第50回連翹忌に出席しました。
2006年4月2日
会場:日比谷・松本楼
主催:高村光太郎記念会
北川太一、水野清、小山弘明、高村規、西大由、紅野敏郎、桜井美佐、他
毎年4月2日はよほどのことがないかぎり、社長と二人で日比谷公園の松本楼に向かう。
「いよいよ五十回目の連翹忌が近づきました。五月は智恵子生誕百二十年という節目の年です。・・・」
昨日も雨の中、詩人・彫刻家の高村光太郎(1956年4月2日没)を慕う多くの人々が全国から集まりました。
光太郎が亡くなったアトリエの庭に咲いていた連翹の花から「連翹忌」と名付けられたこの会に、私たちは10数年前から参加しています。以前は資生堂パーラーが会場でしたが、谷口吉郎設計のパーラービルが建て替え工事で使えなくなり、松本楼に移りました。
毎年、自民党の代議士だった水野清さん(水野葉舟の息)が自宅から一抱えの連翹の花を持って来て下さる。私達もそれをいただいてきて、ときの忘れものがまだ一軒家だったころ、小さな庭の片隅に挿し木しました。春になると黄色の可憐な花が咲くのを覚えておられる方もいるでしょう。
政治家にはあまり上等の人はいないと思っていましたが、この連翹忌でお目にかかってから、金権千葉選出にも拘わらず水野清さんだけは尊敬しています。
私達は光太郎に直接会った方々の話を聞くのが楽しみでこの会に出席しているのですが、今年は詩人の寺田弘さんが92歳とは思えぬ矍鑠たる姿で登壇、自作の詩を朗読されました。昭和9年(1934年)上京した寺田さんが住んだのは本郷林町40番地、同じ町内に光太郎のアトリエがありました。空襲で炎上した光太郎アトリエにかけつけた寺田さんと作品の持ち出しを肯んじない光太郎の潔い姿を彷佛とさせる朗読でした。
50回目を迎えた連翹忌を第一回からずっと支えて来られた高村光太郎記念会の北川太一先生も81歳になられました。
北川先生は吉本隆明と東京工大で同級生で、光太郎の顕彰に生涯を捧げて来られました。研究の成果を独占することなく、誰にでも無私の態度で接し、全国の光太郎ファンの尊敬を一身に集めておられますが、連翹忌の司会をなさるのも今回を最後にしたいとおっしゃっていました。若い世代へとバトンタッチしたいということでしょうが、益々のご健康を祈るばかりです。
2006年4月2日
会場:日比谷・松本楼
主催:高村光太郎記念会
北川太一、水野清、小山弘明、高村規、西大由、紅野敏郎、桜井美佐、他
毎年4月2日はよほどのことがないかぎり、社長と二人で日比谷公園の松本楼に向かう。「いよいよ五十回目の連翹忌が近づきました。五月は智恵子生誕百二十年という節目の年です。・・・」
昨日も雨の中、詩人・彫刻家の高村光太郎(1956年4月2日没)を慕う多くの人々が全国から集まりました。
光太郎が亡くなったアトリエの庭に咲いていた連翹の花から「連翹忌」と名付けられたこの会に、私たちは10数年前から参加しています。以前は資生堂パーラーが会場でしたが、谷口吉郎設計のパーラービルが建て替え工事で使えなくなり、松本楼に移りました。
毎年、自民党の代議士だった水野清さん(水野葉舟の息)が自宅から一抱えの連翹の花を持って来て下さる。私達もそれをいただいてきて、ときの忘れものがまだ一軒家だったころ、小さな庭の片隅に挿し木しました。春になると黄色の可憐な花が咲くのを覚えておられる方もいるでしょう。
政治家にはあまり上等の人はいないと思っていましたが、この連翹忌でお目にかかってから、金権千葉選出にも拘わらず水野清さんだけは尊敬しています。
私達は光太郎に直接会った方々の話を聞くのが楽しみでこの会に出席しているのですが、今年は詩人の寺田弘さんが92歳とは思えぬ矍鑠たる姿で登壇、自作の詩を朗読されました。昭和9年(1934年)上京した寺田さんが住んだのは本郷林町40番地、同じ町内に光太郎のアトリエがありました。空襲で炎上した光太郎アトリエにかけつけた寺田さんと作品の持ち出しを肯んじない光太郎の潔い姿を彷佛とさせる朗読でした。
50回目を迎えた連翹忌を第一回からずっと支えて来られた高村光太郎記念会の北川太一先生も81歳になられました。
北川先生は吉本隆明と東京工大で同級生で、光太郎の顕彰に生涯を捧げて来られました。研究の成果を独占することなく、誰にでも無私の態度で接し、全国の光太郎ファンの尊敬を一身に集めておられますが、連翹忌の司会をなさるのも今回を最後にしたいとおっしゃっていました。若い世代へとバトンタッチしたいということでしょうが、益々のご健康を祈るばかりです。
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