新連載:杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」
第1回「いのちからがら?の祖」
〇5才、風景、新潟
新潟県西蒲原郡分水町大字国上(くがみ)に生まれる。屋号は「糀屋」。良寛(1758 – 1831)が晩年「国上寺(くがみでら/こくじょうじ)」(709 – )(図1)の「五合庵」(図2)を下って住んだ「乙子(おとこ)神社」(図3)にほどちかい。

図1 国上寺
明治2年(1869)に旧涌井庄屋の前屋敷跡に建てたと聞く。水車で米を搗き、糀屋を生業にした。
国上は『吾妻鏡』には久賀窮と記され古い地名だが、分水町(1954-2006)はあたらしい。
分水町の由来は文字通り、古来、暴れて越後平野を壊滅させてしまう信濃川を分水したことにちなむ。すでに江戸期から幕府への誓願があったのだが、蒲原平野の藩領はまだら模様で話がまとまらない。横田切れの大水害(1896)を期に明治42 年(1909)ようやく掘削工事が始まり大正11年(1922)、13年費やし大河津から野積経由の分水路が竣工し日本海へ放出した。桜満開の4月、分水土手沿いに「花魁道中」祭りがあるが、かつて人足も急増してそれなりに活気づいたのだろうか。
母方の渡辺の祖は戊辰戦争(1868)で福島県境の難所八十里峠を越えて、武家の夫婦が新潟南蒲原の庄屋に家系図とともに託した子息だという。そのおり、お礼に薬用軟膏の製法を伝授して去ったという。父方の大橋は廃藩置県で三条市五十嵐川沿いに材木商をはじめたらしい。
それで杣木の方だが、これがどうもにわかには信じがたい眉唾ものだ。「糀屋」の本家「新兵衛」の法事で隣席した古老「七兵衛」が語った杣木の由来とは。源義経(1159-1189)一行が奥州下りのおり、海路、嵐で寺泊に漂着。「国上寺」に参拝祈願し、一部この地に残り、杣木を名乗れと。なんだか『義経記』みたいな話だったが、屋号「兵九郎」がいちばん古い杣木だという。足軽でもしていたのか「九郎義経」と妙に符合する。
うちの菩提寺「本覚院」には弁慶手掘りの井戸がいまだ澄んだ水を湧出している。国上寺六角堂には義経手彫りという小さな大黒天像のレプリカが鎮座している。平安期、慈覚大師(794-864)由来の院宣の奇祭がのこる。いまは鬱蒼とした杉林だが西参道両脇に残る段々の平地は末寺、僧坊の跡だろう。僧兵を多く擁した寺だから、そんなネットワークも実在したのかもしれない。
役場で散在する自宅山林の図面を取り寄せたことがある、国上寺からの上の地所は一山「要害」と記されていて驚いた。昔のこの地の性格が偲ばれる。
そういえば磯崎さんが南青山への引っ越し打ち上げで、自己紹介のおり、(・・我が立つ杣に墨染の袖)「新古今の世界だな」と言っていた。
祖父の生家が「紺屋」を営んでいたころ、良寛も立ち寄ったらしい。その日、軒先で休む良寛さんの元気がない。わけを問うと昨夜、庵に盗人が入り、なにも無いので布団を持ち去ったという。女たちがあわてて、夜具を一式仕立てて、その日のうちに五合庵に送り届けたという逸話がある。
「盗人に、取り残されし、窓の月」このときに詠んだシニカルな句ではなかろうか。20年に1度は火災を起こすような家だったので、そのときに行李いっぱいの良寛の書も灰燼に帰したという。
父は戦前27歳で東横車輛工場長。教授の軍需会社設立に応じたとたんに赤紙令状がきて、シベリヤに抑留され復員後は巻中学の数学教員。母が子女のための洋裁教室を開き生計を立てたという。
もろもろの事情で実家を離れたので、杣木は地蔵堂小学校音楽教室脇のマッチ箱のような家屋に5才までいた。
元旦、恒例の幼稚園児の弥彦神社詣出になぜか姉はぐずって不参加。餅撒きに群がる男たちに石垣が崩れ、引率の尼僧と園児たちの圧死事件があった。けっきょく杣木は幼稚園には通わせてもらえず、家じゅう、ふすま、桐たんすの中まで、クレヨンで描きまくり発散していた。とても厳しい母親だったが、こと、ガキの落書きにかんしては、面白がったのか、教育上の配慮だったのか叱らなかった。はては、曲は覚えていないが、78回転するSPレコード盤にクレヨンで塗りたくる。しかし、回るレコードはちょっと肌色おびた滑らかなグレーにしか見えない。どんな色のクレヨンを塗ってもグレーなのはなんでなんだろう?と不思議に思った矢先にレコードが止んでビックリした!あまりの醜悪無残なクレヨン滓と化したレコード盤を目の当たりにして、幼な心にショックだったのか、2度とレコードには手を出さなかった。
いつしか画用紙と駄菓子を小学校正門まえの文具屋に買い求め発散するのが日課となる。
〇モチーフ
しかし、クレヨンは何色もあるのに、家まわりの風景には色が乏しかった。
街は低い雁木の軒柱、ガラスの引き戸が続き、通りに面していくつか寺が点在していた。風雪で傷んだグレーの木肌と焦げ茶色の焼き瓦、ところどころ黒い防蝕タールを塗ったトタンの家並みだった。
11月も4日を過ぎると新潟の空は重い雲が垂れ、横殴りの雨風の日々、やがて雪に変わった。雪のふる景色はガキには寒くてきびしい。掘りこたつにこもったか。母の洋裁誌の表四、頭の小さい目の無い女のイラストをなぜかとても恐れていた。このころプライマリーカラーの積み木のような建物がある極彩色の夢を見ている。日ごろの鬱屈が夢ではじけたのではないだろうか。
当時、年長の従弟がもってくるニッサン車のパンフレット、ボンネットを透過して描いたエンジンシフトまわりのイラストはリアルに彩色されていた。だが、映画、漫画など時間の流れる動画のたぐいはなぜか退屈でしかたがなかったのだ。
はす向かいの「乳屋(ちちや)」の兄さんが、4頭の牛から乳を絞るさまをいつも一人で見ていた。牛小屋の二階で、姉と2人に電熱器で甘い牛乳の寒天をつくってくれた。皿の上の丸い寒天は、滑らかな乳白色だった。
祖母の妹が嫁いだ「本田屋」菓子店から、2月25日、菅原道真の天神講に、彩色された大きな餡入り鯛の粉菓子が届く。今のような型流しではない、当時「本田屋」の手捻り砂糖細工はじつに職人芸であった。色とりどりのたのしいキツネや鳥や人形を飾ってから食べた。
真夏、母が洗濯労働の合間に無作為に撒いておいた芙蓉の花びらは透けるあわいヴァイオレットだった。
早朝、勝手口から20m先、越後線の土手を真っ黒な蒸気機関車が、地蔵堂駅から煙を吐いて走り始めた。出勤する父が茶色い客車の入り口に立って私に手を振っている。少し先の西川には赤い鉄橋が架かり、背景にはいつも屏風のように国上山(図6)が見えている。さっそくこれをモチーフにして画用紙にクレヨンで描いてみた。この絵を足立区に上京したおり、母が民放テレビ局の幼児番組に応募したら入選し、番組のお姉さんに絵と「杣木浩一くん」の名前を紹介されたことを覚えている。
文具屋からの帰途、黒板塀の勝手口でときおり出会う男の子がいた。やはり幼稚園に行かず自宅に居た。マサアキさんという。ここに寄り道して絵を描いて寝入って自宅まで送ってくれ、ときにはご飯をたべ、モノクロの幻灯機も見せてもらった記憶がある。とうじ知る由もないが、じつはこの家のおじいさん、御釜師の堀浄親であった。堀家の茶釜、鉄瓶は杣木の実家にもかつてあったと聞く。宮脇愛子さんもお茶の稽古で「堀家の釜でございます、と言ったわよ。」という。ずっとずっとのちの話だが、1983年に磯崎アトリエでバイトをはじめたころ、数人で昼食に向かう道すがらアトリエの堀さんと話すうちに地蔵堂町の堀浄親の孫にあたる人だとわかった。奇遇だった。
2009年8月にきっかけは忘れたが、柏崎市に里帰りした、当時ホリアーキテクツの堀正人さんと国上寺で待ち合わせたことがある。弥彦神社は行ったことがあるが、国上寺はまだないという。11時に国上寺で待ち合わせ、車で駐車場に着くと、越後線とタクシーを乗り継いで来た堀さんは、その長身のフットワークで、境内と少しくだった五合庵まですべて見聞済みであった。国上山頂まで足を延ばせなかったのを残念がった。堀さんを車で送り、越後線の列車到着まで、地蔵堂駅周辺を見て回ったが、堀さんの本家は代変わりして、黒板塀は無かったと思う。旧地蔵堂小学校からすこし高台の昔グラウンドだった跡地に建つ「良寛資料館」に寄った。5才まで住んだあたりを見下ろすと、なんとあのマッチ箱のようなおんぼろ家がまだ残っていた!
〇角栄、原発
6歳上京、足立区立栗島小学校入学(1958)、世田谷区立玉川小学校卒業(1964)、目黒区立第八中学校卒業(1967)、里帰りして、新潟県立巻高校入学(1968)。なんだか喧噪の東京から前近代の残存する部落へ都落ちしたカルチャーショックで勉学拒否。17kmはなれた巻高校からミニバイクで帰宅すると、犬を連れて国上山々頂を超え、蛇崩れ(図7)の絶景目指してダッシュした。一息ついて左から、日本海、山頂が平らな黒滝城址、弥彦山、越後平野のパノラマが望めた。このコースは父に教えてもらった。国上寺からの山道はいまみたく登山用の道標もなく、とにかく無人無垢で地元の者しか知らなかった。まだ寒さ厳しい3月、本堂裏には杉木立の下、自生するカタコが一斉に開花していた。
しかし、1969年当時、すでに観光道路と称して、寺へまっすぐ延びる東参道(東大門)は山腹を蛇行する車道工事のためブルドーザーで断ち切られてしまった。参道両脇の巨大な杉が伐採され、居並ぶ石仏も撤去されてしまった。保存すべきであろう景観に構わず、目先の利をみる寺と行政によって、取り返しの効かない破壊をはじめていた。弥彦神社と往来した旧稚児道側に車道を造成すれば、樹齢300年は下らない杉並木は温存できたはずである。
国上、弥彦、角田山裏の未踏の海岸線にも寺泊と新潟市をつなぐ「ルート402」建設が着工したばかりで、岩を掘削するブルドーザーが放置されていた。野積み海岸の、まだ箱庭のようだった岩場は8月なのに誰一人いない静寂が占め、ビッチリ引っ付いた夏牡蠣とカラス貝を潜って採り、焼いて食べたものだ。
巻高校の屋上に上がると、国上山、弥彦山から連なる角田山が真正面に望める。その山を越えた向こう、日本海側の角海浜絶景の地に、1971年東北電力によって正式に原子力発電所候補地点となった。高校2年次(1969)に慶応出の女子数学教員が赴任してきた。すでに彼女は刑務所から戻ったばかりの夫とともに巻原発建設阻止運動を始めていた。彼女の家には成田闘争帰りの友人が立ち寄っていた。信濃川の水量にも比する二次冷却水の怖さを学んだ。
漁村の野積と漁港寺泊からは、雑貨と鮮魚を背負って国上村落を行商する「ハマツ屋」と「タイゾウ」の二人の女が居た。玄関で母が世間話ししながら揚がった南蛮エビやワタリガニを求める。ヒラメは庭先の水場でさばいてくれた。しかし近場に原発など造った日には、この極上の刺身が食えなくなるではないか、と憤ったものだ。
巻町々民はそのご住民投票、裁判はじめ長い闘争のすえ、原発推進派を退けたのである。
17才で上京してからもずっと巻町原発の動向を見守っていたが、巻町から東北電力撤退の報(2003)を聞き、おおいに溜飲が下りた。
美術教員の市橋哲夫は、堀川紀夫や前山忠とグループ ” GUN ”(1967)のメンバーだった。冬の白い雪原に農薬散布の要領で原色顔料を噴霧して染め上げた『雪のイメージを変えるイベント』(1970)をはじめ、授業では、日本60年代先端美術の画像を見せてくれた。
高校3年次は今でいうと、ほぼ不登校だった。担任はじつに紳士な数学教員だったが、白紙答案に下駄を履かせてくれて、何とか卒業させてもらった。
(そまき こういち)
■杣木浩一(そまき こういち)
1952年新潟県に生まれる。1979年東京造形大学絵画専攻卒業。1981年に東京造形大学聴講生として成田克彦に学び、1981~2014年に宮脇愛子アトリエ。2002~2005年東京造形大学非常勤講師。
1979年真和画廊(東京)での初個展から、1993年ギャラリーaM(東京)、2000年川崎IBM市民文化ギャラリー(神奈川)、2015年ベイスギャラリー(東京)など、現在までに20以上の個展を開催。
主なグループ展に2001年より現在まで定期開催中の「ABST」展、1980年「第13回日本国際美術展」(東京)、1985年「第3回釜山ビエンナーレ」(韓国)、1991年川崎市市民ミュージアム「色相の詩学」展(神奈川)、2003年カスヤの森現代美術館「宮脇愛子と若手アーチストたち」展(神奈川)、2018年池田記念美術館「八色の森の美術」展(新潟)、2024年「杣木浩一×宮脇愛子展」(ときの忘れもの)など。
制作依頼、収蔵は1984年 グラスアート赤坂、1986年 韓国々立現代美術館、2002 年グランボア千葉ウィングアリーナ、2013年B-tech Japan Bosendorfer他多数。
・杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」は毎月8日の更新を予定しています。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、宮脇愛子です。
「Golden Egg(A)」
1982年 ブロンズ
H4.5×21×12cm
限定 50部
本体に刻サイン、共箱(箱にペンサイン)
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
宮脇愛子先生が84歳で亡くなられてから10年経ちました。
長く宮脇愛子アトリエで協働した杣木浩一先生に、今月から「宮脇愛子さんとの出会い」をご執筆いただきます。8月には「杣木浩一 × 宮脇愛子展」の開催を計画していますので、どうぞご期待ください。
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
杣木浩一作品






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