第6回 歯医者が本業-岡峯龍也

 瑛九が、まだ本名の杉田秀夫として活動していた1930年代に、故郷である宮崎にて結成したのが美術グループ「ふるさと社」である。そのメンバーは、杉田秀夫、山田光春、岡峯龍也、横山ミエ、杉田杉(瑛九の妹)らである。瑛九、山田はその後宮崎を離れているが、その他のメンバーは宮崎で活動を続けていた。
 さて、今回スポットを当てるのはメンバーの一人であった岡峯龍也である。岡峯は「ふるさと社」に参加はしていたものの、画家として身を立てたかったわけではない。1896年生まれの岡峯は、そもそも1911年生まれの瑛九よりも10歳以上年上で、瑛九と知り合う前から瑛九の父で眼科医の杉田直と知己であった。かといって、眼科医というわけでもなく、実は歯科医なのである。杉田家と岡峯家の付き合いは、岡峯の父の代から始まったようである。互いに行き来もしていて、岡峯は瑛九の父のことを「小父さん」と呼んでおり、家族ぐるみのつきあいだった。瑛九自身も最初は父親の知人として岡峯のことを知ったのであろう。
 歯科医である岡峯が、絵を描き始めたのは瑛九がきっかけではない。千葉県出身でその後宮崎市に移住していた画家の鱸利彦に「野山に出て絵を描くのは健康にもいいよ」と勧められ、画材も提供してもらったことで岡峯は絵を描き始めたのである。眼科医である杉田直や、正臣が俳句の世界に飛び込むように、歯科医である岡峯もまた絵画の世界に飛び込んだ。とにかく描いては公募展に出品したものの、落選続きだったという。中学校時代に美術学校への進学を勧められた経験があるとはいえ、画家というのは天才のみの世界であると思っていた岡峯は、進学はしなかった。美術学校などで学んだ経験がなく、基礎も何もまともにやったことがないこともあり、気後れしていたようである。そんなときに瑛九は、自分と同じように公募展への落選続きだった岡峯に対し「おい、君も落選か、僕も落選だよ」と肩をたたかれて大笑いしたこともあったという。年上の「後輩」画家のことを瑛九なりに励ましていたのであろう。何しろ落選歴も先輩の瑛九である。もっとも、岡峯自身も絵を描くことについて、後に新聞のインタビューに「診療の暇を見つけてやるのだし、アマチュアとして趣味でやっている」と答えている。岡峯は、描くことはあくまでも趣味ということを貫いた。
 岡峯の作品は身の回りの出来事や、日常の風景を実直に描いているものが多い。画家を目指していなかったので、当然学歴はまったくの畑違いのものである。ただ、歯科医としての仕事の傍ら、あくまでも趣味としてやっているのである。だからこそ、目にする美しいものなどを描こうとしていたのであろう。当初はゴッホに興味を持ち、そのうちにボナールの作風に惹かれるようになった。本格的に学校などに通って習うことがなかった岡峯は、本や他者の作品展などを見て学んだという。
 「治療室」や「フランス人形のある部屋」「ある日の勝手口」など岡峯の描く題材は、そのまま岡峯の生活の風景であった。治療室とは岡峯の仕事場であった歯科医院のものであろう。デンタルチェアは昔ながらのものに見える。周りには治療用の器具などが置かれている。窓越しに入っている光が、その絵の主役たるデンタルチェアを照らしている。このデンタルチェアのユニットは国産が出始めたころに入手したものらしく、届いた後に説明書をもとに自身で組み立てたそうで、ずいぶんと手こずったようである。そういう情報を知ってみると、「よく組み立てられたな・・・」と感心してしまう。デンタルチェアに座って治療を待つ人(実際はモデルを務めた妻)が描かれているが、あれに座ることを考えると何とも言えない気持ちになるのは、私が病院にかかるのが苦手だからだろうか。口の中を照らすためのライトや、治療の後うがいをするための流し台(デンタルチェアの横に付いていたうがい後の水を流す場所)など、自分が実際の治療を受けていた時のことを、ほんの少しの恐怖感とともに思い出すような風景が描かれている。本作「治療室」は1936年の作であるが、瑛九の水彩作品とともに招待作品として展示されたことがあるという。岡峯はこの作品についての記述の中で、その時展示された瑛九の水彩のタイトルが「オランドオランドバー」と記しているが、探してみてもそういうタイトルの水彩は見たことがない。そもそもそのようなタイトルに類似するようなものも他にないのである。その作品が一体どんなものであったのか、どこかで誰かが所有しているのか、今後も追ってみたい作品である。
 岡峯は81歳でその生涯を終えるまで、歯科医でありながら実直に絵を描き続けた。晩年は沖縄の風景が気に入って、旅行へ出かけ、風景などを描いたという。

瑛九《宮崎風景》1943年 水彩 サインあり

(こばやし みき)

●岡峯龍也(おかみね たつや)
1896ー1977
宮崎県日向市美々津に生まれる。旧制県立宮崎中学校3年の時に鹿児島県立志布志中学校に転校し、大正5年に卒業する。大正10年日本歯科医学専門学校を卒業。大正12年から佐土原町で歯科医院を開業する。昭和3年鱸利彦に油絵具を贈ってもらったのがきっかけとなり、絵筆をとることになる。昭和10年戦前の宮崎美術協会のアンデパンダン展が県公会堂で開かれ、「泰山木のある風景」を出品した折に、瑛九からゴッホの画集を贈られる。同年瑛九らと共にふるさと社を結成する。還暦を迎えた昭和32年に県立図書館で個展、昭和47年県総合博物館で回顧展を開催。歯科医を開業しながら身辺の物やなにげない生活の一隅を好んで題材にし素朴な画風で表現する。昭和52年没。

小林美紀(こばやし みき)
1970年、宮崎県生まれ。1994年、宮崎大学教育学部中学校教員養成課程美術科を卒業。宮崎県内で中学校の美術科教師として教壇に立つ。2005年~2012年、宮崎県立美術館学芸課に配属。瑛九展示室、「生誕100年記念瑛九展」等を担当。2012年~2019年、宮崎大学教育学部附属中学校などでの勤務を経て、再び宮崎県立美術館に配属、今に至る。

●ときの忘れもののコレクションから瑛九の油彩をご紹介します。
瑛九_南風瑛九 Q Ei 《南風
1954年
キャンバスに油彩
46.0×38.0cm(F8)
サイン・年記あり
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◆「作品集/塩見允枝子×フルクサス」刊行記念展
会期:2025年11月26日(水)~12月20日(土)11:00-19:00 日曜・月曜・祝日休廊

「作品集/塩見允枝子×フルクサス」スペシャルエディション 特別頒布価格180,000円


《数の回路》 限定35部
• 作品集『塩見允枝子× フルクサス from 塩見コレクション』
• 塩見允枝子《数の回路》 
 内容:小さな器×6、ダイス、マラカス、電子メトロノーム、リズム譜とインストラクション、フェルトマット
• 展覧会案内状にサインあり
•自筆サイン入り
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●ときの忘れものの建築空間(阿部勤 設計)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。