丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」
その13 サグラダ・ファミリア教会 (1)
丹下敏明
ガウディの代表作品はサグラダ・ファミリア教会だと思っている人がほとんどだと思う。世界中から建設中の教会を見ようと集まり、いまでは、サッカー・チーム、バルサのミュージアムと並びバルセロナ第一の観光名所となっている。年間の入場者は4百万人を優に超えているらしい。(2022年は4百万人、収益は1億ユーロを越えている) スペイン国内の観光名所のなかでは毎年アルハンブラ宮殿と一位を競っている。しかし、サグラダ・ファミリアは市内にあるため、高だか1.24ヘクタールの面積しかないが、アルハンブラ宮殿は345.5ヘクタールという広大な面積があるから、集客密度では比較にならない。私は1971年夏からサグラダ・ファミリアを実際に見ている事になるが、とても今のこの状況を予想することはできなかった。

最初に撮影したサグラダ・ファミリア (1972年1月14日)
サグラダ・ファミリア建設の発端
誰もが知っている事なので、簡単にサグラダ・ファミリア建設の経過をここに書くと、バルセロナで宗教本を主に扱っていた本屋のオーナー、ジョセップ・マリア・ボカベージャ (Josep Maria Bocabella i Verdaguer, 1815-1892年)がヨセフを崇高するための宗教団体をバルセロナで立ち上げる。主に会員を集め、会報を本屋から出して、これを通して18世紀から根強いマリア信仰に対して、ヨセフを崇めるという目的だったのだろうか。団体の会員数は日に日に増していくなか、自ら宗教心をさらに高揚させ教会の建設を思いつく。教会は聖家族に捧げるとし、建設費は信者からの寄付を集めるという贖罪の教会という事でスタートさせた。この本屋のオーナーの肖像画があるが、これを見る限り非常にミスティックな顔をしていると思うのは私だけだろうか。と言っても、この肖像が描かれたのはボカベージャが死んだ後にそのデスマスクから描かれたものなので、肖像画に作者の誇張があったのかもしれない。作者はガウディとも親しかったアレホ・クラペス (Alejo Clapes i Puig, 1850-1920年)という人物で、例えばカサ・ミラのエントランス・ホールの天井画を描いた人物だが、精神異常を起こし、認知症で没しているぐらいで、晩年の作風はかなり異様であり、この肖像画をもとにボカベージャを判断するのは危険なことかもしれない。

クラペスによって描かれたボカベージャ (サグラダ・ファミリア所蔵)

クラペスが参加したカサ・ミラのエントランス・ホール(筆者撮影)

クラペスの自画像 (パラウ・グエルのクラペス展)
建築家の交代
ボカベージャの贖罪の教会建設の思惑は定期公刊物が好評を得て信仰団体「聖ヨセフ信者協会」の会員も順調に増え、1878年にはバルセロナの人口が35万人という時期に6万人集まるに至った。そして教会建設構想にも実現味が出てきた。ちょうどその頃、建築学校の教授でもあったビジャール (Francisco de Paula Villar y Lozano, 1828-1901年) という建築家が、このボカベージャの夢に加担するように無料で教会を設計しますと申し出てきた。これには、ボカベージャも喜んだことだろうが、遂に建設用地を手に入れ、着工までに至ったのだが、今度はビジャールは設計料を請求してきた。これにはボカベージャも困って、建築家マルトレイ (Joan Martorell i Montells, 1833-1906年) に相談する。マルトレイはボカベージャと友人関係にあっただけではなく宗教建築の経験もあり、バルセロナでは社会的な地位も確立した建築家だったが、私が替わってお引き受けしましょうという事は言わず、逆に石造で設計しているビジャールの案を施工期間が長く、建設資金も余計かかる石造の設計を非難さえした。そして自分では引き受けない代わりに、自分の事務所でインターとして仕事をしていた若い一人の建築家、ガウディに建設を任せたらどうかと進言する。

ビジャールの描いたサグラダ・ファミリア

マルトレイの設計したチャペル(筆者撮影)
その頃、マルトレイはアントニオ・ロペス (Antonio Lopez y Lopez, 1817-1883年) というスペイン一の富豪からいくつもプロジェクトを依頼されていた。そのうちにはバルセロナの居館、故郷に大邸宅を建設する計画、その付属のチャペルを建設していた。このチャペルの祈祷用の家具のデザインをガウディに振っている。その後もロペスの甥が別邸をその横に作りたいと言った時、ガウディを設計者として推薦している。(これがエル・カプリチョ) このロペスは後にガウディの生涯のパトロンとなったグエル (Eusebi Guell i Bacigalupi, 1846-1918年) の義父となる人物であった。
他にもガウディはマルトレイの事務所で当時まだ未完のままになっていた、バルセロナの大聖堂の正面ファサード決定のコンペに参加させたり、市内で修道院の付属教会(ラス・サレーサスの修道院) を当時建設していて、それをガウディに担当させていた。だから、ガウディの才能の確かさはしっかりと掴んでいた。自分は大きな仕事をいくつも抱えていて、贖罪の教会など、どうなるか分からないものに時間を使う時間などなかったというのもあったかもしれない。

チャペルの礼拝用の家具はガウディが担当(筆者撮影)

エル・カプリチョ(筆者撮影)

カテドラルのコンペ案 (カタルーニャ建築家協会所蔵)

ラス・サレーサスの修道院付属教会(筆者撮影)
ガウディのサグラダ・ファミリア
一方、当時のガウディは卒業したばかりで、ろくな仕事が無かったこともあったのだろうが、マルトレイのこの申し出を引き受けた。1882年、ビジャールは全体計画に従い、常識的な手順として地下聖堂から着工していた。ガウディの手に移った時にはすでにこの地下聖堂の柱は建ちあがっていた。ガウディはこの時、若干31歳だった。25歳で建築家のタイトルを取ったばかりで、学生の時シウタデーリャ公園の様な複合したプログラムで、しかも規模の大きなプロジェクトに関係していた事はあるが、それはアルバイト先で担当したプロジェクトであった。明らかに自立しての実務経験不足であった。ましてや、学生の時には宗教関係の科目は落第か、ぎりぎりの成績であり、その頃は教会を罵るような若手の進歩派の文化人が集まるカフェに出入りさえしていたわけで、キリスト教教理についての興味も知識も大してなかったし、典礼式など知る由もなく、実際に設計できるのだろうかという疑問が出てくる。

ガウディが引き受けた頃のサグラダ・ファミリアの現場

シウタデーリャ公園でガウディが関わった大滝
若いガウディはこの仕事を受けてからというもの、施工業者に対しての対応に毎日追われたことだろう。つまり、ビジャール案に替わる教会計画のヴィジョンがあるわけでもなく、日々の現場で要求される指示に振り回されながら、しかもサグラダ・ファミリア以外のプロジェクトもアテンドしなければならない。
しかし、こういう時期にガウディは3万ペセタの予算が集まれば、10年間で完成してみせると公言し、ボカベージャの刊行する後にテンプルと改名される刊行物にこの事は記録されている。しかし、それから142年経過、まだ完成されていない。まだ、この仕事が生涯付き纏うとは彼自身もその頃は考えていなかったことだろう。
では、何故贖罪の教会サグラダ・ファミリアの建設の泥沼にガウディはのめり込んでしまい、未だまだ建設が完了していないのか。
長くなりすぎてしまったので次回に回しますので、お楽しみに。
(たんげとしあき)
■丹下敏明
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画 (現在進行中) などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社 (1976年)、『ガウディの生涯』彰国社 (1978年)、『スペイン建築史』相模書房 (1979年)、『ポルトガル』実業之日本社 (1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社 (1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会 (1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版 (1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社 (1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社 (2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社 (2022年)、『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』Kindle版 (2024 年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2024年5月16日です。どうぞお楽しみに。
●丹下敏明先生が、2月28日に新しい電子書籍を発売されたそうです。
タイトルは『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』(価格:800円)。
「ガウディの創造のメソドロジーはル・コルビュジェの最初のバルセロナ訪問で述べているように、中世的な発想からスタートしているが、実は科学・技術的な解決法を取っている。モデルニスタ達はガウディのような絶好なパトロンを得ることはできなかったものの同じような道を歩いている。それも、アールヌーヴォーの影響を受けたり、ゼセッションに感化されながらヴァリエーションを作り、一方では伝統工法を温存しながらも段鉄は鋳鉄に、壁面の石は人造石に、まぐさはプレキャストに置き換え、ステンド・グラスに使われるロンデルも吹きガラスから板ガラスとして量産化、自然石の床や階段は同じ大理石粉を混入して、耐久性、均質なテラゾを普及させ、衝撃に弱いスタッコは熱した金鏝を当ててさらに強度を増した。職人たちは工房を大きくして工場とするために面積を増やし、設備投資してシフトさせた。モデルニスモは華麗な空間として、バルセロナのセルダの拡張地区を埋め、郊外には工場主の豪奢な別荘が建てられたのだった。」(まえがきより)

ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
その13 サグラダ・ファミリア教会 (1)
丹下敏明
ガウディの代表作品はサグラダ・ファミリア教会だと思っている人がほとんどだと思う。世界中から建設中の教会を見ようと集まり、いまでは、サッカー・チーム、バルサのミュージアムと並びバルセロナ第一の観光名所となっている。年間の入場者は4百万人を優に超えているらしい。(2022年は4百万人、収益は1億ユーロを越えている) スペイン国内の観光名所のなかでは毎年アルハンブラ宮殿と一位を競っている。しかし、サグラダ・ファミリアは市内にあるため、高だか1.24ヘクタールの面積しかないが、アルハンブラ宮殿は345.5ヘクタールという広大な面積があるから、集客密度では比較にならない。私は1971年夏からサグラダ・ファミリアを実際に見ている事になるが、とても今のこの状況を予想することはできなかった。

最初に撮影したサグラダ・ファミリア (1972年1月14日)
サグラダ・ファミリア建設の発端
誰もが知っている事なので、簡単にサグラダ・ファミリア建設の経過をここに書くと、バルセロナで宗教本を主に扱っていた本屋のオーナー、ジョセップ・マリア・ボカベージャ (Josep Maria Bocabella i Verdaguer, 1815-1892年)がヨセフを崇高するための宗教団体をバルセロナで立ち上げる。主に会員を集め、会報を本屋から出して、これを通して18世紀から根強いマリア信仰に対して、ヨセフを崇めるという目的だったのだろうか。団体の会員数は日に日に増していくなか、自ら宗教心をさらに高揚させ教会の建設を思いつく。教会は聖家族に捧げるとし、建設費は信者からの寄付を集めるという贖罪の教会という事でスタートさせた。この本屋のオーナーの肖像画があるが、これを見る限り非常にミスティックな顔をしていると思うのは私だけだろうか。と言っても、この肖像が描かれたのはボカベージャが死んだ後にそのデスマスクから描かれたものなので、肖像画に作者の誇張があったのかもしれない。作者はガウディとも親しかったアレホ・クラペス (Alejo Clapes i Puig, 1850-1920年)という人物で、例えばカサ・ミラのエントランス・ホールの天井画を描いた人物だが、精神異常を起こし、認知症で没しているぐらいで、晩年の作風はかなり異様であり、この肖像画をもとにボカベージャを判断するのは危険なことかもしれない。

クラペスによって描かれたボカベージャ (サグラダ・ファミリア所蔵)

クラペスが参加したカサ・ミラのエントランス・ホール(筆者撮影)

クラペスの自画像 (パラウ・グエルのクラペス展)
建築家の交代
ボカベージャの贖罪の教会建設の思惑は定期公刊物が好評を得て信仰団体「聖ヨセフ信者協会」の会員も順調に増え、1878年にはバルセロナの人口が35万人という時期に6万人集まるに至った。そして教会建設構想にも実現味が出てきた。ちょうどその頃、建築学校の教授でもあったビジャール (Francisco de Paula Villar y Lozano, 1828-1901年) という建築家が、このボカベージャの夢に加担するように無料で教会を設計しますと申し出てきた。これには、ボカベージャも喜んだことだろうが、遂に建設用地を手に入れ、着工までに至ったのだが、今度はビジャールは設計料を請求してきた。これにはボカベージャも困って、建築家マルトレイ (Joan Martorell i Montells, 1833-1906年) に相談する。マルトレイはボカベージャと友人関係にあっただけではなく宗教建築の経験もあり、バルセロナでは社会的な地位も確立した建築家だったが、私が替わってお引き受けしましょうという事は言わず、逆に石造で設計しているビジャールの案を施工期間が長く、建設資金も余計かかる石造の設計を非難さえした。そして自分では引き受けない代わりに、自分の事務所でインターとして仕事をしていた若い一人の建築家、ガウディに建設を任せたらどうかと進言する。

ビジャールの描いたサグラダ・ファミリア

マルトレイの設計したチャペル(筆者撮影)
その頃、マルトレイはアントニオ・ロペス (Antonio Lopez y Lopez, 1817-1883年) というスペイン一の富豪からいくつもプロジェクトを依頼されていた。そのうちにはバルセロナの居館、故郷に大邸宅を建設する計画、その付属のチャペルを建設していた。このチャペルの祈祷用の家具のデザインをガウディに振っている。その後もロペスの甥が別邸をその横に作りたいと言った時、ガウディを設計者として推薦している。(これがエル・カプリチョ) このロペスは後にガウディの生涯のパトロンとなったグエル (Eusebi Guell i Bacigalupi, 1846-1918年) の義父となる人物であった。
他にもガウディはマルトレイの事務所で当時まだ未完のままになっていた、バルセロナの大聖堂の正面ファサード決定のコンペに参加させたり、市内で修道院の付属教会(ラス・サレーサスの修道院) を当時建設していて、それをガウディに担当させていた。だから、ガウディの才能の確かさはしっかりと掴んでいた。自分は大きな仕事をいくつも抱えていて、贖罪の教会など、どうなるか分からないものに時間を使う時間などなかったというのもあったかもしれない。

チャペルの礼拝用の家具はガウディが担当(筆者撮影)

エル・カプリチョ(筆者撮影)

カテドラルのコンペ案 (カタルーニャ建築家協会所蔵)

ラス・サレーサスの修道院付属教会(筆者撮影)
ガウディのサグラダ・ファミリア
一方、当時のガウディは卒業したばかりで、ろくな仕事が無かったこともあったのだろうが、マルトレイのこの申し出を引き受けた。1882年、ビジャールは全体計画に従い、常識的な手順として地下聖堂から着工していた。ガウディの手に移った時にはすでにこの地下聖堂の柱は建ちあがっていた。ガウディはこの時、若干31歳だった。25歳で建築家のタイトルを取ったばかりで、学生の時シウタデーリャ公園の様な複合したプログラムで、しかも規模の大きなプロジェクトに関係していた事はあるが、それはアルバイト先で担当したプロジェクトであった。明らかに自立しての実務経験不足であった。ましてや、学生の時には宗教関係の科目は落第か、ぎりぎりの成績であり、その頃は教会を罵るような若手の進歩派の文化人が集まるカフェに出入りさえしていたわけで、キリスト教教理についての興味も知識も大してなかったし、典礼式など知る由もなく、実際に設計できるのだろうかという疑問が出てくる。

ガウディが引き受けた頃のサグラダ・ファミリアの現場

シウタデーリャ公園でガウディが関わった大滝
若いガウディはこの仕事を受けてからというもの、施工業者に対しての対応に毎日追われたことだろう。つまり、ビジャール案に替わる教会計画のヴィジョンがあるわけでもなく、日々の現場で要求される指示に振り回されながら、しかもサグラダ・ファミリア以外のプロジェクトもアテンドしなければならない。
しかし、こういう時期にガウディは3万ペセタの予算が集まれば、10年間で完成してみせると公言し、ボカベージャの刊行する後にテンプルと改名される刊行物にこの事は記録されている。しかし、それから142年経過、まだ完成されていない。まだ、この仕事が生涯付き纏うとは彼自身もその頃は考えていなかったことだろう。
では、何故贖罪の教会サグラダ・ファミリアの建設の泥沼にガウディはのめり込んでしまい、未だまだ建設が完了していないのか。
長くなりすぎてしまったので次回に回しますので、お楽しみに。
(たんげとしあき)
■丹下敏明
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画 (現在進行中) などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社 (1976年)、『ガウディの生涯』彰国社 (1978年)、『スペイン建築史』相模書房 (1979年)、『ポルトガル』実業之日本社 (1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社 (1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会 (1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版 (1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社 (1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社 (2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社 (2022年)、『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』Kindle版 (2024 年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2024年5月16日です。どうぞお楽しみに。
●丹下敏明先生が、2月28日に新しい電子書籍を発売されたそうです。
タイトルは『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』(価格:800円)。
「ガウディの創造のメソドロジーはル・コルビュジェの最初のバルセロナ訪問で述べているように、中世的な発想からスタートしているが、実は科学・技術的な解決法を取っている。モデルニスタ達はガウディのような絶好なパトロンを得ることはできなかったものの同じような道を歩いている。それも、アールヌーヴォーの影響を受けたり、ゼセッションに感化されながらヴァリエーションを作り、一方では伝統工法を温存しながらも段鉄は鋳鉄に、壁面の石は人造石に、まぐさはプレキャストに置き換え、ステンド・グラスに使われるロンデルも吹きガラスから板ガラスとして量産化、自然石の床や階段は同じ大理石粉を混入して、耐久性、均質なテラゾを普及させ、衝撃に弱いスタッコは熱した金鏝を当ててさらに強度を増した。職人たちは工房を大きくして工場とするために面積を増やし、設備投資してシフトさせた。モデルニスモは華麗な空間として、バルセロナのセルダの拡張地区を埋め、郊外には工場主の豪奢な別荘が建てられたのだった。」(まえがきより)

ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
コメント