杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」第2回

 1980年11月に造形大助教授、原健(1942~)の紹介になりギャラリー山口で個展を開催した。画廊主の山口侊子は造形大教授だった詩人・美術評論家の岡田隆彦(1939~1997)を会場に引っ張って来た。岡田は画廊を一巡すると「マクラッケンの作品も縦長の矩形だが君の作品には反りがあるね」と簡単にコメントした。たしかにそのとおり、亜鉛箔粉研ぎ出し仕上げと等しく、反りとむくりを縦横組み合わせた2次曲面のパネル仕立ても杣木作品の主眼であった。

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【図1】ギャラリー山口個展 1980

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【図2】ギャラリー山口個展 1980

 康画廊でマクラッケンの作品を教えてくれた成田克彦に次いで、岡田隆彦からもまだ見ぬジョン・マクラッケン(1934~2011)の名を聞いてしまった。ジョン・マクラッケンは杣木のなかで櫻井英嘉(1935~1999)と2人、その表面と画面の至福双璧ゆえ生涯尾を引く存在になるのだが。

 個展が終わり、常住していた本郷の職場に成田から電話があり「お金になる方がいいだろう」と宮脇愛子という彫刻家を訪ねることになった。造形在学まえから片足を突っ込んでいた本郷菊坂の職場は、早朝業務をこなせば午後は自由がきくし、夜は神田行きつけの割烹呑み屋も至近だった。大学で制作をつづけられれば、とくにバイトを始める必要もなかったのだが、2年目の聴講期限も迫っていたので、成田の指示にしたがった。

 造形大の聴講生は原則1年、年間材料費のみを納めれば大学の余白スペースで制作できるという、学部を卒業したばかりの制作志望者にはまことにありがたい制度だった。1979年は成田肝いりの真和画廊で初個展。助教授の原健がギャラリー山口を紹介してくれたので2年目の1980年も在籍できた。ひきつづき成田克彦が担当してくれ、成田の薦めによる毎日新聞主催第13回日本国際美術展(佳作賞候補)、トキさん並河さんのルナミ画廊個展【図3】ギャラリー山口個展とそれぞれ大作を制作し精力的に発表できた年だった。

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【図3】ルナミ画廊個展 1980

 したがって喫緊の問題は、いままでどおり、大作をつくれる大学に代わる制作の場を確保することだった。成田さんや愛子さんも井の頭線沿いの画家の物件を紹介してくれたが、杣木の木工、塗装にかなう作業場としての使い勝手には広さの難があった。けっきょく稲葉治夫と成田の非具象コースによく遊びに来た多摩美院生、長谷川俊文らが発足した八王子陣馬街道沿いの絹織工場跡、「アトリエ53」【図4】に参加することにした。高尾の造形大から山一つ隔てた至近だったが、まだ高尾駅から陣馬街道に抜けるトンネルがない時代で、八王子駅か西八王子駅から、成田が昔、《炭》を焼いた窯跡青木製材所のある「小田野」からさらに5つ先、「松竹」橋バス停で降りた。多摩美の創立メンバーたちは李禹煥(1936~)や吉田克朗(1943~1999)の教えを真に受けていたので、もっぱら素材と配列の妙を継承している風だった。

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【図4】アトリエ53 写真、森岡純

 それで1980年11月末に成田と白いバラの花を買い求め、文京区駒込六義園沿い蕎麦屋長寿庵を過ぎたあたりのマンション6階にあった宮脇愛子アトリエを訪ねると、この白いバラの花をたいそう喜んで迎えてくれた。このとき杣木は彫刻家、宮脇愛子に関する知識はまったくなかった。12月8日だったか、宮脇が成田克彦、山口勝弘(1928~2018)と杣木の3人を本郷の自邸に夕食に招いてくれた。成田は杣木同級の大野郁彦と後輩橋本仁輔を2年続けて筑波大の山口勝弘(ヤマカツ)研究室に送った縁があった。その日は、愛子さん知人のオノ・ヨーコの夫ジョン・レノンの死が報じられていた。

 宮脇は「宮脇愛子近作彫刻展」銀座ミキモトホール(1981)を目前に控えていて、人の手が必要だったのだ。銀座4丁目「ミキモトホール」の宮脇愛子展オープニングに出向くと、立錐の余地なく人が歓談している宴たけなわで、メディアで見知った顔もちらほらする多士済々の顔ぶれに圧倒されてしまった。受付でギャラリーたかぎの沢島享子さんからカタログをいただいたのだが、持ち帰ってめくるとアレ!「島津貴子様」あての愛子さんのサインがあり恐縮してしまった。

軽井沢に屋外に設置された〈うつろひ〉(1983)
 彦田児童公園(1980)東京湾岸仮設(1981)箱根彫刻の森美術館(1981)琵琶湖大橋彫刻プラザ(1982)につづいて軽井沢山荘前庭に、屋外用にステンレス・ワイヤーを用いて〈うつろひ〉設置をしたのは1983年夏だったか。この年に杣木も泊りがけで軽井沢を訪れている。

 磯崎さんの設計になる木造キシラデコール黒塗りの真新しい山荘だった。

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【図5】軽井沢

 高いひさしのテラスには本郷で愛子さんが工作用に使っていた、ドでかいラワンの切り株を据え、マットを敷き花を活けて、朝食やお茶をとる野趣ある食台に転用した。

 すぐ斜めうえ、見上げると、おなじ磯崎さん設計になる辻邦生、佐保子夫妻の山荘が見えた。食堂脇の階段を上ると、2階は愛子さんのひろいアトリエだった。書棚には折りたたみ式のベットが内蔵されていて、愛子さんが引き出してベットメイクの仕方を丁寧に教えてくれた。アトリエ北面は外部の緑が丸ごと目に飛び込んでくる2枚の大きな透明ガラス壁だ。奥の外階段出口わきに、マン・レイ風な摺りガラスとカーテンで仕切っただけのトイレがある。

 夜になって、ようやく前庭に屋外設置する〈うつろひ〉用の8mm径×8mのステンレス・ワイヤー到着の報がはいった。待ちかねた知らせに、ふもとまで駆け足で暗い山道をくだった。ワイヤーは15tトラック混載便脇に直線のまま括りつけられて待機していた。運転手がたった1人で、まだ10代のおよそ15トントラックと似合わない、あどけない顔立ちだった。彼と2人でゆらゆら揺れる8mステンレス・ワイヤーの束を担ぐと肩にズッシリ食い込み、少年のような運転手もよく耐えている。愛子さんは、これから目的地へ夜間走行しなければならない若い運転手の労をねぎらった。

 愛子さんの死後、松田昭一と山荘に宮脇の荷一式を引き取りに行ったことがある。急な坂を車で辿りながら、当時の若さとはいえ、よくぞ夜道ただの2人でワイヤーを運び上げたものだとつくづく感じた。

 軽井沢の地面は軽石状でごつごつしている。手掘りスコップでは10cm掻き出すのが限度である。したがってワイヤーを地面に深く差し込んで固定することができない。とりあえず鉄板ベースに穿った穴へワイヤーを差し込んでみて、石に突き当たればそれでも良しとした。しかしなぜか、この浅い刺さりの軽井沢〈うつろひ〉が、いちばんメンテナンス要らずだった。1983年の取り付けから2018年の基盤掘り起こし工事まで、蝶や鳥が飛来し、雪が積もり、あげくに野猿の子供も来て遊んだというが、差し渡し距離と、差し込みアングルが相乗効果を生んだのだろう、ほぼ36年のあいだ地面に低く描かれた弧線を保った。

 初期「銀座ミキモト・ホール」(1981)でも披露された「120号キャンバス・レリーフ〈うつろひ〉」における、ピアノ線自重とバネ力を生かした、たてに伸びるペア線形は「ハートライン」か「ダブルS字ライン」で描かれた。床置きや柱上の空間インスタレーションも目線は異なるがこれらも「キャンバス・レリーフ」に見出される「ハート」「S字」構造力学に基づいている。

※コンセプトとしてのワイヤーコラージュ
ピアノ線をペンチでカットして、ボードに「ハートライン」を描いたコラージュがある。これは彦田児童公園(1980)〈うつろひ〉の、一点から次の一点へ分かれ移ろう時空概念を写している。また同時期、巻かれたワイヤーを数センチずつにカットしたパーツを、ランダムな弧の向きで横一列に配したコラージュも、見えざる延長線を彷彿させる別様な時空概念に変化している。

 軽井沢のアトリエには、「銀座ミキモト・ホール」個展(1981)で展示したピアノ線の〈うつろひ〉がワンセット移された。3~4mの距離で床に据えた2台の真鍮円基盤には、100ちかいベクトルの穴が穿たれていた。【図6】実際には1~3穴しか使わない。これはギャラリー高木個展(1980)や彦田児童公園(1980)では、いくぶん概念的なハート型の固定線形だった〈うつろひ〉に対して、東京湾岸仮設(1981)で、はじめてハガネのピアノ線によって、より自由度を増した流動線に挑む宮脇愛子の並々ならぬ空間意欲の証だった。

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【図6】〈うつろひ〉基盤図

 たとえば、床置き形式の〈うつろひ〉設置では、まず宮脇愛子が空間に描くにふさわしい基盤のポジションを定める。そうして、2本のワイヤーの両端を【向こう】の基盤と【こちら】の基盤(実際には【向こう】2穴+【こちら】2穴の計4穴)に挿し立ち上げ、弧線彫刻が生成する。

宮脇愛子は、みずからを(ピアノ線=野獣)の調教師に喩えたことがある。実際問題、まずは工場から荷造りされて届いたピアノ線は、針金で結束して径170cmに丸く巻かれた状態だ。結わえた針金をほどいてピアノ線を直線に戻すときの反発力に十分気を付けないと危険なのだった。そして宮脇の眼に叶う〈うつろひ〉フォームを立ち上げるための、ワイヤー差し替え、基盤移動、基盤回転、これらの操作はつねにワイヤーの反発力にあらがっての作業になる。

物理的な〈うつろひ〉操作

 前述したように、〈うつろひ〉の床置き基本線形は、2本ペアのワイヤー両端を反転アングルによって【向こう】と【こちら】2点に固定することで得られる。

 まず円基盤に2本の8mm径ワイヤーを差し渡すとする。が、これではまだストレートな放物線でしかないが、このラインで済む場合と、修正を要する場合がある。

 ラインの補正には基盤を少し回わしてひねりを加える。抗力を内充したワイヤーは一気に緊張し宮脇の意図する線形に近づく。優美で軽やかにたゆたう〈うつろひ〉線形は、じつは絶えず直線に帰そうとするハガネの張力を抑え込んで生まれる。さらにペアのワイヤーアングルを決めて〈うつろひ〉フォームを纏めるのだが、この場合、2本の口元をできるだけ1点に寄せ近接させるために、抗力がかかったままのワイヤーをいったん引き抜いて適正なベクトル穴を探しだす、差し替え作業があり、これがとてもきつい作業だ。こんなわけで宮脇愛子の指示に叶う〈うつろひ〉のインスタレーションには、かなりの力業とコツを強いられる。

展開/ギャラリー上田ウエアハウス個展(1983)
 東京大空襲の火災の難を奇跡的に逃れたという、頑強な戦前の全面コンクリート打ちの倉庫をギャラリー上田が美術展示空間に大胆にも転用したのだ。威圧感のあるボリュームのコンクリート円柱はいかにも緻密で、床との巾木部分には分厚い鉄帯が巻かれ鉄鋲が打ち込まれている。表面は長い歳月に黒光りしている。

 並みの彫刻ではこの柱の存在感に威圧されてしまう。宮脇愛子にも、展示上の大問題として立ち塞がっていたと思う。しかも空間を視覚的に遮るこの柱を避けるわけにはいかないという難題を突きつけられた。

 宮脇は、ならば ! とむしろこの現実を逆手に取って、物質感の極みの重厚な柱の周囲を細く光るワイヤーでとり囲むという手法に打って出た。不動の柱を巡る鋭利なワイヤーの動態とreflectionの好対照で空間を成功にみちびいたのである。この重厚な空間において、一瞬光線をえがくワイヤーラインにたいして、〈うつろひ〉というタイトルは言い得て妙であった。まったく宮脇愛子はすべてをワイヤーラインの現象に取り込んで新たな空間を創出してしまった。

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【図7】仮設置1983.7 右奥から、澤田陽子、安齊重男、宮脇愛子、杣木浩一

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【図8】調整1983.10宮脇愛子、杣木浩一

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【図9】〈うつろひ〉ギャラリー上田ウエアハウス1983写真、安齊重男

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【図10】東京日仏学院個展1984 写真、安齊重男

東京日仏学院個展(1984)
 広い芝生だが、もともと日本庭園だったからツツジや枝振りの良い松が植わっている。ここでも植栽で見え隠れする空間をうまく作品に繫げた。

 ワイヤーはあらかじめ多めに持ち込んで余っていたから、基本設置が終わってからも、適時実験的に増やし広い庭園内で思う存分〈うつろひ〉の分岐連鎖を試みた。その結果、鉄基盤の数が足らなくなったが、柔らかい庭土だったので、宮脇は逆に煩わしい基盤穴など不用、望むがままのアングルに地中深くワイヤーを差し込んで固定してしまった。

 幅広の二階通路には展示壁が仮設されて大判の近作ドローイングが架けられ、教室側の壁には黒いロール紙を横に貼りこみ、庭のインスタレーションに呼応するかのように、連鎖する弧線が描かれた。

(そまき こういち)

杣木浩一(そまき こういち)
1952年新潟県に生まれる。1979年東京造形大学絵画専攻卒業。1981年に東京造形大学聴講生として成田克彦に学び、1981~2014年に宮脇愛子アトリエ。2002~2005年東京造形大学非常勤講師。
1979年真和画廊(東京)での初個展から、1993年ギャラリーaM(東京)、2000年川崎IBM市民文化ギャラリー(神奈川)、2015年ベイスギャラリー(東京)など、現在までに20以上の個展を開催。
主なグループ展に2001年より現在まで定期開催中の「ABST」展、1980年「第13回日本国際美術展」(東京)、1985年「第3回釜山ビエンナーレ」(韓国)、1991年川崎市市民ミュージアム「色相の詩学」展(神奈川)、2003年カスヤの森現代美術館「宮脇愛子と若手アーチストたち」展(神奈川)、2018年池田記念美術館「八色の森の美術」展(新潟)、2024年「杣木浩一×宮脇愛子展」(ときの忘れもの)など。
制作依頼、収蔵は1984年 グラスアート赤坂、1986年 韓国々立現代美術館、2002 年グランボア千葉ウィングアリーナ、2013年B-tech Japan Bosendorfer他多数。

・杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」第3回は8月8日の更新を予定しています。どうぞお楽しみに。

ときの忘れものでは来月8月20日~31日の会期で「杣木浩一×宮脇愛子」展を開催します。

●本日のお勧め作品は、宮脇愛子です。
miyawaki_egg_A「Golden Egg(A)」
1982年 ブロンズ
H4.5×21×12cm
限定 50部
本体に刻サイン、共箱(箱にペンサイン)
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杣木浩一作品