ということになる(註1)。
 歌舞伎の語源を辞書で引くと、「傾(かぶ)く」が名詞化したもので、転じて正統的・伝統的ではない異様な風体・自由奔放な行動・色めいた振舞いなどを指し、中世末期より近世初頭にかけての時代的な風俗を象徴する言葉となった。それにともない、派手な身なりの無頼・遊侠の徒を「かぶき者」と呼ぶようになった、とある(註2)。
 だとすれば、1960年代から70年代にさまざまな形で展開されたアングラ演劇の背景には、本来の意味における「かぶき」という芸術活動を再考し、その心意気を現代に復活させようとする志向が働いていたように考えられる。
 昨年(2023年)の10月24日のことだが、いつもの仲間と街歩きをした。コースは、JR新宿駅西口の思い出横丁をのぞき、それより歌舞伎町にむかい、TOHOシネタワーと東急歌舞伎町タワーをみたあと、さらに職安通りへ出て、新大久保のコリアンタウンを訪れるというものだった。
 新宿の街歩きは5年ぶりになる。都市はどこでも猥雑で怪しげな空間がつきものだが、いつの間にか淘汰され、毒にも薬にもならないテーマパークのようになっていく。思い出横丁や歌舞伎町では外国人観光客が驚くほど増えた。なにが面白くてこんなところにと思わないこともないが、おそらく人気の観光スポットになっているのである。外国人観光客が安心して歩ける東京の典型的な悪所ということになる。
 歌舞伎町のコマ劇場はすでにない。跡地にはTOHOシネタワーが建ち、その上からゴジラが街を見下ろしている(ph5、ph6)。コマ劇場は演歌の殿堂と呼ばれ、多くの演歌歌手の特別公演を開催していた。私にはゴジラよりも北島三郎や都はるみの方がなつかしい。
 むかし噴水のあったその前の広場には、十代とみられる派手に着飾った男女がたむろし地べたに座り込んでいた(ph7)。学校にいくか、そうでなければ、働いている時間帯である。どういうわけかと思って、カメラを向けると、あれは最近テレビや新聞で問題視されている東横キッズだという。年齢は私の孫の世代になる。なかには欧米からの外国人と思われる若者も混じっている。

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ph4 パチンコ&スロット店。歌舞伎町1-2。2023.10.24

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ph5 セントラル・ロードとTOHOシネタワーのゴジラ。歌舞伎町1。2023.10.24

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ph6  TOHOシネタワー。8階のゴジラテラス。歌舞伎町1-19-1。2023.10.24

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ph7 シネシティ広場。東横キッズ。歌舞伎町1-20。2023.10.24

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ph8 一番通り。ラブホテル。歌舞伎町2-45

 JR山手線新大久保駅の周りはコリアンタウンの通称で知られる。コリアンタウンというくらいだから韓国からやってきた人が数多く居住しているのだが、その外にもベトナム・ネパール・タイ・台湾などの国々からやってきた人も少なくない。ここは日本人のみならず、さまざまな理由で海を渡ってきた多国籍の人々が混在する街なのである。
 今回は大久保1丁目にあるイケメン通りと呼ばれる韓流の商店街を中心に見てまわった。新大久保駅のコリアンタウンはこれまでも歩いたことがあるが、肝心かなめともいうべきこの通りはうっかり見落としていたのである。
 イケメン通りは大久保通りと職安通りを結ぶ約300メートルの裏通りで、すぐ東側に西大久保公園がある。JR新大久保駅からわずか250メートル、JR新宿駅からでも700メートル。韓国レストラン・カフェ・コスメ・K-POPグッズ・韓国式占いなどの店舗が軒を連ねている。私たちが訪れたのは平日の午後だったが、韓流ファンと思われる日本人女性の絶え間ない人の流れで賑わっていた(ph10~ph18、ph23)。
 この韓流商店街にイケメン通りという名前を誰がつけたのか、またその由来もはっきりしない。WEBのサイトにはあれこれ書かれているが、腑に落ちる解説は見あたらない。その一つに、商店街が出来たころ、イケメンの韓国人を揃えて接客する店が多かったからだというのがある。もっともらしい気がしないでもないが、ここは歌舞伎町の風俗店と違い、客単価が安い。そんな馬鹿げた投資をしたら、採算がとれないに決まっている。
 『ルポ 新大久保―移民最前線都市を歩く』という労作がある。筆者の室橋裕和はジャーナリストで、新大久保で暮らした体験に基づきこの本を書いている(註3)。
 イケメン通りで働く従業員の多くは韓国人留学生である。室橋裕和は彼らの接客態度の甲斐々々しさを実見していて、その具体例をあげたあと、「この街にハマる女子の気持ちが少しわかるような気がした」と述べている。あくまでも憶測に過ぎないが、そのことが韓国ドラマ『冬のソナタ』のキム・ヨンジュン演じる主人公を連想させずに置かなかった、ということではないだろうか。
 高度成長期からバブル経済にむかう1980年代から90年代のころ、歌舞伎町にはアジア系の風俗クラブが林立し、韓国をはじめさまざまな国からやってきた女性たちが働いていた。彼女たちの居住地となったのが、歌舞伎町の目と鼻の先にある新大久保だった。職場に歩いて通えるうえに、家賃が安かったからである。(註4)。

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ph9 職安通り。民族衣装の女性。大久保1。2023.10.24

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ph10 イケメン通り。ドン・キホーテ店。大久保1-12。2023.10.24

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ph11 イケメン通り。手相占いの女性。大久保1-12。2023.10.24

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ph12 イケメン通り。ラブホテルRIO。大久保1-17。2023.10.24

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ph13 イケメン通り。韓国風屋台。奥は韓国家庭料理のイタロー。大久保1-16。2023.10.24

 新大久保がコリアンタウンとして脚光を浴びるきっかけとなったのは、2002(平成14)年に日韓両国が共同開催したサッカーのワールドカップだった。その当時、職安通りに「大使館」という韓国レストランがあり、そこに地元の韓国人ばかりでなく日本人も集まり、一緒に応援するようになった。これにマスコミが目ざとく飛びついて、韓国と日本の試合があるたびに、新大久保の街が大きく報道されたのである。
 韓国のテレビドラマ『冬のソナタ』が日本で放映されたのはその翌年である。すると、日本人女性の間に熱狂的な韓流ブームがまき起こり、彼女たちはドラマの舞台になった韓国を訪ねるのみならず、新大久保のコリアンタウンにも大挙して押し寄せた。
 こうした韓流ブームに応えるように、元留学生を中心とした若い世代の起業家たちが韓国料理や韓国商品の店を次々と開いていく。彼らが注目した場所が現在のイケメン通りだった。ここは山手線新大久保駅の近くで、隣の新宿駅は屈指のターミナル駅である。交通がなにかと便利であるのに加え、地価が新大久保のなかでも比較的に安かった。
 大久保通りには、後述するように、明治末から形成された商店街があったが、高齢化と後継者不足に歯止めが掛からなかった。そして空き家が増え続けるこの大久保通りにも、やがて韓国の起業家たちが進出するようになった(註5)。
 小泉八雲記念公園が大久保1丁目にある。イケメン通りから東側へ歩いて約160メートルのところである。小泉八雲は、『知られぬ日本の面影』『心』『霊の日本』『怪談』などの著作を残したことで知られる。生まれ育ったのはギリシャで、英名はラフカディオ・ハーン。わが国の風俗と人情をこよなく愛し、日本に帰化した。そのハーンの終焉の地となったのが、ほかならぬ新大久保だった(註6)。
 その記念公園に隣接するのが大久保小学校である。全校150人ほどの児童のうち、日本人が4割ぐらいで、両親がともに外国籍であるとか、あるいはハーフなど外国に関係する児童が約6割を占め、国籍を数えると14ヶ国に及ぶこともあったという。
 住民が多国籍化すると、民族文化や生活習慣の違いから、それまで住んでいた日本人との間で大なり小なり軋轢が生じる。放置すればお互いが暮らしにくくなる。そこで双方の側から対立を避けて、融和を目指す工夫がなされてきた。
 次にあげるはそうした努力の一例である。
 大久保小学校の校章は植物のツツジをデザインしたものである。江戸時代から続くツツジ栽培の歴史的文化を伝えていこうという趣旨から、校内のそこかしこにツツジを植えている。世話をするのは6年生の仕事とされてきた。
 これには国籍には拘わりなく、みんなで挿し木、水遣り、病害虫の対策などをする。そればかりでなく、観察日記をつけたり、歴史を調べたり、絵本をつくったりしているという(註7)。小泉八雲は国家や民族の壁を越えて、日本を愛しんだ。多国籍の彼ら彼女たちにも、小泉八雲と同じように、新大久保をわが町として愛しんでもらいたいという夢と希望を託しているのである。

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ph14 イケメン通り。占いの館(右)とK-POPの販売店MOIZA。大久保1-16。2023.10.24

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ph15 イケメン通り。ネコのいる店。大久保1-16。2023.10.24

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ph16 イケメン通り。韓国直輸入のブティックLABELLE。大久保1-15。2023.10.24

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ph17 イケメン通り。スウィーツのカフェChurros De Paris。大久保1-16。2023.10.24

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ph18 イケメン通り。働く人。大久保1-15。2023.10.24

 江戸時代の大久保百人町は、鉄炮百人組同心の集団居住地であるが、ここは江戸随一の植木の栽培地としても有名だった。
 江戸に在住する武士は暇だった。三番勤めといい、勤務は3日に1日だった。しかし、俸禄は薄給で、それだけでは家族を養っていけなかった。俸禄は、役料は別だが、個人ではなく家に与えられた。そこで、武士たちは抜け道を考えつく。後継ぎが成人になると、さっさと隠居し、ありあまる暇を利用して内職に励むようになった。その内職が大久保百人組同心の場合は、植木の栽培だったのである(註8)。
 『十方庵遊歴雑記』は大久保のツツジを絶賛し、次のように書いている(註9)。

世上に植木々々と売歩き、また縁日の辻々に持出すもの、大久保を第一とす。(中略)凡そ当所の映山紅は、江戸中の花の巻頭として、その余は染井、巣鴨をはじめ、上野の穴稲荷、大塚護国寺の石坂、左右のつゝじなどありと雖も、大久保に比すれば千分の一にして、中々同日の諭にはあらず。

 映山紅はつつじやさつきの異称。『江戸名所図会』の巻四に「大久保の映山紅」の絵図が載るが、ここでは映山紅を「きりしま」と読ませている(註10)。

大久保の映山紅(きりしま)は弥生の末を盛とす。長丈余のもの数株(あまた)ありて、其の紅艶を愛するの輩(ともがら)、ここに群遊す。花形微少(ちいさし)といへども、叢(むらが)り、開きて、枝茎を蔽(かく)す。さらに満庭紅を潅(そそ)ぐがごとく、 夕陽に映じて錦繍(きんしゅう)の林をなす。この辺りの壮観なるべし。

 明治維新になると、百人組の同心たちは士族に列せられ、一軒あたり150坪が与えられるが、このときに大部分の植木が抜かれ、また残った庭園も訪れる客がいなくなった。その後、つつじの名所を再興することが有志の手で計画され、明治20年代には共同経営のつつじ圓がつぎつぎと開園し、最盛期には花の種類70余株、株数1万株に及んだ。
 ところが、明治30年代に入ると、それまで無料だった地代が有料になり、やがて地代はさらに上昇し、つつじ圓は経営が次第に苦しくなった。1902(明治35)年、大久保の代表格ともいえる南つつじ圓は、開園したばかりの日比谷公園に、園内にあるすべての樹木を移植して廃絶した。明治の末年になると、大久保の一帯には借家ばかりが目立つようになった。見渡してみれば、あちらこちらに公衆電話や郵便局ができていて、東京の郊外によくある場末の町に変貌を遂げていた(註11)。

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ph19 大久保通り。パチンコグランパ大久保。大久保2-31。2023.10.24

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ph20 大久保通り。皆中稲荷神社。百人町1-11-16。2023.10.24

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ph21 イスラム横丁。新宿八百屋。百人町2-9-16。2023.10.24

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ph22 大久保通り。ハットグのジョンノ屋台村店。百人町1-6。2023.10.24

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ph23 イケメン横丁。キャリーバックのカップル。新大久保1-17。2023.10.24

 鉄炮百人組の面影をいまに残すものは。百人町の町名と皆中稲荷神社ぐらいしかない(ph20)。同社のホームページでは、その創建縁起をこんなふうに書いている。
 鉄炮百人組の駐屯地が百人町につくられた寛永(1624~44)のころ、鉄炮の射撃で悩んでいたある与力がいたが、その夢枕に稲荷之大神が現われて霊符を授かった。翌日、射撃を試みると、なんと百発百中だった。そんなことから、願い事がことごとく的中するという噂が立ち、それが近郷にも伝わり、信仰を集めるようになったとされる(註12)。
 これには疑問がないわけでもない。鉄炮百人組の役目は将軍の警護で、日ごろは江戸城大手門に勤番し、将軍の寺社参詣ときは、それに随伴した。寛永といえば、1614(慶長19)年の大阪の陣からいくらもたっていない。実戦体験のある者も少なくなかったはずである。
 与力は実戦部隊である同心を統括する上司である。ある与力の悩みというのは、射撃が下手だったからではなく、人の生命を奪うという職務につきまとう罪業感であったかもしれない。射撃は練習を積めば上達する。だが、彼らが標的とするのは人間の生命である。生と死は人知の及ばない不可思議な現象であり、神仏の支配する領分といってもいい。人の命を生殺与奪するにはそれなりの覚悟と確信が必要で、射撃術の上手とか下手ではなく、神仏の意に適えば的中するし、そうでなければ的を外すという明白な諦念が不可欠とされたのではないだろうか。
 皆中稲荷神社では、主なご利益として、開運や招福、厄除け、各種試験の合格、各種競技の必勝、各種的中当選、就職・転職祈願、病気平癒、商売繁盛などをあげている。各種的中当選というのは分かりにくいが、そのなかには宝くじや競馬・競輪などの賭け事、あるいはコンサートのチケットなども含まれるらしい。神社の拝殿では、コリアンタウンのついでに立ち寄ったと思われる若い女性たちが、なにを祈願するのだろうか、次から次にやって来ては、真剣な面立ちで手を合わせていた。

註1 『日本歴史地名大系13 東京都の地名』「新宿区 新宿」(平凡社、2002)
註2 『マイベディア』「かぶき」(平凡社)
註3 『ルポ 新大久保—移民最前線都市を歩く』(室橋裕和、辰巳出版、2020)
註4 同書「第3章 新大久保には神さまがたくさん」
註5 同書「第6章 オールドカマ―」と「ニューカマー」、二つの世代の韓国人たち」
註6 『日本大百科全書(ニッポニカ)』「小泉八雲」(小学館)
小泉八雲記念公園:新宿区 (shinjuku.lg.jp)
註7 『ルポ 新大久保—移民最前線都市を歩く』「第12章 この街の未来を担う子供たち」
註8『東京の原風景—都市と田園との交流』「二 庭園モザイク都市 庭園都市/下級武士による園芸」(川添登、ちくま学芸文庫、1993)
註9 『十方庵遊歴雑記 初篇』「巻の一 第十 大久保組屋敷の映山紅」(釈敬順、江戸叢書刊行会、1916)。同書の成立は1812(文化9)-1829(文政12年)のころ。
註10 『江戸名所図会 4』「巻四」に載る挿絵「大久保の映山紅」(ちくま学芸文庫、1996)。この挿絵は次のURLで見ることができる。
edomeishozue1113.jpg (960×720) (arasan.saloon.jp)
註11『東京の原風景—都市と田園との交流』「二 庭園モザイク都市 花園から興行へ/大久保のつつじ圓」
註12  皆中稲荷神社について|新宿区百人町にある、「よくあたる」と親しまれている皆中稲荷神社です。 (kaichuinari-jinja.or.jp)。
皆中稲荷神社|新宿区百人町の神社、鉄砲隊百人組等崇敬 (tesshow.jp)

(ひらしま あきひこ)

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2024年3月14日です。

平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
tokyo_labyrinth_1平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』
オリジナルプリント15点組
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
作者: 平嶋彰彦
監修: 大竹昭子
撮影: 1985年9月~1986年2月
制作: 2020年
プリント: 銀遊堂・比田井一良
技法: ゼラチンシルバープリント
用紙: バライタ紙
シートサイズ: 25.4×30.2cm
限定: 10部
発行日: 2020年10月30日
発行: ときの忘れもの
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
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建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
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E-mail:info@tokinowasuremono.com 
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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。