第4回 兄弟の絆は強く-杉田正臣
宮崎市に現在もある杉田眼科医院。私は子供の頃、「ものもらい」ができたり、視力が下がったりしたときにここに通院していた。自分の住んでいる家からすると他にも近くに眼科医院はあったのだが、連れて行かれたのはここだったのだ。高校を卒業するくらいになると、いよいよもってメガネをかけるようになり、そのうちコンタクトレンズを使うようになったときにもこの医院に通っていた。今となっては久しく通っておらず、当時のことを思い出すと、病院の受付近くの壁あたりにはなんだか変な絵が飾ってあったという印象があるが、その時はおじいさんの先生が診察されていたと思う。なんとなく、そのときのおじいさん先生は医院長先生、つまり杉田正臣さんだったと勝手に思っている。しかも後で調べて分かったことだが、私の出身中学校の学校医の指定を受けていた。
さて、前置きが長くなったが、今回の主人公は瑛九の兄、杉田正臣である(以下敬称略)。眼科医院のあった位置は正確には現在とは少し異なるが、明治期から現在まで続く眼科医院である。長男の正臣が父の跡を継いで眼科医となった。正臣と瑛九の間には4人の姉がおり、1911年に瑛九が生まれたとき、1899年生まれの正臣はすでに12歳であった。年の離れた兄弟ではあるものの、同性ということもあり、いろいろと行動を共にすることも多かったのである。正臣がエスペラントをやれば瑛九もやり、静坐をすれば瑛九もというように、先行して正臣がやっていることを瑛九が後から追いかけるということも多かったように思う。兄としては年の離れた弟が、自分の後をついてくるというのは当時としては誇らしかったのかもしれない。正臣は家族のなかで群を抜いて瑛九が手紙を出した相手でもある。それらの手紙の一部は宮崎県立美術館や愛知県美術館などに資料として保管されているし、宮崎県立図書館には正臣が寄贈した手紙や本類などが「杉田文庫」として所蔵されている。どちらも読書家であったので蔵書の種類も、エスペラントのテキストや静坐法、医学書など多岐に渡っているが、美術関係書籍の一部には瑛九の署名が入っている。
瑛九 《兄》 1943年 紙に油彩 宮崎県立美術館所蔵
瑛九が14歳で東京の美術学校へ行くことになったとき、上京に同行したのは正臣だった。姉妹とももちろん様々な活動をともにしてはいたが、正臣との関わりが一番深いというのは数多くのエピソードが証明している。反対の声もあり籍を入れずにいた瑛九の結婚を祝福し、その後の生活についても正臣が何かと世話をしている。瑛九の没後にしても、残されたミヤ子夫人を心配し、相続のことなどで争いごとがおきないように弁護士等を紹介したのは正臣であったという。
正臣は長男であったので、自由がきかない部分も多々あったのではないだろうか。県外の大学に進学し、病もあったとはいえ研究をしている途中で、要請を受けて実家の医院を継ぐべく宮崎に戻っている。戦争中に、杉田家は疎開を余儀なくされたことがあったが、その際も病院は開けなければならず、他の家族とは離れて近くの町に疎開し、看護師とともに自転車で通ったという。杉田家の長男として様々な苦労もあったはずである。片や瑛九は自由気ままが過ぎるきらいがある。そのこともあり、正臣が金銭的にも面倒を見ることが多かった。しかし兄弟の絆は深く、姉たちの証言でも一番仲が良かったとしている。
正臣が瑛九に与えた影響は様々あるが、エスペラントこそが最大の影響だろう。宮崎エスペラントの会では、兄を手伝い瑛九も会報誌の記事執筆などの活動をしていた。「ザメンホフ像」を描いたのも活動の一部である。エスペラントの特使として宮崎を訪れた久保貞次郎との出会いがあり、ミヤ子夫人や後に瑛九の支持者となった鈴木素直や湯浅英夫らもエスペラントをきっかけにして瑛九とつながりを持つようになった。鈴木らは正臣とも交流している。宮崎エスペラント会の会長となった正臣は精力的に活動しており、数多くの写真が残っている。瑛九とミヤ子夫人がお互いをエスペラント風に「ヒ-チョ」「ミーニョ」と呼び合っていたが、正臣は自分のことを巴心太(パシンタ、杉田を変じて「すぎた」にし、通り過ぎるの意)と称していた。瑛九の死後、宮崎エスペラントの会の会報誌「ラ・ジョーヨ」では追悼号が出され、巻頭で瑛九についてエスペラントでの文章(pasinta名義)を書いているのはエスペランティストとしてであろう、その後で杉田正臣の名で弟の思い出を書いている。
仲の良かった弟を亡くすことは、どんなに寂しい思いがあっただろう。正臣は弟と同じ年に亡くなった父の顕彰も行いながら、その後の博物館や美術館が開催した遺作展に協力したり、「瑛九抄」といった本を出版したりと弟の顕彰に努めている。生前はもちろんのこと、没後も瑛九にとって最高の兄だったに違いない。
瑛九が最後の帰郷となった際に撮影された写真。兄弟姉妹で集まり、父の九十歳を祝う会に参加した。
左が瑛九(本名杉田秀夫)、右が兄の杉田正臣。
(こばやし みき)
●杉田正臣(すぎた まさおみ)
1899(明治32)~1988(昭和63)
宮崎市の眼科医。宮崎県眼科医会長(1964~1974)。宮崎エスペラント会会長(1937~1983)。俳号は井蛙(せいあ)、月刊一人雑誌「根」を発行。主な著書、詩集『父』、句集『暁天』、『思い出』『瑛九抄』など。1982(昭和57)年、宮崎県文化賞受賞。
■小林美紀(こばやし みき)
1970年、宮崎県生まれ。1994年、宮崎大学教育学部中学校教員養成課程美術科を卒業。宮崎県内で中学校の美術科教師として教壇に立つ。2005年~2012年、宮崎県立美術館学芸課に配属。瑛九展示室、「生誕100年記念瑛九展」等を担当。2012年~2019年、宮崎大学教育学部附属中学校などでの勤務を経て、再び宮崎県立美術館に配属、今に至る。
*画廊亭主敬白
小林美紀先生の「瑛九を囲む宮崎の人々」の連載は今後の瑛九研究の大切な証言、資料になるでしょう。
幸い亭主はそこに登場する幾人かの人々にお会いすることができました。
記憶を裏付ける写真も重要です。
倉庫や書庫にはまだ公開していない貴重な写真類があるのですが、元気なうちに整理しておかねばと思っています。
1979年6月8日 瑛九展レセプション会場にて。左から杉田正臣さん(瑛九の兄)、郡司君さん(ぐんじ きみ、瑛九の姉)、谷口都さん(瑛九夫人)、靉嘔先生(48歳)。
「現代美術の父 瑛九展」
会期:1979年6月8日~20日
会場:小田急グランドギャラリー
東京・新宿小田急百貨店本館11階
亭主が初めて宮崎を訪ねたときにお会いしたのは杉田正臣先生(瑛九のリトグラフが所狭しと飾られた杉田眼科の診察室の記憶は鮮明です)、瑛九の友人富松昇先生(宮崎市の助役)、そして教え子の鈴木素直先生でした。
鈴木素直先生は新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、その後教師となります。瑛九と親交を続け、没後はその顕彰に大きな役割を果たし、詩人、日本野鳥の会会員としても幅広い活躍をなさってきました。
「生誕110年記念 瑛九展-Q Ei 表現のつばさ-」
会期:2021年10月23日~12月5日
宮﨑県立美術館の瑛九展開会式にて、鈴木素直先生(左)と綿貫不二夫
さて、8日から第9回目となる「銀塩写真の魅力」展を開催します。
瑛九の浦和のアトリエに通い、親交した細江英公先生、奈良原一高先生の作品も出展します。どうぞお出かけください。
◆「銀塩写真の魅力Ⅸ」
会期:2025年10月8日~10月18日 ※日・月・祝日休廊
主催:ときの忘れもの
出品作家:福田勝治(1899-1991)、ウィン・バロック(1902-1975)、ロベール・ドアノー(1912-1994)、植田正治(1913-2000)、ボブ・ウィロビー(1927-2009)、奈良原一高(1931-2020)、細江英公(1933-2024)、平嶋彰彦(b. 1946)、百瀬恒彦(b. 1947)、大竹昭子(b. 1950)
*出品作品の展示風景及び概要はHPまたは10月4日ブログをご覧ください。
●ときの忘れものの建築空間(阿部勤 設計)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。 
外観




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