三上豊「今昔画廊巡り」
第14回 ギャラリー山口
銀座3丁目交差点、松屋から昭和通り方向へ、2本目の十字路の斜め左向かいあたりにレンガ装のビルがある。そのヤマトビル3階にギャラリー山口が開廊したのは、1980年3月のことだった。オーナーの山口侊子さんは、1943年東京生まれ、早稲田大学を卒業し、喫茶店を経営しながら、ジュエリー制作をしていた。現在の日本ジュエリーデザイナー協会の準会員でもあったそうで、そのあたりから現代美術への興味がひろがったのだろう。開廊まもなくお話を聞く機会をもったが、例によってツッコミが甘い編集者ゆえに、開廊までの経緯の詳細などは窺へなかった記憶がある。エレベーターを降りて左側には35メートルの壁面があり、奥が事務室になっていた。当初から貸しと企画両方で運営していた。開廊時レンタルの料金1週間21万は90年には約26万となっている。
ギャラリー山口は、3回移転している。そのなかでも91年4月、銀座に多くのビルをもつヤマゲン、同業の東京画廊、南天子画廊、ギャラリー・ナガイショウコとともに新木場の倉庫にSOKOギャラリーを開設したことはトピックだった。倉庫ならではのタッパの高さと広さは魅せたが、2年ほどで撤退した。撤退の理由は個々の事情もあろうが、ギャラリー山口の場合、企画の足腰はそれほど強くなく、営業的に厳しかったと思う。当時、アートフェアを含め海外市場とのつながりの太さはなかったこともある。山口の展覧会ラインナップをみると、初期の展示作家には立体系が多い。米林雄一、望月菊麿、建畠覚造、篠原有司男、内田晴之、古川流雄、岡本敦生、深井隆、古郷秀一、村井進吾、真板雅文、金沢健一らが80年代前半には登場している。絵画では堀浩哉、小松崎広子、百瀬寿らの名がある。上記の作家たちは企画展として取り上げられており、山口さんには建築空間に作品を設置していくプランがあったようだ。ギャラリーは93年8月には銀座8丁目に、95年には京橋3丁目5-3京栄ビル1階と地階へと移転していく。付録のような地階は狭い空間だが、時にハッとするような若い人の発表に出合った記憶がある。
2010年1月に山口さんが亡くなった知らせが入った。自死とのことだった。『美術手帖』4月号181ページに堀浩哉さんが追悼記事を書いている。彼女から亡くなる直前の電話が彼のもとにあり、今日中に倉庫から作品を引き上げて欲しいとのこととある。経営の苦しさはどの程度だったかはともかく、オーナーの姿は消え、すぐに画廊も無くなった。残された資料は東京文化財研究所に作家たちによって寄贈された。現在ギャラリー山口の後にはギャルリー東京ユマニテが入っている。すでにしっかりとユマニテの空間になっている。そのせいもあろうか、私にとってギャラリー山口は銀座3丁目ビル3階の空間の印象が強い。今も画廊巡りをするルートにあるからだ。ビルの地階ではコバヤシ画廊ががんばっていることもあり、山口があった3階のちょっと暗い空間が思い出される。画廊はいろいろな事情があって移転をするが、巡る者にとって、最初に入った場所が脳裏に浮かぶのはなぜだろうか、と思う。

現在のヤマトビル外観

SOKOギャラリーパンフレット

展覧会パンフレット
(みかみ ゆたか)
■三上 豊(みかみ ゆたか)
1951年東京都に生まれる。11年間の『美術手帖』編集部勤務をへて、スカイドア、小学館等の美術図書を手掛け、2020年まで和光大学教授。現在フリーの編集者、東京文化財研究所客員研究員。主に日本近現代美術のドキュメンテーションについて研究。『ときわ画廊 1964-1998』、『秋山画廊 1963-1970』、『紙片現代美術史』等を編集・発行。
・三上豊のエッセイ「今昔画廊巡り」は毎月28日の更新です。次回更新は2024年7月28日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、百瀬寿です。
《Square - O and G with Gold》
1983年
シルクスクリーン
30.5×30.5cm
Ed.100
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
三上豊先生の今月の原稿を拝読しながら、14年前のことを思いだしました。山口侊子さんと親しかったわけではありませんがやはりその死は衝撃でした。2010年04月07日のブログに「或る画廊主の死とネットの時代」と題して少し書きましたが、ギューちゃんこと篠原有司男先生のエディションをつくるときにご協力いただきました。あらためてご冥福をお祈りします。
第14回 ギャラリー山口
銀座3丁目交差点、松屋から昭和通り方向へ、2本目の十字路の斜め左向かいあたりにレンガ装のビルがある。そのヤマトビル3階にギャラリー山口が開廊したのは、1980年3月のことだった。オーナーの山口侊子さんは、1943年東京生まれ、早稲田大学を卒業し、喫茶店を経営しながら、ジュエリー制作をしていた。現在の日本ジュエリーデザイナー協会の準会員でもあったそうで、そのあたりから現代美術への興味がひろがったのだろう。開廊まもなくお話を聞く機会をもったが、例によってツッコミが甘い編集者ゆえに、開廊までの経緯の詳細などは窺へなかった記憶がある。エレベーターを降りて左側には35メートルの壁面があり、奥が事務室になっていた。当初から貸しと企画両方で運営していた。開廊時レンタルの料金1週間21万は90年には約26万となっている。
ギャラリー山口は、3回移転している。そのなかでも91年4月、銀座に多くのビルをもつヤマゲン、同業の東京画廊、南天子画廊、ギャラリー・ナガイショウコとともに新木場の倉庫にSOKOギャラリーを開設したことはトピックだった。倉庫ならではのタッパの高さと広さは魅せたが、2年ほどで撤退した。撤退の理由は個々の事情もあろうが、ギャラリー山口の場合、企画の足腰はそれほど強くなく、営業的に厳しかったと思う。当時、アートフェアを含め海外市場とのつながりの太さはなかったこともある。山口の展覧会ラインナップをみると、初期の展示作家には立体系が多い。米林雄一、望月菊麿、建畠覚造、篠原有司男、内田晴之、古川流雄、岡本敦生、深井隆、古郷秀一、村井進吾、真板雅文、金沢健一らが80年代前半には登場している。絵画では堀浩哉、小松崎広子、百瀬寿らの名がある。上記の作家たちは企画展として取り上げられており、山口さんには建築空間に作品を設置していくプランがあったようだ。ギャラリーは93年8月には銀座8丁目に、95年には京橋3丁目5-3京栄ビル1階と地階へと移転していく。付録のような地階は狭い空間だが、時にハッとするような若い人の発表に出合った記憶がある。
2010年1月に山口さんが亡くなった知らせが入った。自死とのことだった。『美術手帖』4月号181ページに堀浩哉さんが追悼記事を書いている。彼女から亡くなる直前の電話が彼のもとにあり、今日中に倉庫から作品を引き上げて欲しいとのこととある。経営の苦しさはどの程度だったかはともかく、オーナーの姿は消え、すぐに画廊も無くなった。残された資料は東京文化財研究所に作家たちによって寄贈された。現在ギャラリー山口の後にはギャルリー東京ユマニテが入っている。すでにしっかりとユマニテの空間になっている。そのせいもあろうか、私にとってギャラリー山口は銀座3丁目ビル3階の空間の印象が強い。今も画廊巡りをするルートにあるからだ。ビルの地階ではコバヤシ画廊ががんばっていることもあり、山口があった3階のちょっと暗い空間が思い出される。画廊はいろいろな事情があって移転をするが、巡る者にとって、最初に入った場所が脳裏に浮かぶのはなぜだろうか、と思う。

現在のヤマトビル外観

SOKOギャラリーパンフレット

展覧会パンフレット
(みかみ ゆたか)
■三上 豊(みかみ ゆたか)
1951年東京都に生まれる。11年間の『美術手帖』編集部勤務をへて、スカイドア、小学館等の美術図書を手掛け、2020年まで和光大学教授。現在フリーの編集者、東京文化財研究所客員研究員。主に日本近現代美術のドキュメンテーションについて研究。『ときわ画廊 1964-1998』、『秋山画廊 1963-1970』、『紙片現代美術史』等を編集・発行。
・三上豊のエッセイ「今昔画廊巡り」は毎月28日の更新です。次回更新は2024年7月28日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、百瀬寿です。
《Square - O and G with Gold》1983年
シルクスクリーン
30.5×30.5cm
Ed.100
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
三上豊先生の今月の原稿を拝読しながら、14年前のことを思いだしました。山口侊子さんと親しかったわけではありませんがやはりその死は衝撃でした。2010年04月07日のブログに「或る画廊主の死とネットの時代」と題して少し書きましたが、ギューちゃんこと篠原有司男先生のエディションをつくるときにご協力いただきました。あらためてご冥福をお祈りします。
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