第7回 仲間でもある甥っ子-郡司盛男
瑛九には兄が1人と姉が4人いて、妹が1人いる7人兄弟姉妹である。一番上の姉の君(きみ)は、1901年生まれで、1911年生まれの瑛九とは10歳離れている。君がまだ小さかった瑛九を背中におぶって世話をしている写真が残っているが、よく面倒をみていたようである。そんな姉が郡司家へ嫁いでいき、やがて郡司家に第1子である盛男が生まれた。1920年生まれの盛男は、瑛九と9才離れている。その後、武夫、春子、雪子、三郎と誕生し、瑛九には5人の甥や姪ができたのだが、郡司家が大阪府から父の転勤のために宮崎に移転してきたのは、盛男が4歳くらいの時のことである。ましてや、1925年から瑛九は上京しており、幼少期を共に過ごしたわけではないようである。
1932年、君の夫や兄弟夫婦が相次いで他界したため、姉と子供達だけになった郡司家に、瑛九が用心棒代わりに居候をすることになった。この時瑛九は21歳。写真で見る限り線の細い虚弱な青年ではあるが、それでも郡司家にとっては心強いものであったろう。広い郡司家をアトリエのように使い、公募展に出すための絵を描いていた。郡司家で撮影された写真に写っている作品は、大きな画面に「モダンガール」のような雰囲気を持つ女性たちが描かれている絵や、1935年作の『タバコを吸う女』に通じるような、煙をくゆらせた煙草を指にはさみ、横顔を見せている女性の絵だが、現有は確認されていない。どこかに散逸してしまったのであろうか。郡司家での生活は約1年間ほどであったとされているが、かなりの量の作品を描いていたのである。
甥の盛男は、1938年の冬に、瑛九が自身の作品を焼いているのを手伝った記憶があるという。「瑛九 評伝と作品」には、それまでに描きためた膨大な量の作品(油彩だけではなく、素描やフォト・デッサン、水彩など)を燃やしたと記載されている。その時に郡司家で描いた作品も燃やしてしまったのかも知れない。そんな叔父の姿は、盛男の目にどう映っていたのであろうか。
さて、「瑛九 評伝と作品」の著者である山田光春は、愛知県出身であるが、東京美術学校を出た後、縁もゆかりもなかった宮崎へ任を受け、美術教師としてやってきた。その赴任先が宮崎県西都市にある妻中学校(現:妻高等学校)であった。山田は瑛九との出会いが宮崎美術協会の創立総会であったと語っているが、瑛九が初対面にもかかわらず「山田君」と自分を呼んだことを不思議に思っていたところ、実は自分の勤めている学校に甥の盛男が通っており、盛男を通じて山田の情報が杉田家へある程度渡っていた・・・という後日談を述べている。盛男がなぜ西都市の妻中学校に通っていたのかは定かではないが、愛知から来た若い美術教師のことを、家人に話すほどに興味を持っていたのであろう。当時一緒に暮らしていた瑛九にも当然知れ渡ることとなったのだ。盛男は、在学中であろう17歳の時に自由美術家協会の第1回展に入選しており、叔父と同じく絵を描いていたのである。その後、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)の日本画科に通い、卒業後には舞台美術の仕事に就いている。しかし、戦争のため勤め先の劇場が閉鎖されたことで宮崎に帰郷し、高校で美術教師を2年ほど勤めている。1951年には瑛九に誘われ、大阪でのデモクラート美術家協会の創立に参加するが、やがて宮崎に戻り、今度はダンスホールを経営するようになる。また喫茶店を経営し、そこで作品を発表もしていた。しかし、デモクラート美術家協会の精神に呼応してか、公募展に出品することはなかったという。
瑛九と郡司盛男は、叔父・甥の関係であるとともに美術の仲間でもあった。とはいえ、デモクラート美術家協会の創立以外ではあまり行動を共にしているわけではない。瑛九はある意味根無し草のように滞在先を変えていた時期があったし、盛男は大学などにも通っていてどちらも宮崎にいたわけではないことが多いからである。9歳上とはいえ、兄弟たちとさほど年の変わらない「叔父さん」は甥や姪達に「ヒデオジサン」と呼ばれており、ひげが生えたら「ヒゲオジサン」と呼ばれていたらしいが、果たして盛男自身もそんな風に呼んでいたのだろうか。盛男にとっては年の離れた兄のような存在だったのではないかと思う。瑛九が郡司家で暮らしていた1年間ほどの間に精力的に制作をするその姿を見て、影響を受けた部分もあったのだろう。中学生くらいの年齢の時期に、そういった姿を見て「自分も描いてみよう」と思ったのか、もしくは瑛九から勧められたのかも知れない。瑛九は、郡司家で十人ほどの子供達に絵を教えていたことがある。甥や姪がそう呼ぶようにその他の子供達も「ヒデオジサン」と呼んでいたらしい。高校の時に自由美術家協会に出品するということも、美術教師である山田の存在もあったのかも知れないが、その創立に関わっていた叔父の勧めがなかったとは言い切れない。
残念なことに、日本画科を卒業した盛男の、日本画の作品をはじめとする数々の作品は現在所在がわかっていない。美術館に収蔵されているのはデモクラート美術家協会結成時の1951年に描かれた油彩「蝶」のみである。
(こばやし みき)
■郡司盛男(ぐんじ もりお)
1920~2004
大阪生まれ、1937年第1回自由美術家協会に入選、1942年京都市立絵画専門学校日本画科を卒業。1951年デモクラート美術家協会創立に参加。
■小林美紀(こばやし みき)
1970年、宮崎県生まれ。1994年、宮崎大学教育学部中学校教員養成課程美術科を卒業。宮崎県内で中学校の美術科教師として教壇に立つ。2005年~2012年、宮崎県立美術館学芸課に配属。瑛九展示室、「生誕100年記念瑛九展」等を担当。2012年~2019年、宮崎大学教育学部附属中学校などでの勤務を経て、再び宮崎県立美術館に配属、今に至る。
*小林美紀先生の連載「瑛九を囲む宮崎の人々」は毎月9日更新です。
●ときの忘れもののコレクションから瑛九の吹き付け作品をご紹介します。
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瑛九 Q Ei 《題不詳》 吹き付け 29.2×19.3cm 裏面に杉田都(谷口都)の署名あり |
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会期:2026年1月9日(金)―1月24日(土) 11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
2010年から開催しているシリーズ企画「Tricolore展」は、ときの忘れものが選ぶ作家3名の展覧会です。
6回目となる本展は、女性アーティストの藤江民・谷川桐子・釣光穂の作品をご紹介します。
版画家・藤江民は、版画だけなく、オリジナル手法で制作した大作の油絵や、タイルの作品「割絵」などを出品します。
谷川桐子は、油彩で緻密に描いた砂利や地面の上にハイヒールやブラジャーなどを描いた作品を制作しています。
陶芸家・釣光穂は手びねりという陶芸の技法で、まるで編み物で編んだようなオブジェを制作しています。
三者三様のユニークな作品をご覧いください。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
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営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
杣木浩一作品



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