丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」
その15 ガウディの設計プロセス
丹下敏明
ガウディの事務所
ガウディは1878年3月15日、建築のタイトルをもらうと同時に当時の人気カメラマン、パウ・アウドウアルド(Pau Audouard i Deglaire, 1856–1918年)にポートレートを撮ってもらい、名刺を刷っている。その名刺にはBufeteという文字が書かれているが、これは現在でも弁護士や公証人が使っているけども、建築業界では死語になっている、つまり事務所という意味。ガウディは事務所を開設し、一人立ちの建築家となり、ポートレートも撮って仕事をこなしていくというガウディの意欲が明らかだ。その事務所では立派なデスクまでデザインしている。しかし、この名刺にある住所(Call, 11-3)は実は市役所前広場に近いとはいえ裏道で、しかも階数から言えば日本式では4階という屋根裏部屋に当たる場所だ。その頃のガウディの図面には1万分の何番という作品の通し番号が入っている。つまり、プロジェクトを1万個製作しようという意気込みすらあったのが読み取れる。

写真嫌いだったガウディの生涯3枚しか撮られなかったポートレートの一枚
しかし、現実は地方出の職人の倅で、大都市のバルセロナでまともな建築の仕事をもらうようなコネもなかったし、8x10cmという今では異常に大きな判型の名刺を刷ったにもかかわらず、仕事は舞い込んでこず、先輩の建築家、ジョアン・マルトレイ(Joan Martorell i Montells, 1833-1906年)の事務所でキャリアを積むことになる。この自分の事務所で実際にどれだけのプロジェクトを作ったことだろうか。

縦位置の大判の名刺。ガウディは生涯もう1枚名刺を刷っている

ガウディが自らデザインし、親しかったプンティの工房で作らせたデスク

ガウディの最初で最後に作った事務所の現在の姿
1882年ジョアン・マルトレイの事務所で働いていた時、レス・サレーサス修道院の付属教会堂にこの年から85年までガウディは係わっていた。これは修道院部分はすでに完成していたが、一番大切な教会堂を担当したことになる。もっともそれ以前の1880年にバルセロナ大聖堂の正面ファサードのコンペに参加したマルトレイはガウディに1枚のエレヴェーションを描かせているので、これは比較的小さな図面なので新しく作った自分の事務所で描いたのだろう。しかし、この頃1883年にエル・カプリチョをコミージャスという遠隔地に設計して、このための図面一式と精巧な模型を現地に送っているが、模型はこの事務所では作れるはずもなく外注したのだろう。
レス・サレーサスの建設中にマルトレイからサグラダ・ファミリア教会の建設の続行をしないかという話をもらう。これはこれまでのわけの分からないプロジェクトとは規模も格段の差があり、ましてや建築らしい建築のプロジェクトだった。
サグラダ・ファミリア教会の現場
しかし、地下聖堂を建設していた頃のサグラダ・ファミリア教会の敷地はインフラの整備も未だ整っておらず、道路も舗装されていないどころか、それすらないようなところだった。よく知られる写真(1905年末撮影とされる)でも山羊がこの辺りでは飼われているというような場所だった。ガウディがサグラダ・ファミリア教会の建築家として任命された頃、現場では作業するようなスペースは無かった。その頃の現場の石工の作業場の屋根以外には作業できるようなところは残されている写真でも確認できない。

1905年末の頃とされるサグラダ・ファミリア教会周辺

地下聖堂建設の頃の現場
その後、ガウディは結構早い時期、1887年に敷地内に現場事務所を建設している。この年一番弟子となったベレンゲール(Francesc Berenguer i Mestres, 1866-1914年)をサグラダ・ファミリア教会にアシスタントとして受け入れているので事務所らしい作業スペースは必要であった。これとは別に工事関係者用の入口というのがセルデーニャ通りとマジョルカ通りの角に今も現存し、その門柱には1882という着工年が刻まれている。その奥に2階建ての事務所が以前にはあり、私はかつてここに当時の建築家を訪ねたものだ。しかし、ガウディは膨大なスペースが必要となってくる。更に設計のプロセスを確立すると、事務所ではなくむしろ工房と言えるような大きなスペースをガウディは建設している。1906年には敷地内に散在していた作業スペースが一か所に集められるが、この工事が1912年まで続いている。しかもその後何度も改装、増築を重ねた。それは何故か。これこそガウディの設計プロセスに関わっている。

工事関係者の入口には着工年が刻まれている

1972年1月には現場に設計事務所が弟子たちによって建てられていた。左手下

1917年の工房。スーツにネクタイ姿で作業しているのは弟子の一人スグラーニェス
ガウディは弟子たちに図面というのは二次元でしかないと語っていた。『人間の知性は二次元である図面の上でのみ働くのです。それはひとつの未知数を持つ、一次方程式を解析するのです。ところが天真の知性は三次元なので、直接空間に働きかけます。人間はそこまで不可能です。でき上がったもの、つまり現物を見るまではね。』と・・・・。若干ミスティックな表現が使われているのかもしれない。そのためにスケッチや図面は確かに描いているが、ガウディがデザインプロセスのため一番信頼していた方法は模型だった。これは三次元、神に近づけ得る方法だった。
ガウディの設計術
ガウディはエジソンが開発した映画撮影ためのスタジオを真似た工房を作り20分の1、10分の1という巨大な模型を作りはじめる。これを検証するためには大きなスペースが必要だった。まさにそれは映画のスタジオのような入射光がコントロールでき、角度を変えて検証できるような工房をセルデーニャ通りとプロベンサ通りの角に作っている。ここには教区教会の司祭の家もあったが、晩年にはガウディが仮眠するための部屋すら設けられた。現在では半分以上がスペイン戦争の時に壊されてしまっているが、1926年今井兼次さんが初めてガウディを尋ねようとサグラダ・ファミリア教会を訪れた時この場所に行っている。

作られた模型は至る所に置かれていた。左手にはカサ・バトリョの鋳鉄のバルコニーのモデルが見える

ガウディの作業用のデスク
ガウディが模型の材料として一番よく使ったのは木とかではなく更に安価な石膏を使った模型だった。しかし、このプロセスに必要なのは型で、このために学生の頃から知っていた型職人のリョレンス・マタマラ(Llorenç Matamala i Pinol, 1856 -1927年)を1891年、協働者としてスカウトしてサグラダ・ファミリアに呼んだ。
これらの膨大な量の石膏模型は写真に撮られている。実物は1936年のスペイン戦争で壊されてしまったが、写真が一部残されていて、ガウディはどういう設計のプロセスを取っていたのかがそれから垣間見ることができる。残された写真によれば、誕生のファサードの彫刻群の製作は適当なモデルを見つけ、その聖人に見合った衣装を付けさせ、これを3面(バックに2面、上に1面)の鏡を置いて、写真に撮らせる。次に石膏または粘土で写真を参考にスケール模型を作る。その出来に納得すると、次にはスケールを大きくしてこれを更に検討する。最終的に原寸の石膏模型が作られ、設置される位置に置いてこれを検討する。地上からの見えがかり、あるいは隣接する彫像との釣り合い、顔の向いている方向、果ては衣装が一定の方向の風になびいているかなどがチェックされ、最終的に石に刻まれる。
一番寄付の集まった1897年には現場で左官9人、 人夫22人、 石工24人、大工16人、そして何と彫刻職人は41人が働いていた。彫刻職人はアーティストも加わっていたらしいが、基本的に検証に検証を重ねるという方法で制作を進めていたガウディには個性は不要だったので、職人が当たっていた。パーソナリティーが出るアートは不要、実証主義だったのだ。

十字架のイエスのモデル

弟子の型枠職人マタマラもモデルとなった
1915年2月21日美術学校の生徒がサグラダ・ファミリアを訪問しているが、ガウディは学生たちにこの彫刻の制作のプロセスについて自ら語っている。

ベルナベの塔(正面向かって左端)の製作工程が分かる

実際に石で刻まれたベルナベの像

マリアの戴冠のモデル

実際に石にされたマリアの戴冠
この設計、製作のプロセスは実は彫像群だけではなく、建築でも同じことをしている。柱の形状、柱頭の検討などはもちろん、例えば巨大なアーキヴォールトでさえ原寸で石膏模型が作られ、検討が終わるまでの間、実際に設置される場所に仮置きされていた。

工房では20分の1の部分模型も作られた

柱のスタディ模型

誕生のファサードに仮置きされる石膏の原寸模型
■丹下敏明 (たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画 (現在進行中) などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展 (サン・ジョアン・デスピCan Negreにて)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社 (1976年)、『ガウディの生涯』彰国社 (1978年)、『スペイン建築史』相模書房 (1979年)、『ポルトガル』実業之日本社 (1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社 (1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会 (1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版 (1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社 (1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社 (2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社 (2022年)、『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』Kindle版 (2024 年)、Walking with Gaudi Kindle版 (2024 年)、ガウディの最大の傑作と言われるサグラダ・ファミリア教会はどのようにして作られたか:本当に傑作なのかKindle版 (2024 年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2024年9月16日です。どうぞお楽しみに。
●丹下敏明先生の新刊のご案内
『Walking with Gaudi: バルセロナのガウディ建築案内続編』Kindle版
本書は平凡社のコロナブックスから出された『バルセロナのガウディ建築案内』の続編です。この本を作ろうと思ったもともとのアイディアは、ガウディが足を運んだと文献上分かっている場所や関連したとされる場所をくまなくピックアップし、これをできる限り実際に訪ねてみようという事でした。その作業のなかでガウディを想い、よりガウディに近づくことができたらいいと、更に資料を集め、これを記録してみました。しかし、同書ではページの都合で掲載されなかった項目がたくさん出てしまいしかも編集部の意向も加わって当初とは若干違った形に編集されています。その作業をしていた2年間、これらを歩き回るうちにさらにガウディに触れ、本を読むだけではちょっと理解できなかったことも、このガウディのパーソナル・ツアーをしていくなかで書籍やネット上では、全く気が付かなかった次元の収穫もあったと思っています。
本書はその続編、つまり出版できなかった項目、そして出版以降歩いて見つかった場所を含め、集めています。そのなかでも特にガウディの人間関係、ガウディがどのようにして地方都市の職人の子として生まれながら、大都市に出て、建築家という信頼関係が非常に大切にされる職業を営むためにどうやって人脈を作っていったのか、あるいは1914年の世界大恐慌以降、パトロンであったスペイン一の資産家、ヨーロッパでも5本の指に入るエウセビ・グエルですらガウディをサポートし続けることが出来なかった事態に陥ってガウディはどう立ち回っていったか、かつてガウディが歩いた道をたどり、歩く中でガウディを解明し、読者と共有したいというのがこの本の狙いです。
(丹下敏明)
●本日のお勧め作品は、細江英公です。
"Sagrada Familia 203"
1975年
ヴィンテージ・ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:44.9×44.6cm
シートサイズ:60.6×50.7cm
サインあり
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

その15 ガウディの設計プロセス
丹下敏明
ガウディの事務所
ガウディは1878年3月15日、建築のタイトルをもらうと同時に当時の人気カメラマン、パウ・アウドウアルド(Pau Audouard i Deglaire, 1856–1918年)にポートレートを撮ってもらい、名刺を刷っている。その名刺にはBufeteという文字が書かれているが、これは現在でも弁護士や公証人が使っているけども、建築業界では死語になっている、つまり事務所という意味。ガウディは事務所を開設し、一人立ちの建築家となり、ポートレートも撮って仕事をこなしていくというガウディの意欲が明らかだ。その事務所では立派なデスクまでデザインしている。しかし、この名刺にある住所(Call, 11-3)は実は市役所前広場に近いとはいえ裏道で、しかも階数から言えば日本式では4階という屋根裏部屋に当たる場所だ。その頃のガウディの図面には1万分の何番という作品の通し番号が入っている。つまり、プロジェクトを1万個製作しようという意気込みすらあったのが読み取れる。

写真嫌いだったガウディの生涯3枚しか撮られなかったポートレートの一枚
しかし、現実は地方出の職人の倅で、大都市のバルセロナでまともな建築の仕事をもらうようなコネもなかったし、8x10cmという今では異常に大きな判型の名刺を刷ったにもかかわらず、仕事は舞い込んでこず、先輩の建築家、ジョアン・マルトレイ(Joan Martorell i Montells, 1833-1906年)の事務所でキャリアを積むことになる。この自分の事務所で実際にどれだけのプロジェクトを作ったことだろうか。

縦位置の大判の名刺。ガウディは生涯もう1枚名刺を刷っている

ガウディが自らデザインし、親しかったプンティの工房で作らせたデスク

ガウディの最初で最後に作った事務所の現在の姿
1882年ジョアン・マルトレイの事務所で働いていた時、レス・サレーサス修道院の付属教会堂にこの年から85年までガウディは係わっていた。これは修道院部分はすでに完成していたが、一番大切な教会堂を担当したことになる。もっともそれ以前の1880年にバルセロナ大聖堂の正面ファサードのコンペに参加したマルトレイはガウディに1枚のエレヴェーションを描かせているので、これは比較的小さな図面なので新しく作った自分の事務所で描いたのだろう。しかし、この頃1883年にエル・カプリチョをコミージャスという遠隔地に設計して、このための図面一式と精巧な模型を現地に送っているが、模型はこの事務所では作れるはずもなく外注したのだろう。
レス・サレーサスの建設中にマルトレイからサグラダ・ファミリア教会の建設の続行をしないかという話をもらう。これはこれまでのわけの分からないプロジェクトとは規模も格段の差があり、ましてや建築らしい建築のプロジェクトだった。
サグラダ・ファミリア教会の現場
しかし、地下聖堂を建設していた頃のサグラダ・ファミリア教会の敷地はインフラの整備も未だ整っておらず、道路も舗装されていないどころか、それすらないようなところだった。よく知られる写真(1905年末撮影とされる)でも山羊がこの辺りでは飼われているというような場所だった。ガウディがサグラダ・ファミリア教会の建築家として任命された頃、現場では作業するようなスペースは無かった。その頃の現場の石工の作業場の屋根以外には作業できるようなところは残されている写真でも確認できない。

1905年末の頃とされるサグラダ・ファミリア教会周辺

地下聖堂建設の頃の現場
その後、ガウディは結構早い時期、1887年に敷地内に現場事務所を建設している。この年一番弟子となったベレンゲール(Francesc Berenguer i Mestres, 1866-1914年)をサグラダ・ファミリア教会にアシスタントとして受け入れているので事務所らしい作業スペースは必要であった。これとは別に工事関係者用の入口というのがセルデーニャ通りとマジョルカ通りの角に今も現存し、その門柱には1882という着工年が刻まれている。その奥に2階建ての事務所が以前にはあり、私はかつてここに当時の建築家を訪ねたものだ。しかし、ガウディは膨大なスペースが必要となってくる。更に設計のプロセスを確立すると、事務所ではなくむしろ工房と言えるような大きなスペースをガウディは建設している。1906年には敷地内に散在していた作業スペースが一か所に集められるが、この工事が1912年まで続いている。しかもその後何度も改装、増築を重ねた。それは何故か。これこそガウディの設計プロセスに関わっている。

工事関係者の入口には着工年が刻まれている

1972年1月には現場に設計事務所が弟子たちによって建てられていた。左手下

1917年の工房。スーツにネクタイ姿で作業しているのは弟子の一人スグラーニェス
ガウディは弟子たちに図面というのは二次元でしかないと語っていた。『人間の知性は二次元である図面の上でのみ働くのです。それはひとつの未知数を持つ、一次方程式を解析するのです。ところが天真の知性は三次元なので、直接空間に働きかけます。人間はそこまで不可能です。でき上がったもの、つまり現物を見るまではね。』と・・・・。若干ミスティックな表現が使われているのかもしれない。そのためにスケッチや図面は確かに描いているが、ガウディがデザインプロセスのため一番信頼していた方法は模型だった。これは三次元、神に近づけ得る方法だった。
ガウディの設計術
ガウディはエジソンが開発した映画撮影ためのスタジオを真似た工房を作り20分の1、10分の1という巨大な模型を作りはじめる。これを検証するためには大きなスペースが必要だった。まさにそれは映画のスタジオのような入射光がコントロールでき、角度を変えて検証できるような工房をセルデーニャ通りとプロベンサ通りの角に作っている。ここには教区教会の司祭の家もあったが、晩年にはガウディが仮眠するための部屋すら設けられた。現在では半分以上がスペイン戦争の時に壊されてしまっているが、1926年今井兼次さんが初めてガウディを尋ねようとサグラダ・ファミリア教会を訪れた時この場所に行っている。

作られた模型は至る所に置かれていた。左手にはカサ・バトリョの鋳鉄のバルコニーのモデルが見える

ガウディの作業用のデスク
ガウディが模型の材料として一番よく使ったのは木とかではなく更に安価な石膏を使った模型だった。しかし、このプロセスに必要なのは型で、このために学生の頃から知っていた型職人のリョレンス・マタマラ(Llorenç Matamala i Pinol, 1856 -1927年)を1891年、協働者としてスカウトしてサグラダ・ファミリアに呼んだ。
これらの膨大な量の石膏模型は写真に撮られている。実物は1936年のスペイン戦争で壊されてしまったが、写真が一部残されていて、ガウディはどういう設計のプロセスを取っていたのかがそれから垣間見ることができる。残された写真によれば、誕生のファサードの彫刻群の製作は適当なモデルを見つけ、その聖人に見合った衣装を付けさせ、これを3面(バックに2面、上に1面)の鏡を置いて、写真に撮らせる。次に石膏または粘土で写真を参考にスケール模型を作る。その出来に納得すると、次にはスケールを大きくしてこれを更に検討する。最終的に原寸の石膏模型が作られ、設置される位置に置いてこれを検討する。地上からの見えがかり、あるいは隣接する彫像との釣り合い、顔の向いている方向、果ては衣装が一定の方向の風になびいているかなどがチェックされ、最終的に石に刻まれる。
一番寄付の集まった1897年には現場で左官9人、 人夫22人、 石工24人、大工16人、そして何と彫刻職人は41人が働いていた。彫刻職人はアーティストも加わっていたらしいが、基本的に検証に検証を重ねるという方法で制作を進めていたガウディには個性は不要だったので、職人が当たっていた。パーソナリティーが出るアートは不要、実証主義だったのだ。

十字架のイエスのモデル

弟子の型枠職人マタマラもモデルとなった
1915年2月21日美術学校の生徒がサグラダ・ファミリアを訪問しているが、ガウディは学生たちにこの彫刻の制作のプロセスについて自ら語っている。

ベルナベの塔(正面向かって左端)の製作工程が分かる

実際に石で刻まれたベルナベの像

マリアの戴冠のモデル

実際に石にされたマリアの戴冠
この設計、製作のプロセスは実は彫像群だけではなく、建築でも同じことをしている。柱の形状、柱頭の検討などはもちろん、例えば巨大なアーキヴォールトでさえ原寸で石膏模型が作られ、検討が終わるまでの間、実際に設置される場所に仮置きされていた。

工房では20分の1の部分模型も作られた

柱のスタディ模型

誕生のファサードに仮置きされる石膏の原寸模型
■丹下敏明 (たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画 (現在進行中) などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展 (サン・ジョアン・デスピCan Negreにて)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社 (1976年)、『ガウディの生涯』彰国社 (1978年)、『スペイン建築史』相模書房 (1979年)、『ポルトガル』実業之日本社 (1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社 (1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会 (1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版 (1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社 (1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社 (2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社 (2022年)、『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』Kindle版 (2024 年)、Walking with Gaudi Kindle版 (2024 年)、ガウディの最大の傑作と言われるサグラダ・ファミリア教会はどのようにして作られたか:本当に傑作なのかKindle版 (2024 年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2024年9月16日です。どうぞお楽しみに。
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『Walking with Gaudi: バルセロナのガウディ建築案内続編』Kindle版
本書は平凡社のコロナブックスから出された『バルセロナのガウディ建築案内』の続編です。この本を作ろうと思ったもともとのアイディアは、ガウディが足を運んだと文献上分かっている場所や関連したとされる場所をくまなくピックアップし、これをできる限り実際に訪ねてみようという事でした。その作業のなかでガウディを想い、よりガウディに近づくことができたらいいと、更に資料を集め、これを記録してみました。しかし、同書ではページの都合で掲載されなかった項目がたくさん出てしまいしかも編集部の意向も加わって当初とは若干違った形に編集されています。その作業をしていた2年間、これらを歩き回るうちにさらにガウディに触れ、本を読むだけではちょっと理解できなかったことも、このガウディのパーソナル・ツアーをしていくなかで書籍やネット上では、全く気が付かなかった次元の収穫もあったと思っています。
本書はその続編、つまり出版できなかった項目、そして出版以降歩いて見つかった場所を含め、集めています。そのなかでも特にガウディの人間関係、ガウディがどのようにして地方都市の職人の子として生まれながら、大都市に出て、建築家という信頼関係が非常に大切にされる職業を営むためにどうやって人脈を作っていったのか、あるいは1914年の世界大恐慌以降、パトロンであったスペイン一の資産家、ヨーロッパでも5本の指に入るエウセビ・グエルですらガウディをサポートし続けることが出来なかった事態に陥ってガウディはどう立ち回っていったか、かつてガウディが歩いた道をたどり、歩く中でガウディを解明し、読者と共有したいというのがこの本の狙いです。
(丹下敏明)
●本日のお勧め作品は、細江英公です。
"Sagrada Familia 203"1975年
ヴィンテージ・ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:44.9×44.6cm
シートサイズ:60.6×50.7cm
サインあり
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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