2026.3.9

小林美紀のエッセイ「瑛九を囲む宮崎の人々」第9回 太佐豊春

第9回 瑛九と絶交をしたもう一人の画家-太佐豊春

 瑛九と絶交をしたというエピソードをもつ人物と言えば、池田満寿夫が挙げられる。そして宮崎にも、瑛九と絶交をしたことのある人物がいる。宮崎県西都市出身の画家、太佐豊春である。
 太佐は1921年生まれ。瑛九の甥である郡司盛男と同級生であり、山田光春が赴任していた旧制妻中学校(現:妻高等学校)の生徒であった。太佐と瑛九は1935年の暮れに出会っている。その頃から抽象絵画の制作を試みはじめ、1940年頃までカンディンスキーやモンドリアン風といった純粋抽象様式のデッサンや油彩を制作、第1回自由美術家協会展への出品を皮切りに、その後も自由美術家協会展や美術創作家協会展への出品を続けた。しかし、太佐は21歳の時に召集され、戦線に送られる。当然絵画制作は中断されてしまった。復員したのは終戦後であり、帰国後太佐は日本共産党に入党するも数年後には「脱党(と本人は記載)」し、1950年代に入ると再び絵画制作に取り組むようになった。また、自由美術家協会展に出品している画家を中心とした宮崎自由美術クラブを瑛九や内田耕平らと結成したほか、冬芽会という絵画グループを作っている。
 そんな中、ある出来事があった。瑛九のフォト・デッサンの個展を東京で開催するために、太佐は久保貞次郎や北尾淳一郎らとともに尽力したのだが、個展の結果が芳しくなくて気落ちした瑛九に開催期間に余裕がなかったことなどについて不満を告げられ、その人格に不信を持ち対立、付き合うのをやめている。実際、195010月に上野の松坂屋で開催された個展は38点のフォト・デッサンを展覧したものだったが、新聞にもほとんど取り上げられず、売約も惨めな結果に終わっていたため、瑛九は失意から不満たらたらであったのだろう(翌年に宮崎と大阪で開催したフォト・デッサン展で「瑛九のフォート・デッサンに寄せる言葉」というリーフレットに掲載された植村鷹千代の言葉にも、このときの開催が「短期間の会期であまりにも唐突であった」と言及されている)。久保に呼ばれて太佐を伴い真岡に向かった瑛九が、二人の前で会期の決定が急だったので今回の個展が完全に失敗したなどと愚痴ったことが、東奔西走して準備した太佐にとっては看過出来ないことであったのだろう。その結果が絶交である。絶交とは言っても「付き合わない」というようなもので、何も「絶交宣言」をしたわけではないようだが、後に自分の個展でのプロフィールに書くくらいなので、相手が年上といえども腹に据えかねたのであろう。絶交は1年ほど続いたという。


「題不明」 太佐豊春


「題不明」太佐豊春

 瑛九は、日向日日新聞(現:宮崎日日新聞)の19535月の記事で、太佐について「彼は勉強家であるから前衛絵画についての知識も豊富である。それがいまだ彼の生活感情や感覚になりきらないのは惜(し)いことである。しかしそれは彼が生活を大切にし視野を拡大することによって獲得出来るものだと思う。作品の根本を作るものは名作に接することであるよりも現実生活と自然に接する態度によってその根底を形づくるものであると信ずるからだ。」と書いている。太佐が中学時代からすでにアブストラクトの多数のデッサンを描いていたことを知っていた瑛九は、彼が見せた油彩やデッサンの近作を見て、油彩については感動を受けることはなかったようだが、デッサンについては太佐の再出発が感じられ、絵画に対する熱情を感じたとしている。瑛九が太佐に求めていたことは、瑛九自身が制作への態度として大切にしていたことであろう。太佐が1988年に東京で開催した個展のリーフレットには、プロフィール欄の1955年に「瑛九と和解」と記載されているが、少なくとも1953年には近作を見せる程度の付き合いはあったはずである。もっとも、瑛九は1951年には大阪でデモクラート美術家協会を立ちあげ、翌年には加藤正らと東京での第1回デモクラート美術家協会展を開催し、その後埼玉県へ移り住んでいたので、宮崎にいた太佐とは物理的に会うことがなかったのであろう。まさにこのときの絶交があったので、瑛九はデモクラートの立ち上げに誘わなかった(あるいは断られた)のかもしれない。憶測の域を出ない話ではあるが、年齢的には宮崎からの創立メンバーである郡司盛男と同級であり、宮崎での絵画グループ結成にも関わっていた太佐を、瑛九が誘わなかったということがあるのだろうか。太佐が意図的に距離をおいたのであれば、「瑛九がそういうことならばと誘わなかった」あるいは「誘われたが太佐が断った」というのは考えられなくはない。
 宮崎に帰省した瑛九が開催した個展(1956年)では、太佐は坂本正直、津田雄一郎とともに座談会に参加し、瑛九の芸術について語り合った。その後も瑛九と手紙のやりとりなどはあったが、お互いに制作に集中する時期でもあったのであろう。だからこそ、小さなわだかまりが残り、以前のような関係性を取り戻せないまま、残念なことに1958年に前回と同じ理由で再び二人の絶交は訪れるのである。

■太佐豊春(たさ とよはる)
宮崎県西都市に生まれる。1950年瑛九らと宮崎自由美術クラブを結成。1958年から1975年まで公募展を否定し、東京で個展による発表活動を続けた。2005年没。

小林美紀(こばやし みき)
1970年、宮崎県生まれ。1994年、宮崎大学教育学部中学校教員養成課程美術科を卒業。宮崎県内で中学校の美術科教師として教壇に立つ。2005年~2012年、宮崎県立美術館学芸課に配属。瑛九展示室、「生誕100年記念瑛九展」等を担当。2012年~2019年、宮崎大学教育学部附属中学校などでの勤務を経て、再び宮崎県立美術館に配属、今に至る。

*小林美紀先生の連載「瑛九を囲む宮崎の人々」は毎月9日更新です。次回第10回は2026年4月9日の予定です。どうぞお楽しみに。

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◆ときの忘れものは、アートフェア東京2026 へ出展します。

TOKYO ART BEATでも<ときの忘れものは、内間安瑆・内間俊子の作品、瑛九のフォト・デッサンなど戦後美術史における重要作家を取り上げる>と注目されています。
会期=2026年3月13日(金)~3月15日(日)
会場=東京国際フォーラム ホールE/ロビーギャラリー
(〒100-0005 東京都千代田区丸の内3丁目5番1号)
ときの忘れものブース番号= N009
出品作家=安藤忠雄、磯崎新、内間安瑆、内間俊子、瑛九、倉俣史朗、佐藤研吾、塩見允枝子、瀧口修造、松本竣介

*アートフェア東京2026 公式サイト https://artfairtokyo.com/

<重要なお知らせ>
アートフェア東京2026出展のため、
ときの忘れものは、2026年3月13日(金)~3月16日(月)は臨時休廊いたします。
スタッフはアートフェア東京の会場(東京国際フォーラム)におります。

 

■特集展示「安藤忠雄」
3月7日終了の予定でしたが、アメリカや中国など海外からのお客様はじめ、国内でも遠く関西、新潟などのお客さまが入れ替わり立ち代わり来廊されています。先日の東京マラソンに参加された中国の方は、せっかく来日したのでとSNSで好きな安藤忠雄を検索して駒込にいらしたとおっしゃっていました。
「特集展示 安藤忠雄」は好評につき3月12日(木)まで、会期を延長します。
会期:2026年2月27日(金)~3月12日(木) 
11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
会場:ときの忘れもの
安藤忠雄の1988年の巨大版画「中之島プロジェクト(アーバンエッグ)」2点を展示するとともに、ル・コルビュジエ、磯崎新、槇文彦、マイケル・グレイヴス、倉俣史朗、六角鬼丈、佐藤研吾など巨匠から気鋭まで建築家の秀作を併せてご覧いただきます。

 

●「綿貫不二夫 12作家の版画制作を語る半世紀 第3回 関根伸夫 聞き手/三上豊」
開催日時:2026年3月28日(土)14時~(要予約)
会場:ときの忘れもの
どなたでも参加いただけますが、事前予約制とします。
参加費:1,000円(資料代を含む)
参加ご希望の方は、お名前(フルネーム)、ご連絡先(住所)を明記の上、メールにてお申込みください。

関根伸夫《絵空事―赤の風船》
1975年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)+作家手彩色
45.0×35.0cm
Ed. 100  サインあり
*現代版画センターエディション

 

●ときの忘れものの建築空間(阿部勤 設計)についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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