開館20周年を迎えた世田谷美術館ではいま「ルソーの見た夢、ルソーに見る夢」展という好企画が開かれていますが、同時にいろいろなゲストを招いた20周年記念トークも行われています。
先日11月19日には「わがコレクション:駒井哲郎」と題して福原義春さんの講演があり、私たちも聴講して参りました。
福原さんは資生堂の社長・会長を歴任、現在は名誉会長であり、同時に東京都写真美術館館長、企業メセナ協議会会長(理事長)として文化関係でも活躍されています。美術品のコレクターとしても知られ、特に駒井哲郎のコレクションは質量ともに有数のものであり、その多くが世田谷美術館に寄託されています。
ちょうど東京新聞の夕刊で「この道」という福原さんの自伝が長期連載されており、経営者としての辣腕ぶりも知ることができます。
さて当日の福原さんのトークは、ご自身の慶應幼稚舎時代の回想から始まりました。
恩師の吉田小五郎先生から「あなた達の先輩に普通部を卒業後、美術学校に進んだ駒井哲郎という人がいる」と繰り返しいわれたと福原さんは語りだします。
この「繰り返しいわれた」というのが大事で、慶應の幼稚舎というところは1年から6年まで一人の教師が同じクラスを担任するのですね。
慶應大学史学科の講師も兼ねる大学者が平教員として小学校1年から6年までを継続して教える、子供達に決定的な影響を与えたに違いありません。「個性」を尊び、ただ漫然と慶應を出て社会人になることだけが人生ではない、ということを教えられたのでしょう。
因みに吉田小五郎は、川上澄生のパトロンとして有名な瓢亭吉田正太郎の弟で、明治35年、新潟県柏崎で生まれ、慶応義塾大学文学部史学科に進み、幸田成友(露伴の弟)の薫陶を受け、キリシタン史を学ぶ。卒業後幼稚舎の教員になり、舎長10年、再び平教員となり定年を迎える。この間、人間味あるれる師弟の交流は深く、死後「回想の吉田小五郎」が教え子たちにより発刊された。著書には名著「キリシタン大名」を代表に、キリシタンものの翻訳などのほか、「犬・花・人間」「柏崎ものがたり」などの人間愛と英知にみちた随筆集がある。また、趣味豊かな美の追求者で草木を愛し、民芸に通じ、明治の石版や丹緑本などの収集家でもあった。昭和48年、郷里柏崎へ戻り、昭和58年夏、81歳で没。(広報かしわざきより引用)
吉田先生の教えが福原さんに大きな影響を与えたことは、駒井哲郎先生のことを知り、後に1960年頃(資生堂の新人社員時代)、南画廊や版画友の会で駒井作品を購入するきっかけになったことでも明らかでしょう。「僕にもあの駒井さんの作品を買えるんだと思った」と述懐されています。
話が横道にそれますが、私が編集を担当した「資生堂ギャラリー七十五年史」(1995年刊)の巻頭には当時社長だった福原さんの「刊行の辞」が掲載されており、そこには<私は尊敬する恩師である吉田小五郎先生から、常に幸田成友先生の「オリジナルに還れ」のことばを教えられてきた。引用によらず一次資料による研究こそもっとも正当な歴史に対する態度である。>と書かれています。
吉田小五郎先生、さらにその師である幸田成友先生の言葉までをも小学生の頭に浸み込ませた教育の凄さというか、優れた人格からの感化というのは驚きですね。
そうやって先輩駒井哲郎のことを知り、サラリーマン・コレクターとしてぽつぽつと作品を買い続け、結果的に日本有数の福原コレクションが形成されます。
掲載した少しピンボケの写真、福原さんの後ろにプロジェクターで映された作品は「滞船」という小品(12×12cm)ですが、1935年の制作。15歳のときです。
最も初期の銅版画ですが、おそらく現存はこの福原コレクションただ一枚でしょう。
トークの最後に「私の夢は、東京都現代美術館の銅版画コレクション、世田谷美術館のブックワークのコレクション(挿画、カット他)、そして私のモノタイプ、水彩などのカラー作品がまとめられ、完全なカタログレゾネが刊行されることです。」とおっしゃっていました。
駒井ファンとして完全なカタログレゾネの刊行を私も切に願う次第です。
2006.11.23 綿貫不二夫
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