駒井哲郎「風景」初期新発掘

駒井哲郎「風景(仮題)」 制作年不祥 銅版(エッチング)
15.9×10.3cm(シート21.5×15.3cm) 鉛筆サイン(T.Komai)
*レゾネ未収録

 長年、駒井哲郎作品を扱ってきましたが、「世紀の大発見」といえるような幸運に恵まれたことがいくつかあります。
その中で、「よくぞ出て来た」と思った逸品をご紹介します。私が調べた範囲ではどの文献にも載っておらず、新発掘の作品です。

繊細な線、どこか淋し気な建物の佇まい、間違い無く駒井先生の最初期の銅版です。
師匠の西田武雄の影響もはっきりと見てとれるもので、恐らく10代のころ、または20代はじめの作品だと思います。
従来全く知られていなかった作品です。絵の内容から推測して実際にある風景の写生がもとになっていると思われます。駒井家周辺に詳しい人が見れば、場所を特定できるかも知れません。

 ごく初期に作家の周辺にいて、重要な役割を果たした方が作品を所蔵していたことがわかっていても、実際にそれが出てくることは稀です。
 数年前、5点一括で出てきた作品の中の一点で、他の作品に記載された献辞から旧蔵者が、Hさんと特定できました。名作「R夫人」のモデルとも擬された方です。
 Hさんと駒井先生の交流については、1999年に美術出版社から刊行された加藤和平・駒井美子編『駒井哲郎 若き日の手紙 「夢」の連作から「マルドロオルの歌」へ』に詳しく綴られています。この本は、Hさん宛私信を所蔵する加藤氏が「清書」したものをもとにしているため、正確度、資料性という点で若干疑問符がつくのですが、1950年前後の駒井先生の創作の経緯が生々しく叙述されており、出来上がったばかりの作品(試刷り)を次々に病床のHさんへ送り批評を求めたことが詳しく書かれています。
 Hさんは女子美出で、高名な建築家夫人、画家としても活躍し、素顔社という女子美出身者のグループに属していました。
 駒井先生が初めてHさんを訪ねたのは1940年(昭和15)8月、20歳を迎えたばかりで、以後約10年にわたり「無名のころから才能を認め励ましてくれた唯一の人」として交流が続きます。
 「当時彼が手がけていた作品のすべてについてその試刷りを、ときには未完成段階の作品の試刷りまで夫人に送って、彼女の批評を乞い、彼女の批評によって励まされ、教示を懇願している。」(中村稔、前掲書32頁)というような親密な、ある意味師弟のような関係だったようです。
 Hさんが駒井先生の初期の創作活動に及ぼした大きな影響力は、駒井先生の生前には周辺の噂話程度でしか知られず、前掲書で公開された駒井先生の私信で初めてその具体的な状況が明らかになったわけで、駒井研究にとってこの時期(1940~1951年)の検証が今後はたいへん重要になってきます。
 この新発掘の作品は、前掲『駒井哲郎 若き日の手紙』で明らかになった「当時彼が手がけていた作品のすべてについてその試刷りを、ときには未完成段階の作品の試刷りまで夫人に送っ」た事実を裏付ける実物ということができます。
 空白の初期を明らかにする「文献と実物」がともに揃ったことになるといえるかも知れません。