2026.1.14

平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その39

芝公園 — 増上寺山門の自警団

文・写真 平嶋彰彦

 都営大江戸線の赤羽駅から地上に出ると、交差点の向うに東京タワーが聳え立つ(ph1)。昨年11月、大学時代の旧友たちと続けている街歩きの138回目。
 大学時代に、金杉橋の洋服仕立店に間借りして1年ほど、そこから引越して、旧芝浦遊郭のすぐ近くの木造アパートに2年ほど住んだ。どちらからも赤羽橋まではいくらの距離もない。なつかしいといえばなつかしいのだが、東京タワーのほか記憶にあるものはほとんど見つからない。


ph1 赤羽橋交差点から東京タワーをみる。右は国道1号(桜田通り)。2025.11.6  


ph2 東京タワー。外国人観光客も多く訪れる。芝公園4-4付近。2025.11.6 


ph3 東京タワーのメインデッキから。正面は麻布台ヒルズ森JPタワー。かつて我善坊谷があったあたり。2025.11.6


ph4 東京タワーのメインデッキから。左手前は増上寺。正面奥はJR浜松町駅から田町駅にかけてのビル群。その奥に、東京港とレインボーブリッジ。2025.11.6


ph5 東京タワーの完成は1958年。高さ333mで、エッフェル塔よりも9m高く、そのころは世界一だった。芝公園4-52025.11.6

 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に建設中の東京タワーが出てくる(註1)。東京タワーができたのは1958(昭和33)年。私が小学6年生のときだった。続編では完成した東京タワーをゴジラが二つ折に破壊してしまう(註2)。もちろん事実ではない。三丁目で駄菓子屋を営むかたわら、芥川賞をめざす文学青年がいる。彼が構想中の小説の一場面である。
 『ALWAYS三丁目の夕日』には、さらに3作目がある(註3)。時は移り変わり、東京オリンピックのあった1964年。その開会式の最中、都心の上空に自衛隊のブルーインパルスが五輪の輪を描く。三丁目の誰もが、テレビから目を離し、表に出て空を見上げる。駄菓子屋の向かいに小さな自動車修理工場がある。その社長が大空を見上げていう台詞がなんともふるっている。

 このあたり、全部焼け野原だったんだぞ。喰うもんも何もなくて、それがどうだい、ビルヂングがどんどん出来て、世界一の東京タワーが出来て、とうとうオリンピックだぞ!

 修理工場の社長には息子がいて、大学受験が差し迫っているのに、エレキギターに夢中になっている。ビートルズを初めて聴いたのは高校2年のときだった。たぶん、この馬鹿息子と私は同い年か1年違いなのである。オリンピックの翌年、私は南房総の片田舎から上京し、大学に進学した。親の心子知らずという点では、私も彼と大同小異で、入学して半年もたたないうちに、大学がつまらなくなり、授業をさぼるようになった。
 「三丁目」は架空の下町である。麻布か愛宕あたりの想定かとみられるが、私の住んだ金杉橋や芝浦にも似かよった横丁や裏通りがあった。ふと思って空を見上げる。いつもそこに東京タワーがあったのである。
 東京タワーのメインデッキに立つと、北西方向に一昨年できた麻布台ヒルズ森タワーが見える(ph3)。いまは跡形もないが、かつては麻布特有の起伏に富んだ丘陵の一画に我善坊谷がひっそりと佇んでいた。連載その30にも書いたが、我善坊は龕前堂(火葬場の式場)の転訛で、2代将軍秀忠の正室お江の方を荼毘にふしたところだという(註4)。
 反対側にまわると、直下に増上寺の本殿(大殿)(ph4)。国の重要文化財に指定されている山門は、保存修理の工事中で、そのための仮屋に囲われている。はるか彼方に東京港とレインボーブリッジ。私の住んだ金杉橋と芝浦はその中間になるが、高層ビルに遮られて確認できない。


ph6 増上寺。千体地蔵の焼香台。地蔵の建立は1970年代から。現在、約1300体がならぶ。芝公園4-7-352025.11.6


ph7 増上寺。千体地蔵。毎年4月第3日曜日に大法会が催される。芝公園4-7-352025.11.6


ph8 増上寺。徳川将軍家墓所の鋳抜門。もとは6代将軍家宣の墓前にあった中門。戦災からの復興する過程で、将軍家墓所の入口となった。芝公園4-7-35。。2025.11.6


ph9 増上寺。徳川将軍家墓所の内部。2代秀忠をはじめに6人の将軍とその夫人などの墓所になっている。芝公園4-7-352010.11.30


ph10 芝東照宮。明治の神仏分離までは増上寺の境内だった。旧社殿は東京大空襲で焼失。現在の社殿は1969年に再建された。芝公園4-8-102016.7.28

 増上寺の山門は三解脱門が正式名称である(ph12)。三解脱門とは、増上寺のHPを読むと、煩悩から解脱した覚りを開くための三種の修行「空門」「無相門」「無願門」のこと。この門をくぐると、「むさぼり、いかり、おろかさ」といった煩悩から解脱した「極楽浄土」への往生を願う空間が広がる、と解説している(註5)。
 100年余り前になるが、1923(大正12)年91日、関東大震災が発生した。その3日後、民俗学者で詩人の折口信夫(釈迢空)が、増上寺山門(三解脱門)のあたりで、抜刀した自警団にとり囲まれるという、この門の由緒にそぐわない出来事があった。
 92日、東京とその周辺地域に戒厳令が施行される一方で、「不逞朝鮮人」が暴動を画策しているとか、あるいは飲み水を汲む井戸に毒薬を撒いてまわっているなどという根も葉もない流言が飛び交っていた。そうした不穏な状況のなかで、折口は流言の「不逞朝鮮人」の一人と疑われたのである。沖縄で一カ月半におよぶ民俗調査を終え、那覇から船に乗り横浜に着いたのが93日。その翌日、東海道をあるいて谷中清水町の自宅へむかう途中の災難だった(註6)。
 次に引用するのは、翌1924年に書いた自由詩「砂けぶり 二」の一節。

  横浜からあるいて 来ました。
  疲れきったからだです……。
  そんなに おどろかさないでください。
  朝鮮人になっちまいたい 気がします

 なぜ折口は「朝鮮人になっちまいたい」と思ったのか。難解なところであるが、おそらく、自分は朝鮮人ではない、日本人であると釈明して、折口は虐殺の難を免れたのである。しかしながら、一般人の臨機応変の行動ならともかく、折口はいやしくも民俗の在り方を研究する学徒の一人である。知識人としてのわが身の行動を恥じるのみならず、自分が日本人であることを恥じたのである。
 戦後のことになるが、折口は『自家自註』(1956)で、このときの出来事を回想し、次のように述べている(註8)。

 自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私を取り囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかな生を楽しむ国びと思つてゐたが、一旦事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に値(あ)つて以来といふものは、此国の、わが心ひく優れた顔の女子達をみても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなつてしまつた。

 「此国の、わが心ひく優れた顔の女子達」云々というのは、天孫降臨におけるアマテラス(天照大神)を念頭においた発言とみられる。『日本書紀』によれば、このとき、アマテラスは孫のニニギ(瓊瓊杵尊)を真床襲衾(マドコオフスマ)で包んでから、天上から地上に降臨させた(註9)。この逸話を甲も乙もない人間の誕生の場面に置き換えれば、ニニギを包んだ真床襲衾という着衣は、母親の胎内で出産をまつ新生児を包む胞衣のことになりはしないか。真床襲衾には人間の生命を愛しみ尊ぶアマテラスの心情が込められている、と折口はみているのである。


ph11 増上寺。正面左が大殿。旧大殿は戦災で焼失、1952年の再建。右は東京タワーで、かつては増上寺の境内だったところ。その右奥は麻布台ヒルズ森JPタワー。芝公園4-7-352025.11.6


ph12 三解脱門。増上寺の中門。保存修理の工事中で、完了予定は7年後。創建当時の面影を残す唯一の建物で、国指定の重要文化財。芝公園4-7-352025.11.6


ph13 大門。増上寺の表門。現在の門は1937年の再建。芝公園2-3地先。2016.10.4


ph14 芝大神宮門前。歴史を感じさせる瓦葺木造二階建ての住宅。芝大門1-12-52016.10.4


ph15 芝大神宮門前。縁起ものの招きネコやタヌキの置物を飾る居酒屋。芝大門1-8-82025.11.6

 折口信夫の『大嘗祭の本義』は1928(昭和3)年の講演記録である(註10)。ちなみにこの年には昭和天皇の即位礼が京都で執り行われている。
 大嘗祭は皇位継承の儀式の一つである。非公開になっていて、不明な点も少なくないとのことだが、祭場となる悠紀・主基殿には褥衾(しとね・ふすま)が用意されるという。それを『日本書紀』に書かれている真床襲衾ではないか、と折口は推論しているのである。

 食国(ヲスクニ)をまつることが天子様の本来の職務で、それを命令したのは天つ神である。古事記・日本紀では此神を天照大神としている。(中略)[天子様は]信仰上では、昔も今も同様で、天つ神の代理者として、此土地を治めておいでになる。此土地をご自分の領土になさる、といふ様な事や、領土拡張の事などは、信仰上では、お考えにならない。

 この引用文の前段では、「食国」というのは、食べるものを作る国というのが原義であり、食(ヲ)すという語から発展して、治(ヲサ)めるという語が出たのだ、と折口は説いている。「食国」を象徴するのが、田の生(ナ)り物としての稲である。
 稲の種子は籾殻で包まれている。稲にかぎらない。植物の種子は総じて殻(皮)に包まれている。動物に目を転じれば、鳥や魚の卵も同じである。種や卵を包む殻とは何かというなら、母親の胎内で新生児を包む胞衣であり、アマテラスがニニギに被せた真床襲衾のことではないかと思われてならない。
 「領土拡張の事」とは、1910(明治43)年に韓国を併合し、さらに中国に触手を伸ばしつつあったわが国の動向を示唆するのは、いうまでもない気がする。関東大震災には「不逞朝鮮人」が何千人も虐殺された。朝鮮人ばかりではなく、中国人も何百人かが犠牲になった。その一方では、大震災の混乱に乗じて、亀井戸では警察に拘引された労働運動家9名が騎兵第13連隊により殺害されるとか、無政府主義者として知られる大杉栄と伊藤野枝が憲兵隊の甘粕大尉らにより暗殺されるという事件が発生している(註11)。関東大震災は大正デモクラシーから軍国主義への転換点で、それより2年後の1925(大正14)年には、治安維持法が施行された。
 いまとは違って、思想と表現の自由がない暗黒時代のことである。奥歯にものの挟まったような物言いに聞えるかもしれないが、戦前の覇権主義的な皇国史観にたいし、折口信夫は危機意識をいだき、警鐘をうち鳴らしていたのである。

1 『ALWAYS 三丁目の夕日』(監督 山崎貴、原作 西岸良平、配給 東宝、2005
2 『ALWAYS 続・三丁目の夕日』(監督 山崎貴、原作 西岸良平、配給 東宝、2007
3 『ALWAYS 三丁目の夕日’64』(監督 山崎貴、原作 西岸良平、配給 東宝、2012
4 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その30 | ブログ | ときの忘れもの
5 『大本山 芝増上寺』「境内散歩」 境内散歩|大本山 増上寺
6 『折口信夫伝—その思想と学問』「十 時代と批評精神」(岡野弘彦、ちくま学芸文庫、2020
7 同上。及び『釈迢空全歌集』「詩拾遺」(折口信夫、岡野弘彦編、角川文庫、2016
8 『折口信夫伝—その思想と学問』「十 時代と批評精神」
9 『日本書記 上』「巻第二 神代下」(日本古典文学大系67、岩波書店、1967
10 『大嘗祭の本義』(『折口信夫全集 第三巻 古代研究(民俗学篇2)』所収、中公文庫、1975
11 『日本の歴史23 大正デモクラシー』「関東大震災」(今井清一、中公文庫、1974)。『改訂新版 世界大百科事典』「関東大震災」関東大震災(カントウダイシンサイ)とは? 意味や使い方 – コトバンク。など

(ひらしま あきひこ)

 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。次回の予定は2026年3月14日です。

■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。
編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞(2005)」を受賞。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を、2023年11月「平嶋彰彦写真展―東京ラビリンス/カラー」(監修:大竹昭子)を開催。

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Tricolore 2026/藤江民・谷川桐子・釣光穂
会期:2026年1月9日(金)―1月24日(土) 11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
2010年から開催しているシリーズ企画「Tricolore展」は、ときの忘れものが選ぶ作家3名の展覧会です。
6回目となる本展は、女性アーティストの藤江民・谷川桐子・釣光穂の作品をご紹介します。
版画家・藤江民は、版画だけなく、オリジナル手法で制作した大作の油絵や、タイルの作品「割絵」などを出品します。
谷川桐子は、油彩で緻密に描いた砂利や地面の上にハイヒールやブラジャーなどを描いた作品を制作しています。
陶芸家・釣光穂は手びねりという陶芸の技法で、まるで編み物で編んだようなオブジェを制作しています。
三者三様のユニークな作品をご覧いください。

◆「綿貫不二夫 12作家の版画制作を語る半世紀 第1回オノサト・トシノブ 聞き手/三上豊」

開催日時:2026年1月24日(土)12時~(要予約)
会場:ときの忘れもの
私たちが現在までにエディションした約1000種類の中から、オノサト・トシノブ、菅井汲、内間安瑆、ジョナス・メカス、元永定正、アンディ・ウォーホル、宮脇愛子、草間彌生、靉嘔、磯崎新、安藤忠雄、関根伸夫の12点を選び、12作家とどうのように関わり、エディション作品をつくってきたかを公開で語ることとなりました。聞き手は現代版画センターを知る編集者の三上豊氏にお願いしました。
毎月1回、第4土曜日の12時から開催します(要予約)。
どなたでも参加できますが、事前予約制とします。
参加費:1,000円(資料代を含む)
参加ご希望の方は、お名前(フルネーム)、ご連絡先(住所)を明記の上、メールにてお申込みください。
会場の都合で(狭いので)定員は5名とします。

オノサト・トシノブ Toshinobu ONOSATO
《Ce 1》

1974年
シルクスクリーン(刷り:岡部徳三)
Image size: 21.8×27.1cm
Sheet size: 28.1×33.2cm
Ed.200  サインあり
*現代版画センターエディションNo.1
*オノサトのレゾネ98番ではタイトルが「G.H.C.5」(Gendai Hanga Centerの略)となっている
(『ONOSATO オノサト・トシノブ版画目録 1958-1989』ART SPACE 1989年刊)
■三上 豊(みかみ ゆたか)
1951年東京都に生まれる。11年間の『美術手帖』編集部勤務をへて、スカイドア、小学館等の美術図書を手掛け、2020年まで和光大学教授。現在フリーの編集者、東京文化財研究所客員研究員。主に日本近現代美術のドキュメンテーションについて研究。『ときわ画廊 1964-1998』、『秋山画廊 1963-1970』、『紙片現代美術史』等を編集・発行。

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●ときの忘れものの建築空間(阿部勤 設計)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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