「刷り師・石田了一の仕事」第5回「Hanger」
石田了一
工房が中野(沼袋)時代、近くで殺人事件があり、刑事がやって来た。
いわゆる聞き込み捜査というものらしい。
たまたま、開いていたアパートのドアから中を覗き込み、
「仕事は何やっているの?」
「版画作っています」
「あぁ、ハンガーね」と、意外とあっさり納得した様子に、こちらは拍子抜けした。
アパートの玄関口や狭い台所には、アルミ枠が何枚も重なり、おまけに微かに溶剤の匂いも漂っていて、戦後の日本を支えた家内制手工業の雰囲気そのものだ。
⾧髪だったけど、疑いは晴れた。刑事のヨミは外れたが、文字にすれば少し伸ばすだけの違いだ。刷り師の脳ミソがくすぐられ、Hangerの“笑文”(1975年)が生まれた。
今は、ドライラック(金網)に作品を水平に載せて干しているが、当時は、針金に通した洗濯バサミ(クリップ)で紙を吊り下げて乾燥させていた。
シルクスクリーン版画は、刷っては吊るす作業の繰り返し、まさしく、ハンガーなのである。

真夏の夜の刷り「天井桟敷ポスター」。この時、エアコンはまだ無い。
洗濯バサミ(クリップ)は、慣れると数枚まとめて下ろすことが可能だ。
大きな作品の時は、西武新宿線の沿線に住んでいる友人が助太刀に来てくれた。
文字通りの「西友」である。1973年頃

田名網敬一の作品を吊るす、助手(Hanger)の金子さん。当時、芸大院生(鋳金)。
引出しが開いたまま、刷り台には何もセッティングされていない。
頼まれた資料用のヤラセ写真。1974年 撮影・大森信一郎

金子さんが鋳造した、工房の四畳半マークの焼き印。
カルトンケースや画板に印していた。あまり熱すると、煙を上げて焦げてしまう。
慣れるまで、焼き加減・押し加減がムズカシイ。

卒業制作の「りんご」を分けてもらった。
最初は付いていたヘタを紛失、うちの工房は、下手(へた)がない!でいいか。
Hanger
刷り師の一日は、日めくりカレンダーの格言に身をゆだねることから始まります。
『今日できることを明日に延ばすな』 『急いては事をし損ずる』
それは、二律背反、格言のジンマシン。きまって、後者を選んでしまう神変願望の刷り師は、悔恨ザンゲの絆創膏で痛々しくも滑稽なのです。
秀れた版画が、刷り師の手によって生かされるとすれば、その刷り師の陰には幻のHangerが存在するのをご存知ですか。
Hanger 『つり師』、一般には『助手』とも云われますが、その象徴的、かつ悲劇的な仕事である干し役を称して、こう呼ばれます。Hanger が決して表沙汰にならないのは、マントルピースの上に、衣紋掛が置かれたりしてはいけないのと同じ事です。
まず、溶剤が体質に合うかどうかテストされます。仕事場に入っただけでは判明せず、右手にシンナー、左手にターペンを滲み込ませ、それで体調に変化が無ければ、あなたもすぐにHanger 候補です。しかし、チーフHangerは次の条件を満たさなければなりません。
たとえ、シンナーに酔っても乱さぬ理性。ターペンが効いて目に涙をためても決して泣かない我慢強さ、立ち振舞いの軽快さ。当たり散らされても動じない落ち着き。責任転嫁されても渋々でよいから罪を着る寛大さ。刷り師の嫉妬心を呼び起こさない程度の器用さ、愛嬌程度の不器用さ。干しながらミスプリントを見抜く優れた注意力、卓越した審美眼。作家の意図さえも曲げかねない程の美意識。時々は、ミスプリントを一、二枚知っていながら知らない素振りをするジョーク。
これら全てに合格すれば、Hanger からサスペンダーに昇格です。刷り師がズボンで、助手がサスペンダーとは、なんと貧しい想像力でしょう。しかし、肩が凝らないことに越したことはないのです。
Hanger と Printer のギッタンバッコンの延⾧線上に作品の仕上がりを垣間見たら、凝りすぎの刷り師は、表通りの通行人を上目づかいに見ながら出涸らしの番茶をすすっているハンコ屋の職人よろしく、その太くもない腕(かいな)で刷り続ければよいのです。
いま、関係者以外立入禁止の文字厳しい鉄の扉の中の映写技師の手慣れた仕事に接したい好奇心が、休憩時間に満たされたとしても、銀幕の後ろの刷り師は、そっとしておきましょう。その刷り師こそHangerの一次試験で落とされた張本人なのです。
このようにして、絵空事(関根伸夫の新エディション)の刷りは始められる訳ですが、決して他人事では済まされない厳しさが纏わり付いて離れないのはPrinterの宿命です。
―紙はアルシュが適当と思いますがー
(いしだりょういち)
■石田了一(いしだりょういち)
シルクスクリーン刷り師・石田了一工房主宰
1947年北海道根室生まれ、1970 年美學校で岡部徳三氏に師事。
1971年、宇佐美圭司展(南画廊)で発表された<ボカシの 40 版>の版画で工房をスタート。これまでにアンディ・ウォーホル、安藤忠雄、磯崎新、草間彌生、熊谷守一、倉俣史朗、
桑山忠明、五味太郎、 菅井汲、関根伸夫、田名網敬一、寺山修司、鶴田一郎、萩原朔美、
毛綱毅曠、元永定正、脇田愛二郎、脇田和 他 ,
様々なジャンルのアーティストのシルクスクリーン作品を手掛ける。
●連載「刷り師・石田了一の仕事」は毎月3日の更新です。次回は2024年11月3日を予定しています。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は関根伸夫です。
《絵空事―鳥居》
1975年
シルクスクリーン
45.0×35.0cm
Ed. 75
サインあり
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
石田了一さんは亭主の50年来の盟友ですが、やっとブログの連載を引き受けていただきました。
全31回の予定です。
ときの忘れもののブログはたくさんの執筆者で成り立っています。
右列の目次ももう一杯で、いったい何人の方が書かれているのか亭主もわからない。
最近ある執筆者から伺った話です。
その方は引っ越しすることになり、新しい部屋を不動産屋を通じて探し、良い物件が見つかった。
土地柄もあって、審査が通るか心配だったが、不動産屋さん曰く
「お客さんが書いたブログを拝読しました。こういうきちんとした方なら安心です」とあっさり引っ越しが決まったとのこと。
う~む、うちのブログも信用調査に利用されるなんてなかなか捨てたもんじゃないね。
●松本竣介展図録を刊行しました(1,100円+送料250円)。
『松本竣介展』図録
発行:ときの忘れもの
発行日:2024年10月4日
サイズ:25.7×18.2cm
カラー 24P
図版:松本竣介作品13点
執筆:弘中智子、大谷省吾
編集・デザイン:柴田卓
価格:1,100円(税込)
送料:250円
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

石田了一
工房が中野(沼袋)時代、近くで殺人事件があり、刑事がやって来た。
いわゆる聞き込み捜査というものらしい。
たまたま、開いていたアパートのドアから中を覗き込み、
「仕事は何やっているの?」
「版画作っています」
「あぁ、ハンガーね」と、意外とあっさり納得した様子に、こちらは拍子抜けした。
アパートの玄関口や狭い台所には、アルミ枠が何枚も重なり、おまけに微かに溶剤の匂いも漂っていて、戦後の日本を支えた家内制手工業の雰囲気そのものだ。
⾧髪だったけど、疑いは晴れた。刑事のヨミは外れたが、文字にすれば少し伸ばすだけの違いだ。刷り師の脳ミソがくすぐられ、Hangerの“笑文”(1975年)が生まれた。
今は、ドライラック(金網)に作品を水平に載せて干しているが、当時は、針金に通した洗濯バサミ(クリップ)で紙を吊り下げて乾燥させていた。
シルクスクリーン版画は、刷っては吊るす作業の繰り返し、まさしく、ハンガーなのである。

真夏の夜の刷り「天井桟敷ポスター」。この時、エアコンはまだ無い。
洗濯バサミ(クリップ)は、慣れると数枚まとめて下ろすことが可能だ。
大きな作品の時は、西武新宿線の沿線に住んでいる友人が助太刀に来てくれた。
文字通りの「西友」である。1973年頃

田名網敬一の作品を吊るす、助手(Hanger)の金子さん。当時、芸大院生(鋳金)。
引出しが開いたまま、刷り台には何もセッティングされていない。
頼まれた資料用のヤラセ写真。1974年 撮影・大森信一郎

金子さんが鋳造した、工房の四畳半マークの焼き印。
カルトンケースや画板に印していた。あまり熱すると、煙を上げて焦げてしまう。
慣れるまで、焼き加減・押し加減がムズカシイ。

卒業制作の「りんご」を分けてもらった。
最初は付いていたヘタを紛失、うちの工房は、下手(へた)がない!でいいか。
Hanger
刷り師の一日は、日めくりカレンダーの格言に身をゆだねることから始まります。
『今日できることを明日に延ばすな』 『急いては事をし損ずる』
それは、二律背反、格言のジンマシン。きまって、後者を選んでしまう神変願望の刷り師は、悔恨ザンゲの絆創膏で痛々しくも滑稽なのです。
秀れた版画が、刷り師の手によって生かされるとすれば、その刷り師の陰には幻のHangerが存在するのをご存知ですか。
Hanger 『つり師』、一般には『助手』とも云われますが、その象徴的、かつ悲劇的な仕事である干し役を称して、こう呼ばれます。Hanger が決して表沙汰にならないのは、マントルピースの上に、衣紋掛が置かれたりしてはいけないのと同じ事です。
まず、溶剤が体質に合うかどうかテストされます。仕事場に入っただけでは判明せず、右手にシンナー、左手にターペンを滲み込ませ、それで体調に変化が無ければ、あなたもすぐにHanger 候補です。しかし、チーフHangerは次の条件を満たさなければなりません。
たとえ、シンナーに酔っても乱さぬ理性。ターペンが効いて目に涙をためても決して泣かない我慢強さ、立ち振舞いの軽快さ。当たり散らされても動じない落ち着き。責任転嫁されても渋々でよいから罪を着る寛大さ。刷り師の嫉妬心を呼び起こさない程度の器用さ、愛嬌程度の不器用さ。干しながらミスプリントを見抜く優れた注意力、卓越した審美眼。作家の意図さえも曲げかねない程の美意識。時々は、ミスプリントを一、二枚知っていながら知らない素振りをするジョーク。
これら全てに合格すれば、Hanger からサスペンダーに昇格です。刷り師がズボンで、助手がサスペンダーとは、なんと貧しい想像力でしょう。しかし、肩が凝らないことに越したことはないのです。
Hanger と Printer のギッタンバッコンの延⾧線上に作品の仕上がりを垣間見たら、凝りすぎの刷り師は、表通りの通行人を上目づかいに見ながら出涸らしの番茶をすすっているハンコ屋の職人よろしく、その太くもない腕(かいな)で刷り続ければよいのです。
いま、関係者以外立入禁止の文字厳しい鉄の扉の中の映写技師の手慣れた仕事に接したい好奇心が、休憩時間に満たされたとしても、銀幕の後ろの刷り師は、そっとしておきましょう。その刷り師こそHangerの一次試験で落とされた張本人なのです。
このようにして、絵空事(関根伸夫の新エディション)の刷りは始められる訳ですが、決して他人事では済まされない厳しさが纏わり付いて離れないのはPrinterの宿命です。
―紙はアルシュが適当と思いますがー
1975 年6月 版画センターニュース
(いしだりょういち)
■石田了一(いしだりょういち)
シルクスクリーン刷り師・石田了一工房主宰
1947年北海道根室生まれ、1970 年美學校で岡部徳三氏に師事。
1971年、宇佐美圭司展(南画廊)で発表された<ボカシの 40 版>の版画で工房をスタート。これまでにアンディ・ウォーホル、安藤忠雄、磯崎新、草間彌生、熊谷守一、倉俣史朗、
桑山忠明、五味太郎、 菅井汲、関根伸夫、田名網敬一、寺山修司、鶴田一郎、萩原朔美、
毛綱毅曠、元永定正、脇田愛二郎、脇田和 他 ,
様々なジャンルのアーティストのシルクスクリーン作品を手掛ける。
●連載「刷り師・石田了一の仕事」は毎月3日の更新です。次回は2024年11月3日を予定しています。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は関根伸夫です。
《絵空事―鳥居》1975年
シルクスクリーン
45.0×35.0cm
Ed. 75
サインあり
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
*画廊亭主敬白
石田了一さんは亭主の50年来の盟友ですが、やっとブログの連載を引き受けていただきました。
全31回の予定です。
ときの忘れもののブログはたくさんの執筆者で成り立っています。
右列の目次ももう一杯で、いったい何人の方が書かれているのか亭主もわからない。
最近ある執筆者から伺った話です。
その方は引っ越しすることになり、新しい部屋を不動産屋を通じて探し、良い物件が見つかった。
土地柄もあって、審査が通るか心配だったが、不動産屋さん曰く
「お客さんが書いたブログを拝読しました。こういうきちんとした方なら安心です」とあっさり引っ越しが決まったとのこと。
う~む、うちのブログも信用調査に利用されるなんてなかなか捨てたもんじゃないね。
●松本竣介展図録を刊行しました(1,100円+送料250円)。
『松本竣介展』図録発行:ときの忘れもの
発行日:2024年10月4日
サイズ:25.7×18.2cm
カラー 24P
図版:松本竣介作品13点
執筆:弘中智子、大谷省吾
編集・デザイン:柴田卓
価格:1,100円(税込)
送料:250円
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

コメント