丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」
その20 パラウ・サン・ジョルディ②
丹下敏明
パラウの構造家たち
バルセロナ第25回夏季オリンピックの開催に合わせて建設されたパラウ・サン・ジョルディの構造は下部のRC構造部分をマドリッドのエンジニア、マルティーネス・カルソン(Julio Martinez Calzon, 1938-2023年)が担当し、大屋根とそれをサポートする鉄骨部分を川口衞(1932-2019年)さんが担当された。RC部分を担当したマルティーネス・カルソンのタイトルは道路・運河・港のエンジニアという呼び方がされ、この職種で世界中で一番知られているのがエドゥアルド・トロハ(Eduardo Torroja Miret, 1899-1961年)だろうか。マドリッド郊外のサルスエラ競馬場の極薄のシェル構造の屋根を2人の建築家とともに設計・実現させている。トロハの作品は個人的には構造としての判断ではなく、建築作品として見るならば、傑作もあれば、駄作もあると思っている。それは構造家の責任というよりは組んだ建築家の才能に関係していたのではないかと思っている。スペインではこれを引き起こす原因が現在でもあまり変わっていないのだが、建築家がイニシアティブを取りデザインし、構造家はそれを実現するように解決する、という力関係に委ねられているからではないだろうか。構造家は至って発言力が弱いのがスペインだ。
RCの構造家
話を戻すとマルティーネス・カルソンはその道路・運河・港エンジニアという職種から巨大な構造物の構造設計はお手の物だ。鉄骨、RC各種の橋をたくさん実現する経験を持っていた。当時でも建築家でありながら構造を得意とした人もいたが、当時は規模の大きな建築はごく限られていたから、規模の大きな、あるいは特殊なプログラムのプロジェクトはエンジニアが対応するのが普通だった。彼は何より自分の意見を持っていて、しかも彼は単なるエンジニアというよりはむしろインテリ、文化人であり、恐らくスペインで数少ない磯崎さんと対話ができた人の一人だったろうか。何しろリタイアしてから最初の仕事が『19世紀の絵画』という本の出版で、これは全3巻を大陸別に3部(ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカ)に分冊して出され、さらに国別に章分けし19世紀絵画の歴史を担った作家を解析し、その活躍した国の背景なども含め解説した大書だった。サブタイトルは“美的-概念的ヴィジョン”というもので総ページは1500頁以上ある大著だ。彼のエンジニアとしての仕事は仮の姿だったのだろうか。その後も『交差した詩』という小冊子を出している。この本は英語圏の友人が書いた詩を彼がスペイン語に訳し、彼のスペイン語の詩をイギリス人の友人が英語に訳すというユニークな企画の著作だ。彼はエンジニアとしてはちょっと異色な人物だった。
しかも、実際工事が始まると大手のゼネコンとの付き合い方も手慣れているという好感を得た。それでいて譲れないところは断固として死守するという、頼もしい味方だった。

1. 土工事の現場で立ち会うマルティーネス・カルソン(左から2人目)
パラウの敷地は段差があり、この一部に入り込んでいた70年代まで投棄していた市のゴミ捨て場があった。メタンガスは50年の間放出され続けうるとされているから、これがパラウのどこかに溜まり、引火、あるいは最悪の時は爆発があったら大変なことになる。ちょうどその頃東京の夢の島でちょっとしたメタンガスの事件があり、川口さんはこの問題を提起した。結局旧ゴミ捨て場の廃棄物5万㎥は撤去された。これにも彼は説得力のある説明で市役所の技術者たちを説得してくれた。

2. 代々木の室内体育館を川口さんの案内で視察する(右端が川口さん)

3. 日本の施設を見学した時の食事会(左列の奥が川口さん)
大屋根の構造家
一方、上屋の鉄骨部分を担当された川口衞さんはここで書くまでもなく、世界的な構造の第一人者で、当時は法政大学に勤務されていながら、自分の構造事務所で現実的な仕事をされていた。初めてそして最後に会ったタイプの人物で、アイディア、実設計、現場監理ができ、しかも、ゼネコンやメーカーとの交渉も見事にやってのけるという人でもあった。磯崎さんとの付き合いも大阪70年代万博の大屋根以来と長くて、たくさんのアトリエのプロジェクトでチームを組んでいた。川口さんはパラウ・サン・ジョルディの設計以前の1984年に神戸に、現在“ワールド記念ホール”と呼ばれる多目的室内競技場を昭和設計と組んでこのタイプの大型スポーツ施設を実現させた。ワールド記念ホールの建設に当たり、川口さんが考案したパンタ・ドーム工法が初めて実作で採用された。この川口さんの命名はパンタグラフから来ていて、地上近くの作業員が安心して作業できる場所で、構造体を折りたたんで組み立て、組みあがった段階でジャッキアップして所定の位置に持ち上げ架構とするという工法だが、これによって作業員の事故防止や総足場の不要、工期の短縮にも繋がるというユニークなアイディアだった。
一方、パラウを設計するに当たり磯崎さんのアイディアは、大屋根を明快な幾何学形ではなく、緩いカーヴを描くことだったので、構造部材としてはスペース・フレームが一番最適だという事になった。

4. 工場視察のためにサン・セバスチャンへ出発する(真ん中が川口さん、右は藤江秀一さん)

5. マドリッドでトロハのサルスエラ競馬場の屋根に乗る(俯いて写真を撮る川口さんは左側)

6. 同・屋根の上を歩きまわる川口さん
スペースフレーム
そして大屋根のスペース・フレームの製造・製作が当然最大の焦点になってきた。大屋根はローマン・アーチのような半円形の効率の良いアーチではなく、ヴォールトが潰れた形にすることで、良質な内部空間を作る事が考えられていた。スペインにも複数のスペース・メーカーが存在していたので、これも工場設備を見学させてもらった。そして製作、施工会社によって実作品も見せてもらった。そのなかには当時話題になっていた最大規模だった、バスク地方のビットリアにある闘牛場をインドアにするという作品も見学した。しかしスペース・フレームが使われていたのはガソリン・スタンドのように規模はあったものの、いずれもフラットな屋根、つまり部材が全て同じ形状だった。しかし、設計が進んでいく中でパラウの大屋根は数か所に100t以上かかるポイントがあるためにジョイントのタイプは限定され、自ずとメーカーもスペインでは一社に絞られていった。
当時のスペインの産業界はまだ完全にアナログで、全てスペース・フレームの部品も手作業で作られていた。同様に我々の図面もトレーシング・ペーパーに手書きのインキングだった。アトリエではDIN A0のフォーマットで描いていたが、スタジアムを担当したコレア=ミラの事務所はまだ長巻のトレペを使い、何メートルもある青焼きのコピーを現場に持ち込んで広げるというようなことをしていた時代だった。

7. ビットリアの闘牛場の屋根を覆ったスペース・フレームの屋根

8. 一番よく使われていたのがガソリン・スタンドのキャノピー
結局スペース・フレームの入札はドイツ、日本、スペインの3社の指名コンペになったが、コスト・パフォーマンスで有利だったスペインのオローナという会社が決まった。
84年にオローナ見学に行った時にはドラム缶に鋳造のジョイントが手作業でネジ穴が切られたものが放り投げ込まれていた。しかし、不整形なシルエットが描かれるパラウではジョイントの径はもちろん、これに繋げられるパイプの位置が全て違うわけで、ジョイントに開けられる位置が全て違ってくるので手作業ではあり得ない。しかし、オローナの最初の訪問から入札までの期間に工場をデジタル化していた。カタルーニャ同様、バスク地方のこの原動力は果たして中央政府の長い圧力に対して育まれた反骨精神なのだろう。まだ、その頃はバスクではETAという非合法政治団体がテロを繰り返していた。カタルーニャではマドリッドを差し置いて自力でオリンピックを成功させようとしていた。

9. 最終的に入札に勝った、視察時のオローナの工場

10. ボール・ジョイントがドラム缶に投げ込まれていた

11. 屋根の中央部を12メーターの高さで組み始められたスペース・フレーム

12. ほぼ大屋根の中央部が組み終わった頃、周辺の2階席のRC部分もかなり進んでいる

13. それぞれ大きさもボルト穴位置も違うジョイントは木箱に番号が付けられて搬入される

14. 中央部分が組みあがった大屋根

15. ジャッキ・アップのプロセス中最大42度まで傾く大屋根。ジャッキ・アップが進むに従いポジションは戻り直立

16.ジャッキ・アップが完了し、所定の位置まで上がった大屋根(中央にはコントロール・ルームがある)

17.宮脇愛子さんが大屋根が建ちあがった現場に駆け付けマルティーネス・カルソンに挨拶する。左は丹下敏明。

18.大屋根の構造部分が完成した姿

19.大屋根の仕上げまで完成した1989年11月
(たんげ としあき)
(写真は17以外筆者撮影)
■丹下敏明 (たんげ としあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画 (現在進行中) などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展 (サン・ジョアン・デスピCan Negreにて)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社 (1976年)、『ガウディの生涯』彰国社 (1978年)、『スペイン建築史』相模書房 (1979年)、『ポルトガル』実業之日本社 (1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社 (1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会 (1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版 (1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社 (1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社 (2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社 (2022年)、『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』Kindle版 (2024 年)、Walking with Gaudi Kindle版 (2024 年)、ガウディの最大の傑作と言われるサグラダ・ファミリア教会はどのようにして作られたか:本当に傑作なのかKindle版 (2024 年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は7月16日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、磯崎新です。
“Palau d'Esports Sant Jordi Barcelona”
版画5点組
1988年制作
64.2x91.4cm
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●5月11日のブログで「中村哲医師とペシャワール会支援5月頒布会」を開催しています。

今月の支援頒布作品は島州一、ブーランジェ、仙波均平です。
皆様のご参加とご支援をお願いします。
申し込み締め切りは5月20日19時です。
◆次回展覧会のお知らせ
「2025コレクション展3/駒井哲郎、菅井汲、池田満寿夫」
2025年5月21日(水)~5月24日(土)11:00-19:00
※前回展DMで予告していた日程から会期が変更となりました
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

その20 パラウ・サン・ジョルディ②
丹下敏明
パラウの構造家たち
バルセロナ第25回夏季オリンピックの開催に合わせて建設されたパラウ・サン・ジョルディの構造は下部のRC構造部分をマドリッドのエンジニア、マルティーネス・カルソン(Julio Martinez Calzon, 1938-2023年)が担当し、大屋根とそれをサポートする鉄骨部分を川口衞(1932-2019年)さんが担当された。RC部分を担当したマルティーネス・カルソンのタイトルは道路・運河・港のエンジニアという呼び方がされ、この職種で世界中で一番知られているのがエドゥアルド・トロハ(Eduardo Torroja Miret, 1899-1961年)だろうか。マドリッド郊外のサルスエラ競馬場の極薄のシェル構造の屋根を2人の建築家とともに設計・実現させている。トロハの作品は個人的には構造としての判断ではなく、建築作品として見るならば、傑作もあれば、駄作もあると思っている。それは構造家の責任というよりは組んだ建築家の才能に関係していたのではないかと思っている。スペインではこれを引き起こす原因が現在でもあまり変わっていないのだが、建築家がイニシアティブを取りデザインし、構造家はそれを実現するように解決する、という力関係に委ねられているからではないだろうか。構造家は至って発言力が弱いのがスペインだ。
RCの構造家
話を戻すとマルティーネス・カルソンはその道路・運河・港エンジニアという職種から巨大な構造物の構造設計はお手の物だ。鉄骨、RC各種の橋をたくさん実現する経験を持っていた。当時でも建築家でありながら構造を得意とした人もいたが、当時は規模の大きな建築はごく限られていたから、規模の大きな、あるいは特殊なプログラムのプロジェクトはエンジニアが対応するのが普通だった。彼は何より自分の意見を持っていて、しかも彼は単なるエンジニアというよりはむしろインテリ、文化人であり、恐らくスペインで数少ない磯崎さんと対話ができた人の一人だったろうか。何しろリタイアしてから最初の仕事が『19世紀の絵画』という本の出版で、これは全3巻を大陸別に3部(ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカ)に分冊して出され、さらに国別に章分けし19世紀絵画の歴史を担った作家を解析し、その活躍した国の背景なども含め解説した大書だった。サブタイトルは“美的-概念的ヴィジョン”というもので総ページは1500頁以上ある大著だ。彼のエンジニアとしての仕事は仮の姿だったのだろうか。その後も『交差した詩』という小冊子を出している。この本は英語圏の友人が書いた詩を彼がスペイン語に訳し、彼のスペイン語の詩をイギリス人の友人が英語に訳すというユニークな企画の著作だ。彼はエンジニアとしてはちょっと異色な人物だった。
しかも、実際工事が始まると大手のゼネコンとの付き合い方も手慣れているという好感を得た。それでいて譲れないところは断固として死守するという、頼もしい味方だった。

1. 土工事の現場で立ち会うマルティーネス・カルソン(左から2人目)
パラウの敷地は段差があり、この一部に入り込んでいた70年代まで投棄していた市のゴミ捨て場があった。メタンガスは50年の間放出され続けうるとされているから、これがパラウのどこかに溜まり、引火、あるいは最悪の時は爆発があったら大変なことになる。ちょうどその頃東京の夢の島でちょっとしたメタンガスの事件があり、川口さんはこの問題を提起した。結局旧ゴミ捨て場の廃棄物5万㎥は撤去された。これにも彼は説得力のある説明で市役所の技術者たちを説得してくれた。

2. 代々木の室内体育館を川口さんの案内で視察する(右端が川口さん)

3. 日本の施設を見学した時の食事会(左列の奥が川口さん)
大屋根の構造家
一方、上屋の鉄骨部分を担当された川口衞さんはここで書くまでもなく、世界的な構造の第一人者で、当時は法政大学に勤務されていながら、自分の構造事務所で現実的な仕事をされていた。初めてそして最後に会ったタイプの人物で、アイディア、実設計、現場監理ができ、しかも、ゼネコンやメーカーとの交渉も見事にやってのけるという人でもあった。磯崎さんとの付き合いも大阪70年代万博の大屋根以来と長くて、たくさんのアトリエのプロジェクトでチームを組んでいた。川口さんはパラウ・サン・ジョルディの設計以前の1984年に神戸に、現在“ワールド記念ホール”と呼ばれる多目的室内競技場を昭和設計と組んでこのタイプの大型スポーツ施設を実現させた。ワールド記念ホールの建設に当たり、川口さんが考案したパンタ・ドーム工法が初めて実作で採用された。この川口さんの命名はパンタグラフから来ていて、地上近くの作業員が安心して作業できる場所で、構造体を折りたたんで組み立て、組みあがった段階でジャッキアップして所定の位置に持ち上げ架構とするという工法だが、これによって作業員の事故防止や総足場の不要、工期の短縮にも繋がるというユニークなアイディアだった。
一方、パラウを設計するに当たり磯崎さんのアイディアは、大屋根を明快な幾何学形ではなく、緩いカーヴを描くことだったので、構造部材としてはスペース・フレームが一番最適だという事になった。

4. 工場視察のためにサン・セバスチャンへ出発する(真ん中が川口さん、右は藤江秀一さん)

5. マドリッドでトロハのサルスエラ競馬場の屋根に乗る(俯いて写真を撮る川口さんは左側)

6. 同・屋根の上を歩きまわる川口さん
スペースフレーム
そして大屋根のスペース・フレームの製造・製作が当然最大の焦点になってきた。大屋根はローマン・アーチのような半円形の効率の良いアーチではなく、ヴォールトが潰れた形にすることで、良質な内部空間を作る事が考えられていた。スペインにも複数のスペース・メーカーが存在していたので、これも工場設備を見学させてもらった。そして製作、施工会社によって実作品も見せてもらった。そのなかには当時話題になっていた最大規模だった、バスク地方のビットリアにある闘牛場をインドアにするという作品も見学した。しかしスペース・フレームが使われていたのはガソリン・スタンドのように規模はあったものの、いずれもフラットな屋根、つまり部材が全て同じ形状だった。しかし、設計が進んでいく中でパラウの大屋根は数か所に100t以上かかるポイントがあるためにジョイントのタイプは限定され、自ずとメーカーもスペインでは一社に絞られていった。
当時のスペインの産業界はまだ完全にアナログで、全てスペース・フレームの部品も手作業で作られていた。同様に我々の図面もトレーシング・ペーパーに手書きのインキングだった。アトリエではDIN A0のフォーマットで描いていたが、スタジアムを担当したコレア=ミラの事務所はまだ長巻のトレペを使い、何メートルもある青焼きのコピーを現場に持ち込んで広げるというようなことをしていた時代だった。

7. ビットリアの闘牛場の屋根を覆ったスペース・フレームの屋根

8. 一番よく使われていたのがガソリン・スタンドのキャノピー
結局スペース・フレームの入札はドイツ、日本、スペインの3社の指名コンペになったが、コスト・パフォーマンスで有利だったスペインのオローナという会社が決まった。
84年にオローナ見学に行った時にはドラム缶に鋳造のジョイントが手作業でネジ穴が切られたものが放り投げ込まれていた。しかし、不整形なシルエットが描かれるパラウではジョイントの径はもちろん、これに繋げられるパイプの位置が全て違うわけで、ジョイントに開けられる位置が全て違ってくるので手作業ではあり得ない。しかし、オローナの最初の訪問から入札までの期間に工場をデジタル化していた。カタルーニャ同様、バスク地方のこの原動力は果たして中央政府の長い圧力に対して育まれた反骨精神なのだろう。まだ、その頃はバスクではETAという非合法政治団体がテロを繰り返していた。カタルーニャではマドリッドを差し置いて自力でオリンピックを成功させようとしていた。

9. 最終的に入札に勝った、視察時のオローナの工場

10. ボール・ジョイントがドラム缶に投げ込まれていた

11. 屋根の中央部を12メーターの高さで組み始められたスペース・フレーム

12. ほぼ大屋根の中央部が組み終わった頃、周辺の2階席のRC部分もかなり進んでいる

13. それぞれ大きさもボルト穴位置も違うジョイントは木箱に番号が付けられて搬入される

14. 中央部分が組みあがった大屋根

15. ジャッキ・アップのプロセス中最大42度まで傾く大屋根。ジャッキ・アップが進むに従いポジションは戻り直立

16.ジャッキ・アップが完了し、所定の位置まで上がった大屋根(中央にはコントロール・ルームがある)

17.宮脇愛子さんが大屋根が建ちあがった現場に駆け付けマルティーネス・カルソンに挨拶する。左は丹下敏明。

18.大屋根の構造部分が完成した姿

19.大屋根の仕上げまで完成した1989年11月
(たんげ としあき)
(写真は17以外筆者撮影)
■丹下敏明 (たんげ としあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作 (カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarrago建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画 (現在進行中) などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画 (全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展 (バルセロナ・アパレハドール協会展示場)
2014年以降 World Gaudi Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展 (サン・ジョアン・デスピCan Negreにて)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加
主な著書
『スペインの旅』実業之日本社 (1976年)、『ガウディの生涯』彰国社 (1978年)、『スペイン建築史』相模書房 (1979年)、『ポルトガル』実業之日本社 (1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社 (1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会 (1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版 (1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社 (1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社 (2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社 (2022年)、『バルセロナのモデルニスモ建築・アート案内』Kindle版 (2024 年)、Walking with Gaudi Kindle版 (2024 年)、ガウディの最大の傑作と言われるサグラダ・ファミリア教会はどのようにして作られたか:本当に傑作なのかKindle版 (2024 年)など
・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は7月16日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、磯崎新です。
“Palau d'Esports Sant Jordi Barcelona”版画5点組
1988年制作
64.2x91.4cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●5月11日のブログで「中村哲医師とペシャワール会支援5月頒布会」を開催しています。

今月の支援頒布作品は島州一、ブーランジェ、仙波均平です。
皆様のご参加とご支援をお願いします。
申し込み締め切りは5月20日19時です。
◆次回展覧会のお知らせ
「2025コレクション展3/駒井哲郎、菅井汲、池田満寿夫」2025年5月21日(水)~5月24日(土)11:00-19:00
※前回展DMで予告していた日程から会期が変更となりました
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
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営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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