第8回 瑛九を支えた元新聞記者で画家-内田耕平

 宮崎県立美術館では瑛九に関連した資料写真を数多く所蔵しているが、それらを整理するとき、瑛九が単独で写っているものはさておき、時間が経てば経つほど複数の人々(親族や友人、仲間たち)と写っている写真は、それぞれの人物を特定するのに苦労する。残念なことに瑛九の関係者に尋ねて確定できた人物は、そう多くはない。展覧会で資料写真を展示した際に、親族の方が見に来られ、「この写真に写っている赤ん坊は自分です」という申出を受けたことはあるが、関係者もかなり高齢化しているので、なかなか証言を得ることができないのが現状である。そんな写真の中、瑛九と少し感じの似ている青年が時折写っていることがある(と言っても、線が細くて眼鏡をかけた人物という程度ではあるが)。
 写真1を見て欲しい。瑛九の横には犬を抱くミヤ子夫人、瑛九は珍しくベレー帽のような帽子をかぶっている。場所は宮崎であろうか。左奥に南国特有の植物が見える。しかし奥に建物があるのに瑛九たちが立っている周辺には何もないように見える。学校の校庭のような感じであろうか。それにしても瑛九の虚弱な感じが、妙に腰回りがだぶついている様子などに見られる。結婚して間もない頃であろうか。

 
写真1

 次に写真2を見てみよう。これは195051年頃の内田耕平と瑛九である。左が内田、右が瑛九なのだが、なんとなく似ている感じがするのである。もちろん瑛九の特徴的な広い額などは内田と大きく異なってはいるのだが、雰囲気が似ているのである。そんな内田について今回は紹介してみたい。


写真2 195051年頃

 内田耕平は宮崎県串間市出身である。1924年生まれで多摩美術大学に入学するも、戦争のため休学(そのまま繰り上げ卒業扱い)、復員後、日向日日新聞社(現:宮崎日日新聞社)の文化部記者になり、その記者時代に知り合ったのが瑛九である。文化人の集う杉田家とは、文化部記者としてそもそもつながりがあった。瑛九の存在は知っていたものの、直接は会ったことはなかったが、交流するようになったきっかけは瑛九の父、直に原稿を依頼に杉田家に出入りするようになったことだった。作品は知っていた(中学生の時に東京で見て衝撃を受けた)が、10歳以上年の離れた瑛九という人物に強く関心を持ったのであろう。内田はその後瑛九後援会を組織し、事務局を担当することになる。瑛九後援会は発起人に弁護士の宮下輝夫ほか6名、幹事として内田が名を連ねて発足した。後援会は瑛九に物心両面の援助をしようという友情から生まれたものであった。会員は徐々に増え、30名以上になっていた。瑛九の兄、杉田正臣はもちろんのこと当時の副知事や宮崎市長、宮崎大学の教授や作家の中村地平、画家の塩月桃甫らが名を連ねていた。その後瑛九の絵画作品展が宮崎で開催されたが、その時の趣意書に、内田は責任者として「この春一月、郷土が生んだ藝術家瑛九(杉田秀夫)氏の絵画作品個人展を私達後援会で開くことになりました。瑛九氏は長年中央画壇で活躍戦時中郷里宮崎に疎開ひたすら画道に恵心して来ましたが、戦争末期より病を得て病床にふす身となり、このほどようやく立上がることが出来、再び絵筆を握って中央画壇にデビューしようとしています。この時にあたって私達後援会は氏の過去十五年間にわたる未発表の力作70点余を一般に公開して瑛九絵画作品展覧会と銘うって一月下旬宮崎市で開催することになったのです。なお同氏はこの作品展を最後に上京して中央画壇で活躍を決心していますから何分にも皆様の協力を願いあげる次第です」と書いている。文字通り当時は瑛九の活動を支援するための組織があったのである。
 1951年、瑛九とともに大阪に行き、デモクラート美術家協会の創立に参加するとともに新聞記者を辞めている。大阪ではデモクラート展などを経験し、様々な交流をしたことが、内田にとっては転機だったのであろう。自分が田舎者であるということを痛感したことを森啓宛の書簡で書いている。後々に上京をしようという覚悟もあったようで、なんとか伝手をたどろうとする気持ちも書かれていた。新聞記者を辞めて、絵の方でやっていくという覚悟があったのではないだろうか。1952年になると、瑛九とともに宮崎各地で世界児童美術展を開催している。世界児童美術展は、内田が実働であったが、瑛九も関心を強く持っており、その会場の様子などを書簡で内田に尋ねている。後援会のこともあり、内田と瑛九は事務的な連絡も含め、よくやりとりをしていた。宮崎での瑛九の版画作品の販売なども内田に頼んでいたこともあった。そんな内田に瑛九は感謝の手紙も度々送っている。湯浅英夫や鈴木素直らと同じく、瑛九を支えた若者の一人であった。
 内田は、油彩のほかにフォト・デッサンにも取り組んでいる。宮崎県立美術館には、内田耕平のフォト・デッサン集「黒い信号」が収蔵されているが、瑛九のフォト・デッサンとはまた違った意味で幻想的な雰囲気のフォト・デッサンとなっている。瑛九のような自由闊達さはないが、均一な形の型紙やカケアミのような描画の線を使った実直な仕事ぶりが画面に現れている。
 内田は、結局上京はせず地元宮崎でいくつかの職業を経験した後病に倒れ、1993年亡くなった。

(こばやし みき)

■内田耕平(うちだ こうへい)
宮崎県南那珂郡本城村(現串間市)に生まれる。昭和14年志布志中学校から関東中学校に編入し昭和17年卒業。同年多摩帝国美術学校西洋画科に入学するが、昭和19年現役兵隊として召集され休学する。昭和21年復員後、日向日日新聞社(現宮崎日日新聞)の文化部記者となる。この頃瑛九を知り、昭和24年瑛九後援会を組織して事務局を担当する。昭和26年記者を辞め、デモクラート美術家協会創立に参加し、第1回展に出品する。昭和27年世界児童美術展を瑛九らと共に宮崎県内の各地で開催し、宮崎児童画研究所を開設する。以後、社会教育講師として活躍する。油彩、フォト・デッサン、舞台美術などを手がけるが、制作期間は短く、晩年は長く病床にあった。平成5年永眠。

小林美紀(こばやし みき)
1970年、宮崎県生まれ。1994年、宮崎大学教育学部中学校教員養成課程美術科を卒業。宮崎県内で中学校の美術科教師として教壇に立つ。2005年~2012年、宮崎県立美術館学芸課に配属。瑛九展示室、「生誕100年記念瑛九展」等を担当。2012年~2019年、宮崎大学教育学部附属中学校などでの勤務を経て、再び宮崎県立美術館に配属、今に至る。

*小林美紀先生の連載「瑛九を囲む宮崎の人々」は毎月9日更新です。次回第24回は2026年3月9日の予定です。どうぞお楽しみに。

 

「綿貫不二夫 12作家の版画制作を語る半世紀 第2回 菅井汲 聞き手/三上豊」
開催日時:2026年2月28日(土)14時~(要予約)
会場:ときの忘れもの
どなたでも参加いただけますが、事前予約制とします。
参加費:1,000円(資料代を含む)
参加ご希望の方は、お名前(フルネーム)、ご連絡先(住所)を明記の上、メールにてお申込みください。
前回は12時開始でしたが、今回は14時開始となります。
*第1回の様子は2月4日のブログをお読みください。

菅井汲「スクランブルG」

1976年
凸版+シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:35.5×25.0cm
シートサイズ:40.5×28.5cm
Ed.150  サインあり
*現代版画センターエディション

■三上 豊(みかみ ゆたか)
1951年東京都に生まれる。11年間の『美術手帖』編集部勤務をへて、スカイドア、小学館等の美術図書を手掛け、2020年まで和光大学教授。現在フリーの編集者、東京文化財研究所客員研究員。主に日本近現代美術のドキュメンテーションについて研究。『ときわ画廊 1964-1998』、『秋山画廊 1963-1970』、『紙片現代美術史』等を編集・発行。

 

松本竣介と舟越保武
2026年2月6日(金)~2月21日(土)
11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
洋画家・松本竣介と彫刻家・舟越保武の二人展を開催します。
1912年生まれの二人は、岩手県立盛岡中学(現在の県立盛岡第一高等学校)の同級生で、ともに絵画俱楽部に所属し、終生の友情を結びました。その後二人はそれぞれの道を歩みますが、1941年と45年に盛岡・川徳画廊にて松本竣介と舟越保武の二人展を開催。現在、岩手県立美術館には二人の常設展示室が設置されています。本展では松本竣介の素描と舟越保武の彫刻・版画作品をご紹介いたします。

●ときの忘れものの建築空間(阿部勤 設計)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com 
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。