北千住 — 日光道中宿場町の残映(後編)

文・写真 平嶋彰彦

 かどやの槍かけだんごは、一昨年の写真展「東京ラビリンス/カラー2009~2023」で展示した一枚である(ph7。註13)。もとは足袋屋だったという明治の店舗は建て替えられ、いまは存在しない。新築された建物をみれば、商売繁盛でめでたいことだと思うが、街歩きの無責任な趣味からすると、なんとなく惜しい気がしてならない。
 「槍かけだんご」の「槍かけ」は、旧水戸街道の清亮寺門前にあった「槍かけの松」の省略形である。言い伝えによれば、水戸光圀(黄門)が江戸入府のとき、この松の老木の枝に槍を立てかけ、休憩をとった。その故事から、この松は槍かけの松と呼ばれるようになり、やがて千住宿を代表する名所旧跡の一つになった(註14)。
 かどやの創業は1952(昭和27)年だというが、1945年ごろには槍かけの松は枯れてしまっていたらしい(註15)。かどやと槍かけの松とは300メートル余り離れている。両者には歴史的にも地理的にもとくに関係は見いだせない。
 槍かけの松といえば千住というように、槍かけの松は千住の代名詞になっていた。それにくわえて、枯れてしまったことを惜しむ声も少なくなかったに違いない。勝手な憶測を続ければ、ふつうなら「千住名物かどやのだんご」とでも名付けるところを、「かどやの槍かけだんご」というふうに文学的で粋な飛躍をしてみせたのである。


ph18 金蔵寺(真言宗豊山派)。(右から)天保大飢饉の餓死者のための無縁塔、  地蔵菩薩立像をおいて、千住宿遊女の供養塔。千住2-63。2010.2.8


ph19 JR北千住駅近くの千路通り。旧国鉄時代の貨物線路跡。道路左側は千住旭町。右側は千住2丁目で、千住遊女の亡魂を供養する金蔵寺に隣接する。2014.9.20


ph20 大正通り。西掃部堀跡。荒川放水路(現在の荒川)の完成で不要となり、道路にした。1916年の完成。交差点を右折するとおおもん通り。1919年、千住遊郭が柳新地(現在の千住柳町)に移転してきた。千住柳町6。2025.4.25


ph21  おおもん通り。千住大門商店街。双子鮨。隣の花屋は現在、クレープ店に変わっている。千住龍田町16-7。通りの向かいは千住柳町。1957年に売春防止法が施行されるまでは、この近くに千住遊郭があった。2010.2.8

 旧日光街道の千住3丁目に、江戸時代の千住宿の面影を伝える横山家住宅が残されている(ph6)。江戸時代から続く地漉紙問屋で、再生紙を取り扱っていた。その傍ら、人や物資の輸送のための伝馬の役目を務めた。重厚な桟瓦葺き木造二階建ての建物は伝馬屋敷とも呼ばれる(註16)。
 その向いに千住絵馬で知られる吉田屋がある(ph22)。
 江戸時代中頃に創業したいわゆる際物問屋で、千住宿内や周辺農村に向け、絵馬をはじめ地口行燈や凧などを製作してきた。千住絵馬の特徴は、縁取りした経木に、胡粉と鮮やかな色取りの泥絵具を用い、手書きで描く素朴な感触にある。図柄は、安産子育・病気平癒・商売繁盛など祈願の内容や、祈願を仰ぐ神仏により決まっていて、その数は三十種類とも四十種類ともいわれる(註17)。


ph22 吉田絵馬屋。江戸時代から千住宿や近隣農村に向け、絵馬をはじめ地口行灯や凧などを製作してきた。千住4-15-8。2010.2.17


ph23 長円寺。門前のめやみ地蔵尊。手前にあるのは輪廻車(後生車)。車輪を先へ回すと来世の、手前へ回すと現世の利益が得られるとか。千住4-27-5。2010.2.17


ph24 長円寺。めやみ地蔵の奉納絵馬。めやみ地蔵・向かい目・祈願する女性の三種の図柄。千住絵馬屋吉田家の製作。目の病ばかりでなく、健康全般・家内繁盛などを願う。千住4-27-5。2010.2.17

 千住絵馬の庶民信仰はいまもなお生きている。吉田屋の斜め向かいに、旧日光街道から東へ折れる横丁がある。つきあたりに長円寺(新義真言宗)という古刹があり、門前のめやみ地蔵堂と境内の魚籃観音堂に千住絵馬が奉納されている(ph23~ph25)。
 めやみ地蔵に奉納されている絵馬の図柄は、めやみ地蔵・向い目・手を合わせて祈る女性の三種類。大半は文字が書かれていないが、書かれたものをみれば、病気平癒・健康祈願・家内安全・合格祈願・諸願成就などとあり、祈願内容は何でもありの感じがする。
 お堂の手前に立つ木製の柱は後生車(輪廻車)と呼ばれる。願い事を唱えながら、柱に取りつけた車を、上にまわすとあの世でのご利益、下へまわすとこの世でのご利益があるということである(註18)。
 山門をくぐると、左手に魚籃観音堂があり、女性が扉を開けて参拝するところだった。鍵が掛かっていないのである。堂内には金色の厨子に納めた石造魚籃観音像が祀られ、厨子の手前には奉納された千住絵馬がならんでいる。絵馬の図柄は、手を合わせて祈る女性の一種類のみ。ということは、女性が信仰の主体だったことをうかがわせる。
 絵馬について調べてみると、神奈川県の例になるが、赤子を抱いた女性を描いた絵馬や、乳のほとばしる女性の姿を描いた絵馬がある(註19)。見比べると、構図はほとんど同じである。手を合わせて祈る女性の絵馬も、安産や子育ての無事を祈るのが本来の目的ではなかったかと考えられる。
 魚籃観音は三十三観音の一つ。魚籃は魚を入れたかごで、これを手にさげている。大魚に乗っている像もあるらしい。羅刹・毒龍の害を除く功徳があるとされる。羅刹は人をたぶらかし、血肉を食う悪鬼。毒龍は毒気のある龍、または祟りをなす怪物とか(註21)。だとすれば、魚籃観音の功徳にすがり、女性にとって一大事である出産や子育ての無事を妨げる障害を取り除いてもらうのである。
 長円寺の魚籃観音像は、明治の神仏分離までは、隣接する氷川神社に祀られていた。『新編武蔵風土記稿』には氷川神社の創建縁起が次のように記されている(註20)。

〇氷川社 町の鎮守なり、魚籃の観音を神體とす、これは昔回國の行者持来り、境内古松の下に置て去り遂に又来らず、後社を建て氷川に祀ると云。

 江戸時代、長円寺は氷川神社の別当をつとめていた。「回国の行者」とは諸国を廻り歩く一所不住の修行僧とか修験山伏のことをいう。
 『新編武蔵風土記稿』の記事を、思いつくままに膨らませてみれば、次のようになる。
 行者がどのように魚籃観音を持ち歩いたかというなら、おそらく笈に入れて担いだのである。それを松の老木の下に置いたまま立ち去り、遂に戻らなかった。厨子を開けてみれば、妙麗な石造魚籃観音像である。不思議に思っていると、住職の夢に魚籃観音が現れるか、氏子の誰かに神懸かりして、自分を祀ってくれるなら、この地に永く留まり、人々の願いを叶えてあげよう、という旨の託宣をした。そこで、新しく社殿を築造し、町の鎮守(氷川神社)の御神体(祭神)として祀ることにした。というようなことではなかっただろうか。


ph25 長円寺。金色の厨子に納められた石造魚籃観音像。右手に魚籃(魚を入れた籠)を持つ。三十三観音の一つ。厨子の前に、手を合わせて祈る女性の姿を描いた千住絵馬が奉納されている。千住4-27-5。2025.4.25


ph26 長円寺。いまを盛りと咲く庭のボタン。奥は山門。右側に魚籃観音堂があり、左側に八十八ヶ所巡り毛彫石碣群がある。千住4-27-52025.4.25


ph27 長円寺。八十八ヶ所巡り毛彫石碣群。手前は左から青面金剛庚申塔、大日如来像、阿弥陀如来像。画面右奥は大師堂。千住4-27-5。2025.4.25


ph28 長円寺。八十八ヶ所巡り毛彫石碣群。大師堂に祀られた弘法大師座像。右手に独鈷、左手に珠数を持ち、赤子のような微笑みを浮かべている。千住4-27-5。2010.2.17

 魚籃観音堂の反対側、山門を入って右側の境内に、「八十八箇所巡り毛彫石碣」群がある。毛彫は鏨(たがね)を用いて描く細い線の彫刻。石碣は石仏や石塔の意味で、四国八十八箇所巡りを模した小さな霊場のことである。四国までわざわざ赴かなくとも、八十八箇所巡りを居ながらに体験できる擬制の装置なのである。
 入口正面に青面金剛庚申塔、大日如来立像、阿弥陀如来立像の尊像が立ちならび、遍路に沿って板状の不定形な板状の石塔が林立するその八十八箇所巡礼路の奥まったところに大師堂がある(ph27)。
 長円寺を見終わって、次の散策地へむかって歩いていると、街歩きの仲間の一人柏木久育君が「笑っている弘法大師像は珍しい」という。私はうっかり大師堂の内部を見落としていた。しかし、2010年2月にこの寺を訪れたさいには撮った記憶がある。珍しいかどうかはともかく、笑う弘法大師像はなんとなく気になる。ハードディスクを捜すと、大師像の写真が出てきた(ph28)。
 堂内の大師像は結跏趺坐の座像で、右手に独鈷を持ち、左手に珠数を持つ。これは流布された大師像の様式を踏まえたものとみられるが、柏木君の言葉どおり、確かに笑っている。しかし、どうして笑っているのだろうか。それも、なんとも不思議な笑いの表情である。
 よくよく写真をみれば、この大師像の表情は大人の笑い方とはどこかちがう。子どもの笑顔なのである。それも生まれたばかりの赤子に特有なあの微笑みにほかならない。
 四国八十八箇所巡りには、白衣と菅笠、それに笈摺、金剛杖という扮装をする。白衣は死装束であり、菅笠や白装束などに書かれる同行二人の文字は、弘法大師に導かれての意味だとされる。自らを死者と見立て、いったんあの世を巡り、わが身の鎮魂を果たして、即身成仏したあと、もう一度この世に甦ってくるのである。これを民俗学者の五来重は擬死再生儀礼と呼んでいる(註22)。
 境内の説明板には、「八十八ヶ所巡り毛彫石碣」は、芸術の香り高い作品だといい、民俗信仰を知るうえで貴重であるとしているが、笑う弘法大師像についての解説がないのは物足らない(註23)。
 柳田國男に『笑いの本願』という興味深い論考がある。そのなかで、柳田は「笑う」と「笑む」という日本語の違いをこう述べている(註24)。

 ワラフは恐らく割るという語から岐(わかれ)て出たもので、(中略)笑われる相手のある時には不快の感を与えるものときまっている。エムには如何なる場合もそういうことがない。

 そこで、改めて魚籃観音像に目を転じてみたい。画像はクリックすれば拡大される。弘法大師は擬死再生の生まれ変わりを見守り、魚籃観音は出産と子育てを見守ってきた。笑みは仏教で説くところの慈悲の形象化ということだったのではないだろうか。よくよく見れば、この魚籃観音像もやはり弘法大師像と同じように、穏やかで物静かな笑みを浮かべているように思われてならないのである。

註13 「平嶋彰彦写真展」出品作品のご紹介 11月17日(金)~11月25日(土) : ギャラリー ときの忘れもの
註14 槍かけ松|足立区
註15 #26 かどやの槍かけだんご@北千住|下関マグロ|さんぽ作家かどやの槍かけだんご(東京都足立区) | Get Ahead! -Aheadの趣味的生活- 。現地説明版「槍掛けの松(久栄山 清亮寺)」(足立区教育委員会、2005)
註16 現地説明版「横山家住宅」(足立区教育委員会、2019)
註17 現地説明版「絵馬屋・吉田家」(足立区教育委員会、1992)
註18 長円寺 | NPO法人 千住文化普及会
註19 小絵馬 | 神奈川県立歴史博物館
註20 『大日本地誌大系 ⑬ 新編武差風土記稿 第七巻』「巻百丗六 千住宿」
註21 『精選版日本国語大辞典』「魚籃観音」「羅刹」「毒龍」(小学館)
註22 『日本歴史地名大系39愛媛県の地名』「総論 四国八十八カ所」(平凡社、1980)。『遊行と巡礼』「第一章 歩く宗教」「第四章 四国遍路と辺路信仰」(五来重、角川選書1989)
註23 現地説明版「長円寺」(足立区教育委員会、2019)
註24 『笑の本願』「女の咲顔」(柳田國男、『不幸なる芸術・笑いの本願』所収、岩波文庫、1979)

(ひらしま あきひこ)

 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。次回の予定は2026年1月14日です。

■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。

●11月11日のブログで中村哲医師とペシャワール会支援11月頒布会」を開催しています。
今月の支援頒布作品は宮脇愛子と前田常作です。
皆様のご参加とご支援をお願いします。
申し込み締め切りは11月20日19時です。

西田考作さんを偲んで、西田画廊旧蔵ポスター展
会期:2025年11月5日(水)~15日(土) *日曜・月曜・祝日は休廊
会場:ときの忘れもの
今から40数年前、1982年1月24日に古都奈良に先鋭的な現代美術の画廊がオープンしました。
堀内正和・磯崎新展」でスタートした西田画廊とオーナー西田考作さんについてご紹介します。
西田考作さんは奈良の旧家に生まれ育ち、自営業の傍ら、焔仁、森村泰昌、小川信治、トニ―・クラッグなど当時ほとんど知られていなかった作家たちの才能に注目し、買い集めたコレクションをもとに画廊開設を思いたったようです。
現代美術の市場が成熟していない関西にあってその独自な視点は嘱目に値するものでした。
画廊経営には苦労なさったと思いますが、やがて病に倒れ、2023年9月12日に亡くなられました。
今回、縁あって入手した西田さん旧蔵のポスター類を展示、頒布することになりました。
ぜひご高覧の上、皆さんのコレクションに加えていただけたらと思います。
出品作品:荒木経惟、磯崎新、大竹伸朗、加納光於、桑原甲子雄、田名網敬一、福田繁雄、森村泰昌、
アンディ・ウォーホル、トニ―・クラッグ、パウル・クレー、アドルフ・ゴットリーブ、
フランク・ステラ、セバスチャン、サム・フランシス、ヨーゼフ・ボイス、
ジャクソン・ポロック、ロバート・ラウシェンバーグ、マーク・ロスコ、ジョアン・ミロ、他
*生前の西田考作さんの開廊直前インタビュー(1982年)を11月6日ブログに掲載しました。
*2013年に西田考作さんが執筆した「殿敷侃さんのこと」もお読みください。
坂上しのぶさんの論考「バイヤーズと西田考作」を11月12日と、13日の二回にわけて掲載します。

●ときの忘れものの建築空間(阿部勤 設計)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。