北千住 — 日光道中宿場町の残映(前編)
文・写真 平嶋彰彦
北千住は1987年の『続・昭和二十年東京地図』の取材で歩いたことがある。『戦災焼失地図』をみると、旧日光街道に沿って、隅田川河畔の千住河原町から千住1丁目までは空襲で焼かれているが、2丁目から5丁目まで被害をうけていない(註1)。そのせいかと思われるが、戦前の建築とみられる商家の店舗や一戸建ての家または集合住宅などがそこかしこに残っていた。
私にとって北千住は、いつか住んでみたいお気に入りの街の一つだった。その北千住を、今年(2025年)の4月、いつもの仲間たちと街歩きをした。
写真を整理したあと、ハードディスクを検索し、2010年2月と2014年9月の撮影画像を探しだした。時が移れば、街並みは大なり小なり変わる。いまも健在なものもあれば、もはや存在しないものもある。あたりまえのことだと分かっていても、なんとなく気分が落ち着かないのはどういうわけだろうか。
そんなことから、2010年2月の画像を中心に、2014年9月と今年4月の画像をつけ加え、北千住という街の在りし日の佇まいとその後の変貌のありさまを整理してみた。

ph1 千住大橋。隅田川に架かり、国道4号線(日光街道)の南千住と千住橋戸町を連絡する。江戸時代には200メートルほど上流に架かっていたという。2010.2.5

ph2 京成本線千住大橋駅前。小さな青物市場。佐倉からやってきた行商の女性と常連の顧客。千住橋戸町11。2010.2.8
北千住というのは行政地名ではなく、俗称である。大雑把には、北千住駅を中心に新旧の日光街道に沿った隅田川から荒川までの地域をいう。
千住を『精選版日本国語大辞典』で引くと、「江戸時代は奥州街道最初の宿場町として、遊女も多く繁栄した。現在は商工業の中心地」と解説している(註2)。『新編武蔵風土記稿』は、もう少し詳しく、こんなふうに書いている(註3)。
千住宿は郡の東方荒川を隔てゝ豊島郡に跨れり、千住五ケ町及び掃部宿・豊島郡小塚原町・中村町を合せて一宿とし、すべて千住宿と号せり、(中略)此宿野州・日光・奥州・常州への海道の第一にして、江戸日本橋より二里隔て、
「郡」は足立郡で、現在地名では足立区。「荒川」は隅田川。「豊島郡」は荒川区。「千住五ケ町」は千住1丁目から5丁目のこと。千住宿はもとこの5町で発足したが、のちに「掃部宿」と「小塚原・中村町」を加えて、千住宿と総称するようになった、というのである(註4)。「掃部宿」は現在の千住仲町で、北側は千住1丁目に隣接する(註5)。「小塚原・中村町」は、現在の南千住1-2丁目および4-7丁目。隅田川(千住大橋)を隔てた南側になる(註6)。

ph5 旧日光街道。瓦葺き木造二階建ての石鍋商店。女性向けの洋服を店先にならべている。元は呉服店だったという。現在は店を閉じている。千住3-62。2010.2.8

ph6 旧日光街道。伝馬屋敷の面影を今に伝える横山家住宅。地漉紙問屋で、かたわら伝馬役を務めたという。千住4-28-1。2010.2.8

ph7 旧日光街道。かどや(槍かけだんご)。建替え前の旧店舗。店名は水戸光圀が入府のさい、近くにあった清亮寺の松に槍を立てかけた故事に因むとか。千住5-5-10。2010.2.8
2010年2月の撮影メモをみると、「8日。5日の続き。京成千住大橋駅で下車。旧日光街道に沿った千住宿界隈を歩いてまわる」とある。「続き」というのは、南千住を旧日光街道沿いに歩いたその続きの意味で、2月5日の最後に撮影したのが千住大橋だった(ph1)。
京成千住大橋駅の改札を出ると、担ぎ屋のおばさんが店を開くところで、周りを常連と思われる女性たちがとり囲んでいた(ph2)。カメラをとり出すと、撮るのはかまわないが、許可をもらっていないから、正面から撮らないでほしいという。
はなしを聞くと、家は佐倉で農家を営み、ここには月曜日と金曜日の週2回やって来る。この日に持ってきたのは、トマト・キュウリ・ホウレンソウなど朝採りの野菜とタクワン・白菜づけなど自家製の漬物、そのほかダンゴやクサモチといった和菓子の類だが、2時間もすれば売り切れてしまう。むかしと違って、行商をする人はめっきり少なくなった。それでも京成電鉄には、毎朝一輛だけ、行商の大きな荷物を持ちこめる専用電車があるという。
あれからずいぶん時間がたっている。いまはどうなっているのか、調べてみると、京成の行商専用車輛は、2013年3月に廃止されていた。(註7)。

ph8 旧日光街道西側。赤門寺の別称がある勝専寺の門前。坂本石材店。年季の入った木造平屋建ての建物。千住2-35。2010.2.8

ph9 旧日光街道西側の路地。古びた木造建築の家屋がならぶ。左手前に稲荷社。右手前の塀の上にはネコ除けのペットボトル。千住3-47(左)、43(右)。2010.2.17
千住大橋駅は国道4号に面していて、100メートルほど南側で旧日光街道と分岐する。そこに水産物専門の足立市場がある。市場ができたのは天正年間(1573~92)とも享保年間(1716~36)ともいわれる。かつては川魚・青物・米穀と手広く取り扱っていて、なかでも青物については、神田・駒込とならぶ江戸三大青物市場の一つに数えられた。1979(昭和54)年、青果部門を北足立市場(足立区入谷)として分立させ、それ以降は水産物専門の市場になった(註8)。
市場をのぞいてみると、10時を過ぎていたから、とっくに競りは終わっていた。人影もまばらで、後片づけをしている店も多かった。そんな市場の一画で、一人もくもくとマグロを捌いている職人さんがいたので、写真をとらせてもらった。よくよく見わたせば、小売か仲買か分からないが、女性も何人か目に入る(ph3、ph4)。行商は青物ばかりではない。むかしは魚の行商人にも女性が多かった。

ph10 旧日光街道東側。救急車の入れない路地。担架で患者を搬送する。千住仲町26。2010.2.8

ph11 旧日光街道東側の路地。塀のうえにネコ。路地裏の天国。千住仲町25。2010.2.8

ph12 旧日光街道西側の路地。本瓦葺きの木造二階建ての民家。玄関の波風や板壁・二階窓の手すりがなつかしい。右隣は旅館福水。千住3-52。2010.2.17
千住1丁目の裏通りで西洋建築の歯科医院をみつけた(ph13)。森鴎外の旧居として知られる橘井堂医院跡のすぐ近くである。2階部分は近年の改築だが、玄関や1階部分の洒落たデザインから、戦前の建築と推測される。写真を撮っていると、通りがかりの人から、声をかけられた。わけをはなすと、遊女の供養塔は撮ったかと聞く。
このすぐ先に金蔵寺という寺があって、そこに飯盛り女の霊を弔う供養塔が建っているという(ph18)。こちらが何も知らないとわかると、千住宿にあった遊郭が大正のころに千住柳町に強制移転したことまで教えてくれた(ph20、ph21)。
先に述べたように、国語辞典が「遊女も多く」と書くぐらいだから、その繁盛ぶりは世間周知の評判だったのである。そこで『徳川制度』を調べると、千住宿の食売女(めしもりおんな)への次のような言及がある(註9)。
千住掃部宿と小塚原に売女の許可ありしは、寛文四(1664)年二月にて、板橋宿と同じ。この地大橋の南は小塚原にて、ここ十四軒、北は掃部宿にて里俗大千住と称し、大小見世合せて三十二軒ありたり。
「千住掃部宿」は既述のように現在の千住仲町。「小塚原」は現在の南千住。「板橋宿」は江戸四宿(品川・板橋・新宿・千住)の一つで、日本橋から中山道を歩いて最初の宿。千住宿の食売旅籠は南千住と千住仲町に都合46軒あり、そのうちの32軒が千住仲町にあったというのである。

ph13 市川歯科医院。戦前に建てられたと思われる洋風建築。敷石の並ぶ路地の奥に木造アパートがならぶ。千住1-27-10。2010.2.8

ph14 大橋眼科医院。1917(大正6)年築の旧医院の雰囲気を残し、1980(昭和55)年に建て替えた建物。北千住のランドマークの1つ。同医院は2021年に閉院し、取壊しが憂慮されたが、千住大橋付近に移築再建されることになった。千住3-31。2010.2.8

ph15 骨接ぎの代名詞ともなった名倉医院。1770(明和7)年の創業。診療室や長屋門など江戸時代の建物がほぼそのまま残されている。周辺には患者のための宿屋が5軒もあったという。千住5-22-1。2010.2.17
このとき(2010年2月)の街歩きは私一人で、時間もたっぷりあったので、北千住の名所旧跡とも称すべき建築物を、軒なみ撮ってまわった。今回掲載した石鍋商店(ph5)・横山家住宅(ph6)・槍かけだんご(ph7)・大橋眼科(ph14)・名倉医院(ph15)・大黒湯(ph16)・NTT東日本千住ビル(ph17)などがそれである。
15年後のいま、横山家住宅・名倉医院・NTT東日本千住ビルは、相変わらず健在であるが、大橋眼科と大黒湯は取り壊されてなくなっていた。
大橋眼科は千住3丁目の旧日光街道と併行する一つ西側の通りにあった(ph14)。いかにも古めかしいデザインの建物で、思わず目を奪われるが、意外にも、建てられたのは1980(昭和55)年と新しい。三角屋根のお医者さんと呼ばれた旧館の建て替えである。再建にあたっては、都内で建築物が取り壊されると、廃品となった材料や装飾を譲ってもらい、建物の随所に再利用した。大橋眼科は2021年に閉院し、2022年に建物は取り壊された。しかし、北千住のランドマークともなっていた名物建物を惜しむ地元の人たちの保存運動により、千住大橋近くに移築されることになった。来年(2026年)5月には完成予定だという(註10)。
大黒湯は、関東大震災のあと、1929(昭和4)年に建造された(ph16)。唐破風屋根とその下部に設えた三段構えの千鳥破風屋根の豪華さからキングオブ銭湯とも称された(註11)。
大黒湯は2021年6月というから、大橋眼科と同じ年に、閉店した。写真はそれより11年前の撮影になる。正面の駐輪場には自転車がずらりとならんでいて、繁盛しているようにみえる。しかし自転車が多いのは、利用客の多くが遠方からやってきていることを意味する。周りをみれば、再開発が進んでいることが分かる。手前の低層住宅の人たちもその奥に立ちならぶ中層のマンションの人たちも、いまや銭湯を必要としないのである。
大黒湯は関東大震災からの復興の願いが込められたもので、あの時代にしか建てられなかった文化財である。なんとか残せないものか。千住の古刹として知られる安養院住職の英断から保存運動が起こり、地元の人たちを中心にした支援活動により、閉店から1年後の2022年9月、大黒湯の象徴であった唐破風屋根は、安養院の境内に移築・保存されることになった(註12)。なんとか残せないものかというなら、瓦葺き木造二階建ての石鍋商店が店を閉じていた(ph5)。大正のころの建築らしい。二階の格子窓、瓦葺きの庇、銅造りの雨樋が素晴らしい。婦人物の洋服を店先にならべているが、もとは呉服屋だったという。店内をのぞくと、奥が座敷になっていて、来客の女性と店の人がお茶を飲みながら歓談していた。日本建築の店舗と洋装の婦人服の取合せは、どうみても釣り合いがとれず、無理がある気がした。しかし、北千住の商店街というと、なぜだか分からないが、真っ先に思い浮ぶのがこの洋服店の佇まいなのである。

ph16 大黒湯。玄関の屋根は曲線の唐破風と三角形の千鳥破風の二重構造。さらに建物全体を覆う屋根が被さる。江戸時代に流行した寺社建築の様式で、1929年の築造。2021年に営業を停止したが、千鳥破風の屋根は近くの安養院に移築・保存された。千住寿町32-6。2010.2.17

ph17 NTT東日本千住ビル(旧千住郵便局電話事務室)。1929年の竣工。設計は聖橋や永代橋で知られる山田守。千住中居町15-1。2014.9.20
註1 『戦災焼失地区表示 コンサイス東京都35区分地図帖』(日地出版、1985)
註2 『精選版日本国語大辞典』「千住」(小学館)
註3 『大日本地誌大系 ⑬ 新編武差風土記稿 第七巻』「巻百丗六 千住宿」(雄山閣、1996)
註4 『改訂新版 世界大百科事典』「千住」(平凡社)
註5 「千葉さなと千住中組の千葉灸治院」「用語解説」千葉さなと千住中組の千葉灸治院|足立区
註6 『改訂新版 世界大百科事典』「千住」
註7 総武線に大荷物を背負ったおばちゃん軍団が!「行商列車」はこんなに賑わっていた | AERA DIGITAL(アエラデジタル)
註8 足立市場のご紹介|各市場のご紹介|東京都中央卸売市場
註9 『徳川制度(中)』「四宿の食売女」(岩波文庫、2015)
註10 1億円かかっても残したい眼科 「移築を」大手不動産に直談判したら [東京都]:朝日新聞 。足立朝日» Blog Archive » 「大橋眼科」の洋館 移築先決定 千住大橋近くの㈱ニッピ所有地
註11 千住のキング・オブ・銭湯「大黒湯」、本日90年の歴史に幕 – 北千住経済新聞
註12 【あだちから新聞インタビュー】「大黒湯の屋根を移築し千住の魅力をつなぐ」安養院|足立区
(ひらしま あきひこ)
・ 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき 次回は「北千住 — 日光道中宿場町の残映[後編]」。少し先になりますが11月14日の掲載予定です。
■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。
●7月11日のブログで「中村哲医師とペシャワール会支援7月頒布会」を開催しています。

今月の支援頒布作品は菅井汲、井上公三、靉嘔、吉原英雄、竹田鎮三郎です。
皆様のご参加とご支援をお願いします。
申し込み締め切りは7月20日19時です。
●ときの忘れものの建築空間(阿部勤 設計)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info[at]tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。



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