1981年9月1日、ギャラリーホワイトアートは、中央区銀座2丁目5―4、大宝興産ビル3階に開廊した。開廊展は「New Yorker’s Exhibition in Tokyo」。アメリカの女性アーティスト3人展だった。カータ・ディ・ホッジキン、バット・ハマーマン、リンダ・ヘインズの3名で、人選は、現在ギャラリーQを運営する上田雄三がニューヨークへ行き、当地在住の作家松村要二の協力を得た。開廊についての座談会がリーフレットに残されている。出席者は1年近く企画にかかわる千葉茂夫、先の上田、作家の蓮池純治、オーナーの中野智雄(1944―2000)だ。中野さんはグラフィック・デザイナーで映画関係や芸能畑の仕事が多かったそうだ。仕事つながりで蓮池と知り合い、現代美術に対して働きかけたいと思ったという。画廊名は中野さんのデザイン会社名「ホワイト アート」からとられた。

 中野さんは現代美術に興味はあり、画廊は見てはいたが、業界関係者ではなく、外からの参入になろう。特定のコレクターや組合的なつながりはなくスタートしている。ビルの賃料、案内状や絵葉書、リーフレットの作成代をもち、海外作家も取り上げ、実績をつくっていった。典型なのが木片に焼き焦げをつけるロジャー・アックリングだ。個展を重ねて親しくなり、作品集も制作、彼が結婚式をあげた明治神宮は、中野さんの紹介だそうだ。全寿千も数回展示をしている。日本人作家では、大塚新太郎、青木野枝、鷲見和紀郎、菅沼緑、辻けい、中川久、古渡章、野田裕示、吉澤美香、橋本曜生子らがあがってくる。貸画廊で発表をしていた若手を積極的に取り上げていく。92年には第1回の国際コンテンポラリーアートフェアNICAFにも参加している。

 銀座2丁目の画廊空間は、壁面18メートル。床は濃茶系のフローリングだったか。ミニマル系の作品が似合う感じだった。扉を開けると、中野恵美子さんが奥から顔を出されて挨拶を。とくに話はせずに静かに作品をみた記憶がある。現在は画廊があったビルはない。93年には、銀座1丁目8−21、今も銀座コージコーナーがある、隣の清光堂ビルの3階に移転し、壁面は26メートルと広くなり、貸しも行っていく。画廊の担当は息子の満さんになる。しかし家賃は高く、94年には外苑前へ、最終的に現在トキアートスペースになっているビルに移転する。97年に智雄さんが病となり、閉廊となった。

 画廊の必需品に白いペンキの一斗缶があった。中野さんは、壁の穴を自ら割り箸でつくったビスを打ち込み、ペンキを塗り、搬入される新しい作品をまっていたという。白い空間に彩りをもたらすのは作家たち、白い紙を相手にしたグラフィックデザイナーとしてのこだわりがあった。

 ギャラリーホワイトアートの特徴として、紙媒体の資料があげられる。A4、1枚の展覧会の紹介だが、図版と短いテキストがあり、紙片の上部に青い帯がある。東京文化財研究所情報資料室で28件を閲覧したが、当時の美術シーンの一面を確認できる。「展示が終われば残るはカタログ」といわれるが、小さな画廊に継続的になされた記録もまた残ればいい資料になる。作成に当たっては、時にプロのカメラマンがスタジオで作品撮影を行うこともあったという。


大塚新太郎の展示 1985年 画像提供=大塚新太郎


作品集から 古渡章とアックリング


リーフレット

(みかみ ゆたか)

■三上 豊(みかみ ゆたか)
1951年東京都に生まれる。11年間の『美術手帖』編集部勤務をへて、スカイドア、小学館等の美術図書を手掛け、2020年まで和光大学教授。現在フリーの編集者、東京文化財研究所客員研究員。主に日本近現代美術のドキュメンテーションについて研究。『ときわ画廊 1964-1998』、『秋山画廊 1963-1970』、『紙片現代美術史』等を編集・発行。

・三上豊のエッセイ「今昔画廊巡り」は毎月28日の更新です。

●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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