丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」
その14 サグラダ・ファミリア教会 (2)
丹下敏明
宗教に無知なガウディ
先回に続きサグラダ・ファミリアの事について話したいと思います。ガウディは思わぬことから31歳という若さでこの教会の建設を任されたわけだが、その頃はマルトレイ (Joan Martorell i Montells, 1833-1906年) の事務所でインターンをしていた時期だった。ガウディは学校時代から宗教関係の科目は苦手であった事などは前回で触れた通り。しかもそれだけではなく、建築家になってからは教会を冒涜するような連中が集まるバーに出入りしていた。宗教的な知識も特に無く、サグラダ・ファミリアの仕事をもらった頃のガウディがミサに通っていたという証言も無い。そのガウディが教会建築を依頼されたわけで、これは大変な事になったわけです。しかも、普通の教会ならローマからはもちろん、司教や宗教団体のドグマがあり、どういう宗教建築をつくりたいという、お施主さんは言わばプログラムさえ設計者に渡されるわけだが、サグラダ・ファミリアは本屋を経営していた一個人が始めた事業で、そういった宗教上の組織、ましてや教義に全く縛られていなかった。これは逆に言うと、設計者自らがキリスト教を理解し、学び、プログラムを構築しなければならないという事になってくる。

ガウディが続行したサグラダ・ファミリア地下聖堂 (1885年)

ガウディが建築申請用に作図したサグラダ・ファミリアのプラン
サグラダ・ファミリアはお布施が集まると石が積める
サグラダ・ファミリアの発起人、ジョセップ・マリア・ボカベージャ (Josep Maria Bocabella i Verdaguer, 1815-1892年) は宗教本の本屋 (今で言えば出版社と書店を合わせたようなもの) で、敬虔な宗教人であったとはいえ、悪く言えば、聖ヨセフ信心会という会を立ち上げ、1881年に66万人の会員数を集めるに至り、会員目当てに機関誌を月2回その本屋から出していたから、本屋はこれで潤っていたはずだ。
無論彼自身は敬虔な信者には違いなく、ローマ教皇に謁見までしています。しかし、ここで問題はあくまで彼は一般人であり、宗教人ではなかった事だ。神学校に入り、教区教会に回され、次第に大きな教会の神父、司教になったわけでもない、一般人だった。そしてガウディはボカベージャから宗教というものを学んだのかもしれないが、ボカベージャの方は建築については全くの無知であった。教皇の謁見後、ボカベージャは中央イタリアのアンコーナ県にある人口8千人足らずの町ロレートへ寄っている (1871年)。ここには聖母マリアが受胎告知を受けた家がこの地に辿り着いて、これを記念するために会堂が建設されたという話になっていて、これをボカベージャは真似て、同じものをバルセロナに建設しようと決意する。しかし、このロレートの会堂は、マイアーノ、ヴァンヴィテッリ、サンガッロ、ブラマンテなど当時の一流の建築家たちが1世紀以上をかけて築いた教会堂だ。ボカベージャの意志を狭義に受け取ったとしてもその“聖なる家”のレプリカを作る事だったのかもしれないが、それにしても上屋がいる。

ロレートの聖母マリアが受胎告知をされた時の家
教義を学び、プロクラムを組み立てる
いずれにしても、ガウディは教会建設のプロジェクトを手にしたものの、ロレートの教会の宗教的な意味すら一から学び、何よりも建設していくには建築のプログラムを自分で構築しなければならかった。
それにもう一つの通常のプロジェクトでは考えられない問題がこのプロジェクトではあった。それは贖罪の教会という事だ。つまり建設資金の予算はゼロということだ。つまり寄付が集まると、形になっていくというプロジェクトだった。しかし、ボカベージャ自身もその遺志を継いだ親族も早くに (1893年) 無くしてしまうガウディは、クライアントすら不在という立場に立たされてしまう。はっきりしたプログラムも無ければ、予算も無いいいかげんなプロジェクトをマルトレイに押し付けられた、というのは誇張だろうが、マルトレイの様な地位のある建築家がやるような仕事ではないことだけは確かだろう。

80年代初め頃まではあった、寄付金で建設が続けられているという看板

募金箱にはプレートが溶接されている

司教の催促でやっと描いた全体像 (1902年)

弟子のルビオが描いた全体像 (1916年)
ガウディの使った手
ガウディは晩年資金集めに自らも奔走するようになり、マジョルカ島パルマのカテドラルの司教とは典礼式についての議論をして、司教を負かすほどにもなるが (1901年)、宗教に対しての市民の理解は世相によって微妙に変わってゆき、毎月3千ペセタ集まれば10年で完成すると言い切った若いガウディだったが、そうは世の中スムーズには流れてくれなかった。資金が集まらなければ、工事はストップ、そして長年苦労を共にしてくれた建築のアシスタントや職人たちを解雇しなければならない事態に何度もなった (1888, 1903, 1912年)。この時、2度にわたり大口の寄付をしてくれたのは何と、グエル伯爵だった。グエルはパラウ・グエル、コロニア・グエルの教会、グエル公園を直接ガウディに依頼したが、誕生のファサードが完成できたのはグエル婦人の名義で寄せられた巨額な寄付だった。そして、1914年の世の中がひっくり返るような経済恐慌の後にはガウディ名義の莫大な額の小切手2枚送ってよこした。サグラダ・ファミリアは1936年のスペイン戦争で焼き討ちに会って大きな損傷にあっているが、この修復工事の資金さえこのグエルの寄付で賄えた。



スペイン戦争で壊された石膏模型の修復
しかし、ガウディはこの資金不足で遅々として進まなかった工事の状況を逆手に取っていた。つまり、その間試行錯誤を重ね、民間の仕事での経験や失敗をこの贖罪の教会で生かしたのだった。しかし、そうしているうちに全体の規模はだんだんと大きくなってゆき、プランもギリシャ十字がラテン十字に変更され、鐘塔のプランが四角で着工したのが、円形になったりというようなとんでもない変更が加えら続けられた。何よりも大きな変更は教会堂が敷地をはみ出すというものだった。
ポスト・ガウディ
このガウディの度重なる設計変更は、確かにほとんどすべての作品で見られる。それもサグラダ・ファミリアのように40年以上も携わった長い工期の作品ではなく、比較的短期間に完成させた作品ですら、この変更が加えられている。ガウディが不慮の事故で死んでしまったため、ポスト・ガウディのサグラダ・ファミリアはこのガウディの建築に対する姿勢に対しどうしているのだろうか。ガウディは他人がやりかけの地下聖堂を完成させ、アプス、そして3つのファサードの一つ誕生のファサードをほぼ完成させただけだった。これは全体では10%にも至っていない量だ。誕生のファサードの建設中に確かに身廊の構造のシステムを練り、もう二つのファサード、つまり受難と栄光のファサードのアイディアも練っていたのは確かだ。
戦後建設続行した建築家たちは、紙のものは全てスペイン戦争で焼かれていたので、壊れた石膏の模型の断片を繋ぎ合わせて、ガウディのサグラダ・ファミリアの構想を再構築するという労力を課せている。これは言ってみれば遺物を捏ねまわす考古学的な手法であった。しかし、ガウディは常に新しい試みを考えだし、試行錯誤の末に石に刻んでいった建築家だったわけで、明らかに相反する手法で建設が進んでいる。
こうして冷静に見ると、例えば受難のファサードは基本設計が終わった程度、栄光のファサードは基本構想が終わった程度、身廊に関しては構造のシステムの先が見えてきて、割付の軸線が引き終わった程度だったのではないだろか。ガウディは生前10の1の身廊の図面を描いていたと言われるが、これですらも焼かれている。

受難のファサードのスケッチ (1917年)

理想復元された受難のファサードの模型

完成された受難の門のファサード

ガウディの栄光のファサードの模型 (1915年)

後年作られた栄光のファサード模型

建設中の栄光のファサード
そして、敷地をはみ出して舗道を占拠し、隣接の敷地まで大階段を伸ばすというガウディのアイディアは当時 (1906年) ですら教会側が土地の買取にかかる費用の捻出をせねばならないとして反対していたが、70年代には住宅がその敷地に立ちはだかるように建設された (Mallorca通り424-432番地)。つまり、正面玄関にはこの巨大な集合住宅を壊さない限り完成できないという、デザイン上のレヴェルの話だけではなく、物理的な大問題を抱えることになってしまった。しかし年間4百万人の観光客は世界中から押し寄せ、全予約制となったばかりか、周辺の住民の日常生活を脅かしている。

全体のプラン (1が誕生のファサード、2が苦難のファサード、3がアプス、4が正面になる栄光のファサード、5が大階段となって、マジョルカ通りを跨ぐ)
現在の受難のファサードから栄光のファサーフドの動画
(たんげ としあき)
■丹下敏明
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画 (現在進行中) などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社 (1976年)、『ガウディの生涯』彰国社 (1978年)、『スペイン建築史』相模書房 (1979年)、『ポルトガル』実業之日本社 (1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社 (1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会 (1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版 (1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社 (1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社 (2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社 (2022年)、『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』Kindle版 (2024 年)、Walking with Gaudi Kindle版 (2024 年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2024年7月16日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、細江英公です。
"Sagrada Familia 203"
1975年
ヴィンテージ・ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:44.9×44.6cm
シートサイズ:60.6×50.7cm
サインあり
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●取り扱い作家たちの展覧会情報(5月ー6月)は5月1日ブログに掲載しました。

ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
その14 サグラダ・ファミリア教会 (2)
丹下敏明
宗教に無知なガウディ
先回に続きサグラダ・ファミリアの事について話したいと思います。ガウディは思わぬことから31歳という若さでこの教会の建設を任されたわけだが、その頃はマルトレイ (Joan Martorell i Montells, 1833-1906年) の事務所でインターンをしていた時期だった。ガウディは学校時代から宗教関係の科目は苦手であった事などは前回で触れた通り。しかもそれだけではなく、建築家になってからは教会を冒涜するような連中が集まるバーに出入りしていた。宗教的な知識も特に無く、サグラダ・ファミリアの仕事をもらった頃のガウディがミサに通っていたという証言も無い。そのガウディが教会建築を依頼されたわけで、これは大変な事になったわけです。しかも、普通の教会ならローマからはもちろん、司教や宗教団体のドグマがあり、どういう宗教建築をつくりたいという、お施主さんは言わばプログラムさえ設計者に渡されるわけだが、サグラダ・ファミリアは本屋を経営していた一個人が始めた事業で、そういった宗教上の組織、ましてや教義に全く縛られていなかった。これは逆に言うと、設計者自らがキリスト教を理解し、学び、プログラムを構築しなければならないという事になってくる。

ガウディが続行したサグラダ・ファミリア地下聖堂 (1885年)

ガウディが建築申請用に作図したサグラダ・ファミリアのプラン
サグラダ・ファミリアはお布施が集まると石が積める
サグラダ・ファミリアの発起人、ジョセップ・マリア・ボカベージャ (Josep Maria Bocabella i Verdaguer, 1815-1892年) は宗教本の本屋 (今で言えば出版社と書店を合わせたようなもの) で、敬虔な宗教人であったとはいえ、悪く言えば、聖ヨセフ信心会という会を立ち上げ、1881年に66万人の会員数を集めるに至り、会員目当てに機関誌を月2回その本屋から出していたから、本屋はこれで潤っていたはずだ。
無論彼自身は敬虔な信者には違いなく、ローマ教皇に謁見までしています。しかし、ここで問題はあくまで彼は一般人であり、宗教人ではなかった事だ。神学校に入り、教区教会に回され、次第に大きな教会の神父、司教になったわけでもない、一般人だった。そしてガウディはボカベージャから宗教というものを学んだのかもしれないが、ボカベージャの方は建築については全くの無知であった。教皇の謁見後、ボカベージャは中央イタリアのアンコーナ県にある人口8千人足らずの町ロレートへ寄っている (1871年)。ここには聖母マリアが受胎告知を受けた家がこの地に辿り着いて、これを記念するために会堂が建設されたという話になっていて、これをボカベージャは真似て、同じものをバルセロナに建設しようと決意する。しかし、このロレートの会堂は、マイアーノ、ヴァンヴィテッリ、サンガッロ、ブラマンテなど当時の一流の建築家たちが1世紀以上をかけて築いた教会堂だ。ボカベージャの意志を狭義に受け取ったとしてもその“聖なる家”のレプリカを作る事だったのかもしれないが、それにしても上屋がいる。

ロレートの聖母マリアが受胎告知をされた時の家
教義を学び、プロクラムを組み立てる
いずれにしても、ガウディは教会建設のプロジェクトを手にしたものの、ロレートの教会の宗教的な意味すら一から学び、何よりも建設していくには建築のプログラムを自分で構築しなければならかった。
それにもう一つの通常のプロジェクトでは考えられない問題がこのプロジェクトではあった。それは贖罪の教会という事だ。つまり建設資金の予算はゼロということだ。つまり寄付が集まると、形になっていくというプロジェクトだった。しかし、ボカベージャ自身もその遺志を継いだ親族も早くに (1893年) 無くしてしまうガウディは、クライアントすら不在という立場に立たされてしまう。はっきりしたプログラムも無ければ、予算も無いいいかげんなプロジェクトをマルトレイに押し付けられた、というのは誇張だろうが、マルトレイの様な地位のある建築家がやるような仕事ではないことだけは確かだろう。

80年代初め頃まではあった、寄付金で建設が続けられているという看板

募金箱にはプレートが溶接されている

司教の催促でやっと描いた全体像 (1902年)

弟子のルビオが描いた全体像 (1916年)
ガウディの使った手
ガウディは晩年資金集めに自らも奔走するようになり、マジョルカ島パルマのカテドラルの司教とは典礼式についての議論をして、司教を負かすほどにもなるが (1901年)、宗教に対しての市民の理解は世相によって微妙に変わってゆき、毎月3千ペセタ集まれば10年で完成すると言い切った若いガウディだったが、そうは世の中スムーズには流れてくれなかった。資金が集まらなければ、工事はストップ、そして長年苦労を共にしてくれた建築のアシスタントや職人たちを解雇しなければならない事態に何度もなった (1888, 1903, 1912年)。この時、2度にわたり大口の寄付をしてくれたのは何と、グエル伯爵だった。グエルはパラウ・グエル、コロニア・グエルの教会、グエル公園を直接ガウディに依頼したが、誕生のファサードが完成できたのはグエル婦人の名義で寄せられた巨額な寄付だった。そして、1914年の世の中がひっくり返るような経済恐慌の後にはガウディ名義の莫大な額の小切手2枚送ってよこした。サグラダ・ファミリアは1936年のスペイン戦争で焼き討ちに会って大きな損傷にあっているが、この修復工事の資金さえこのグエルの寄付で賄えた。



スペイン戦争で壊された石膏模型の修復
しかし、ガウディはこの資金不足で遅々として進まなかった工事の状況を逆手に取っていた。つまり、その間試行錯誤を重ね、民間の仕事での経験や失敗をこの贖罪の教会で生かしたのだった。しかし、そうしているうちに全体の規模はだんだんと大きくなってゆき、プランもギリシャ十字がラテン十字に変更され、鐘塔のプランが四角で着工したのが、円形になったりというようなとんでもない変更が加えら続けられた。何よりも大きな変更は教会堂が敷地をはみ出すというものだった。
ポスト・ガウディ
このガウディの度重なる設計変更は、確かにほとんどすべての作品で見られる。それもサグラダ・ファミリアのように40年以上も携わった長い工期の作品ではなく、比較的短期間に完成させた作品ですら、この変更が加えられている。ガウディが不慮の事故で死んでしまったため、ポスト・ガウディのサグラダ・ファミリアはこのガウディの建築に対する姿勢に対しどうしているのだろうか。ガウディは他人がやりかけの地下聖堂を完成させ、アプス、そして3つのファサードの一つ誕生のファサードをほぼ完成させただけだった。これは全体では10%にも至っていない量だ。誕生のファサードの建設中に確かに身廊の構造のシステムを練り、もう二つのファサード、つまり受難と栄光のファサードのアイディアも練っていたのは確かだ。
戦後建設続行した建築家たちは、紙のものは全てスペイン戦争で焼かれていたので、壊れた石膏の模型の断片を繋ぎ合わせて、ガウディのサグラダ・ファミリアの構想を再構築するという労力を課せている。これは言ってみれば遺物を捏ねまわす考古学的な手法であった。しかし、ガウディは常に新しい試みを考えだし、試行錯誤の末に石に刻んでいった建築家だったわけで、明らかに相反する手法で建設が進んでいる。
こうして冷静に見ると、例えば受難のファサードは基本設計が終わった程度、栄光のファサードは基本構想が終わった程度、身廊に関しては構造のシステムの先が見えてきて、割付の軸線が引き終わった程度だったのではないだろか。ガウディは生前10の1の身廊の図面を描いていたと言われるが、これですらも焼かれている。

受難のファサードのスケッチ (1917年)

理想復元された受難のファサードの模型

完成された受難の門のファサード

ガウディの栄光のファサードの模型 (1915年)

後年作られた栄光のファサード模型

建設中の栄光のファサード
そして、敷地をはみ出して舗道を占拠し、隣接の敷地まで大階段を伸ばすというガウディのアイディアは当時 (1906年) ですら教会側が土地の買取にかかる費用の捻出をせねばならないとして反対していたが、70年代には住宅がその敷地に立ちはだかるように建設された (Mallorca通り424-432番地)。つまり、正面玄関にはこの巨大な集合住宅を壊さない限り完成できないという、デザイン上のレヴェルの話だけではなく、物理的な大問題を抱えることになってしまった。しかし年間4百万人の観光客は世界中から押し寄せ、全予約制となったばかりか、周辺の住民の日常生活を脅かしている。

全体のプラン (1が誕生のファサード、2が苦難のファサード、3がアプス、4が正面になる栄光のファサード、5が大階段となって、マジョルカ通りを跨ぐ)
現在の受難のファサードから栄光のファサーフドの動画
(たんげ としあき)
■丹下敏明
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画 (現在進行中) などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社 (1976年)、『ガウディの生涯』彰国社 (1978年)、『スペイン建築史』相模書房 (1979年)、『ポルトガル』実業之日本社 (1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社 (1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会 (1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版 (1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社 (1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社 (2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社 (2022年)、『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』Kindle版 (2024 年)、Walking with Gaudi Kindle版 (2024 年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2024年7月16日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、細江英公です。
"Sagrada Familia 203"1975年
ヴィンテージ・ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:44.9×44.6cm
シートサイズ:60.6×50.7cm
サインあり
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●取り扱い作家たちの展覧会情報(5月ー6月)は5月1日ブログに掲載しました。

ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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E-mail:info@tokinowasuremono.com
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