よりみち未来派(第33回):未来派ウォッチャーとしてのアントニオ・グラムシ

太田岳人

1922年5月、イタリア共産党代表団の一人としてソヴィエト連邦に渡ったアントニオ・グラムシ(1891-1937)【図1】は、ロシアの革命家レフ・トロツキーの質問に応じ、1922年9月8日の日付の入った手紙の形で、母国における未来派芸術家の動向に関しての見解を述べた。トロツキーはこれを評価したのか、翌年出版した『文学と革命』では、この「イタリア未来派についての同志グラムシの手紙」を、ロシア未来派に関する自身の考察を補足する資料として掲載する【注1】――岩波文庫の翻訳で4頁強ほどの短さのこの手紙は、これまでの未来派研究において2つの観点からたびたび言及されてきた。一つは、ロシア革命勃発当初の共産主義運動における、前衛芸術潮流への関心を示すものとして、もう一つは、イタリア未来派に対する同国の労働者層からの支持を示すものとしてである。

特に、後者の点に関わるグラムシの記述として興味深いのは、第一次世界大戦以前の時期に、未来派が発行していた2万部もの『ラチェルバ』紙のうち、5分の4までが労働者に売れて、彼らにケンカを売るブルジョワたちに対しては労働者が擁護すらしていたという記述である。マリネッティの側で同じことを言っているだけなら、いかにも未来派一流の放言としか聞こえないであろうが、それをまったく異なる立場の人物が裏書きしているわけだから、あまりにも素朴に「未来派=ファシズム」の等式が成り立っていた時代においては驚くべき内容ではないか。未来派を何かしら評価したいと考える人々にとって、こうした彼の言葉は、彼の1921年5月の論考「革命家マリネッティ?」【注2】と合わせ、政治的な護符ともなった。

図1:アントニオ・グラムシの写真、1926年11月にファシズム政権によって逮捕された翌日に、警察によって撮影されたもの。
※ Victoria de Grazia e Sergio Luzzatto (a cura di), Dizionario del fascismo, vol. 1, Torino: Einaudi, 2002より。

ところで、この手紙に書かれている内容を改めて読み直すと、走り書き的なスタイルにも関わらず、グラムシが1920年代初頭の未来派の状況について、相当よく把握していることが分かる。確かに彼は、個々の未来派の人物や作品に対し、高い芸術的価値を認めているわけではない。「なにがし」といちいち名前につけて紹介される中で、作家マリオ・デッシー(1902―1979)は「最低限の知的能力と組織能力も持ち合わせぬ人物」であるし、以前言及したアントン・ジュリオ・ブラガーリアもまた「写真家くずれである、映画および芸術家のエージェント」にすぎない。

しかしこうした記述は、裏返せばマリネッティがデッシーのような若手に『ポエジーア』誌の編集を任せ、ブラガーリアがローマで常設画廊【図2】を運営することで、バッラを中心とする画家たち(未来派の「最も強力な細胞」)が援護されているといった状況を、「評価」とは別にしっかり「記録」していることになる。未来派を離れた作家の動向、逆にこれまで未来派が浸透しなかったシチリア島などへの運動の広がり、そして自分がモスクワに出発する前に、トリノの「プロレトクリト」が主催した未来派展(10才年上の先輩党員である、ドゥイリオ・レモンディーノもそれに参加した)の開会式にマリネッティが出席したといった報告は、基本的に正確である。

図2:ローマの「ブラガーリア芸術の家」で開催された「未来派画家バッラ展」カタログ、表紙および画家の自画像、1918年10月。
※ Enrico Crispolti (a cura di), Nuovi archivi del Futurismo. Cataloghi di esposizioni, Roma: De Luca, 2010より。

重箱の隅をつつくような意味では、誤りがないわけではない。一つは、ブルーノ・コッラ(1892-1976)とエミリオ・セッティメッリ(1891-1954)が、右派紙『イル・プリンチペ』(1922-1923)の編集者であるとしている部分である。実際には、この週刊紙の二人の編集者としてセッティメッリは正しいものの、もう一人は別の未来派作家マリオ・カルリ(1889-1935)であった。しかしこの2人は、マリネッティのかたわらで第一次世界大戦以前から綿密に協力しあっており、「未来派綜合演劇」(1915)のようないくつかの宣言で、共同筆者に名を連ねている【図2】。

もう一つは、マリネッティが「最近結婚した」と述べている部分であるが、実際に彼がベネデッタ・カッパ(1897-1977)と結婚したのは、翌年の1923年である。この言及は、現在のマリネッティが未来派の運営に意欲を失っている理由として、「その活力を妻に捧げることを好んでいる」からとする――この見立ての方が、未来派に関する誤りとしてはより大きいだろう――中でなされたものであるが、1910年代末よりマリネッティとベネデッタが知り合い、急速に接近していったのは、運動の界隈においては確かに周知の事実であった【図4】。いずれにせよ、これらの誤りは、書き手が常時未来派の情報にアンテナを張っていなければ、むしろ起こらない種のものであろう。

図3:マリネッティ、コッラ、セッティメッリ「未来派綜合演劇Il Teatro sintetico futurista」表紙、1915年1月11日付。
※ Matteo D‘Ambrogio (a cura di), Nuovi archivi del Futurismo. Manifesti programmatici: teorici, tecnici, polemici, Roma: De Luca, 2019より。

図4:カプリ島にて水着でくつろぐ未来派たち、エンリコ・プランポリーニ(一番左)、マリネッティ(左から二人目)とベネデッタ(一番右)、1922年。
Claudia Salaris, Marinetti: arte e vita futurista, Roma: 1997より

グラムシの未来派への言及は、ファシズム政権成立前後に限られたものではない。それは彼がトリノ大学に在学していた(言語学を主に学んでいた)1913年5月に、大学新聞『コッリエーレ・ウニヴェルシタリオ』に筆名で書いた、「未来派」というエッセイにまでさかのぼる。ここでは、知識人あるいは芸術家としての内実はさておき、未来派の作家たちにおける文体の実験を、絵画におけるピカソやソッフィチのそれと比較しているのが注目される。その5年後の1918年3月、彼がトリノの社会党の専従職員として『グリード・デル・ポーポロ』に発表した「カヴールとマリネッティ」は、マリネッティが同月に発表した「未来派政党宣言」を要約して、簡単なコメントを加えたものである。ここでのグラムシによる未来派についての評言は「マリネッティと彼のけたたましい猿の一団」というこっぴどいものであるが、内容自体は未来派への攻撃を主眼としていない。グラムシによれば、こうしたプログラムの多くは、未来派流のレトリックを取り去ってみると、本来なら自由主義的な政治における「指導的諸階級」、いわば「カヴールの孫たち」が達成すべき内容を持っている。そうした目的に手をつけようとする勢力が、未来派くらいしか残っていないという現況こそ「最も質の悪い冗談」であった【注3】。

「未来派についての手紙」の後も、未来派に関するグラムシの記述はなお断片的に表れる。彼が1926年11月にファシズム政権に逮捕された後、1929年2月より1935年にかけて監獄の独房で記した『獄中ノート』は有名だが、その第1冊目には、項目の一つとして「未来派」が立てられている。いわく「イエズス会の学校から逃げ出した一群の生徒が、近くの森でちょっとした大騒ぎをやり、田園監視人の鞭で打たれて連れ戻された」。この記述は、同年3月にマリネッティが、ムッソリーニの創立したイタリア学士院へ参加したことと当然無縁ではない。日本でも紹介されている『獄中ノート』の箇所には、1930年代初頭に「未来派料理」が提唱され出したことに、呆れているようなメモも見られる【注4】。

しかし、ある研究者の指摘によれば、未来派に関する『ノート』の記述は(日本語にまだ訳されていない部分を含めて)15カ所におよび、知識人と社会・政治の結びつきという問題系の中で、なお真面目にマリネッティらを考察する姿勢は続いているという【注5】。「政治の革命」を目指したグラムシは、未来派をはじめとする「芸術の革命」の内実そのものは理解しなかったかもしれない。しかし社会変革という自己の課題の一環として、未来派の社会・文化的特質、またそれがイタリアに登場し展開していくダイナミズム(弁証法というべきか)を、その動向を数十年に渡り記録しつつ、粘り強く考察し続けた。この点で彼は、「未来派ウォッチャー」としても歴史的な人物の一人であると言えよう。

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【注】
注1:トロツキイ〔ママ〕『文学と革命』上巻(桑野隆訳、岩波文庫、1993年)。ただしここでは、“Una lettera a Trotskij sul futurismo”, in Paolo Spriano (a cura di), Antonio Gramsci: Scritti Politici, Roma: Riuniti, 1967に収録されたイタリア語版テキストから、筆者が翻訳した。なおイタリアでは、グラムシのこの手紙の最初の紹介は1954年のこととされているが(『文学と革命』のイタリア語訳の出版は、さらに後の1973年)、日本においては、アジア・太平洋戦争以前の時代に『文学と革命』の日本語版(茂森唯士訳、改造社、1925年)が出版されている。

注2:「革命家マリネッティ?」、上村忠男(編訳)『アントニオ・グラムシ 革命論集』(講談社学術文庫、2017年)。

注3:“Futuristi”, in Antonio Gramsci (a cura di Angelo d’Orsi), La nostra città futura: scritti torinesi (1911-1922), Roma: Carocci, 2004; “Cavour e Marinetti”, in Antonio Gramsci (a cura di Sergio Caprioglio), La città futura: 1917-1918, Torino: Einaudi, 1982.

注4:『獄中ノート』の主な版としては、グラムシの同志パルミーロ・トリアッティが第二次世界大戦直後に編集した抜粋版と、ノートの内容全体を復元して学術的な校訂を加えた完全版が存在している。1929年時点の未来派定義については、獄中ノート翻訳委員会(編)『グラムシ獄中ノート:グラムシ研究所校訂版』第1巻(大月書店、1981年)で読めるが、完全版の日本語翻訳は残念ながらこの第1巻のみで中止された模様である。一方「未来派料理」に関する断片は、抜粋版の完訳によって確認できる。山崎功(監修)『グラムシ選集』全6巻(合同出版社、1961-1965年)。

なお、グラムシが獄中から親族(ロシア人の義姉)に送った手紙の中にも、マリネッティに言及したものが一通存在しているが、そちらは別の意味でマリネッティについての興味深い話題が含まれているので、今後改めて触れたい。アントニオ・カプリオッリョ、エルサ・フビーニ(編)『愛よ知よ永遠なれ:グラムシ 獄中からの手紙』第2巻(大久保昭男・坂井信義訳、大月書店、1982年)。

注5:Nicole Gounalis, “Antonio Gramsci on Italian Futurism: politics and the path to modernism”, in Italian Studies, vol. 73, no. 4, 2018.

おおた たけと

・太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」は隔月・偶数月の12日に掲載します。次回は2025年11月12日の予定です。

■太田岳人
1979年、愛知県生まれ。2013年、千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。日本学術振興会特別研究員を経て、今年度は千葉大学・東京医科歯科大学・東京工業大学ほかで非常勤講師の予定。専門は未来派を中心とするイタリア近現代美術史。
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