青山でときの忘れものという小さな画廊と版画の版元をやっている綿貫不二夫です。
本日は、森さん、個展の開催おめでとうございます。
カルナックの巨石群を描いたこの展覧会の作品を見て、ああこういう風景に森さんは感動したのか、とその原点を感じました。
世間的には、森さんは日本を代表するリトグラフのプリンター(刷り師)ということになっています。森さんの工房で制作された画家は、カトラン、ブラジリエ、カシニョールなど海外作家はもちろん、池田満寿夫、東山魁夷、岡本太郎、菅井汲、関根伸夫、三栖右嗣、大沢昌助、福沢一郎、舟越保武、難波田龍起など枚挙にいとまありません。
一度でも長野県坂城にある森工房に行かれた方なら、お分かりになると思いますが、森さんの版画工房は世界的に見ても素晴らしい版画の制作空間です。
竣工したのが1981年ですからもう27年、四半世紀たつわけですが、日本の建築史に残る傑作だと私は思います。
設計されたのは、東京大学名誉教授の原広司先生、あの京都駅やサッポロドームの巨大空間を設計された方です。
森さんの工房を設計されたのは、原先生がまだ無名とは申しませんが、ほとんど仕事がなかった頃です。その後、軽井沢の田崎広助美術館やヤマトインターナショナルで建築学会賞や村野藤吾賞を受賞され、大建築家の仲間入りをするわけですが、その若き日の原先生を見込んで、日本のどこにもないような、世界的にいっても見事な空間を施主としてつくることを決断されたことが、まずもって森さんの凄いところだと、私はかねがね尊敬しています。
というのは、今でこそ、長野の森工房は多くの作家たちが通い、森工房でしか制作できない2メートルを越す大版画を次々と生んできたわけですが、27年前は、信州の山あいの葡萄畑の中にぽつんと建築された、それこそ地元の人達にとっては何か風変わりなラブホテルでもできたんじゃあないかと誤解されるような建物でした。
話はちょっと遡りますが、私と森さんとはもう30年来のおつきあいになります。
最初は森さんがパリから帰ってきて東京の幡ヶ谷のマンションの一室でリトグラフの工房をやっていた頃の事です。
ある日、森さんが私の渋谷にあった事務所に訪ねて来られ、「パリにしばらく暮らして、あちらの版画工房もいろいろみて、日本にもきっと版画工房の時代がくると思って東京で版画工房をはじめた。でも東京の家賃は馬鹿高いし、もう東京の狭い空間で、インクだらけになり、安い刷り代できゅうきゅうとするのはいやになった。ふるさとの信州に帰り、あそこなら自分の土地があるので、思いきって広々とした工房をつくり、画家たちが泊まり込んで制作に専念できるようなものにしたい。しかし、信州の山の中まで作家がきてくれるか心配だ」という相談でした。
私もその話は素晴らしいと思い、応援しますと約束しました。私ができることといえば、版元として作家を口説き、信州の森工房にお連れすることでした。その後、大沢昌助先生や関根伸夫先生をお連れして森工房で私どものエディションを制作してもらいました。
そうして森さんは故郷に帰り、原先生を口説いて、大きなプレス機が入り、なおかつ2メートルもある版画が刷り上がったとき、上から見おろせるような天井高のある大空間の設計を依頼したのでした。
森さんは、この信州の工房でしかできない版画を構想されました。
具体的には、日本画の小松均先生から「畳一枚くらいスケールの大きな版画ができないか」と言われたのがきっかけだったようですが、どこにもないような巨大なプレス機を特注されました。
当時、版画のサイズというのは、当然紙のサイズと、プレス機のサイズに影響されますから、せいぜい90センチの大きさのものしかできなかった。それを森さんは、大空間をつくることにより、そして特注のプレス機を据え付けることで実現に向って歩き出しました。
それが27年前です。
森工房の素晴らしいのは、刷りの工房だけではなく、お茶室やゲストハウス、それから森さんの奥さんがつくる美味しいお料理を食べる事のできる食堂まで完備しています。
今まで、森工房で制作された画家たちは何十人にものぼるでしょうが、森さんが並みの刷り師と違うのは、ご自身がもともと絵を描いていただけあって、版画という制約の多い技法をいかに使いこなすかについて、実に適格なアドバイスができる点と、今日の作品をご覧になればおわかりの通り、素晴らしい色彩感覚をお持ちです。
私なりの言葉でいえば、版画というのは、どこかで作業を止めて、刷り上げるという手続きが必要です。
油絵や日本画なら、気に入らなければどんどん加筆していけばよいのですが、版画はそうはいきません。
どこかで決断することが必要です。
そういう意味で、私は森さんは決断の人である、そして素晴らしいビジョン構想力と色彩感覚をお持ちの作家だと思う次第です。
それでは、森さんの個展の成功と、新春にお集りいただいた皆さんの今年一年のご健康をお祈りして、乾杯したいと思います。
おめでとうございます!
*************
*長年の友人であり、リトグラフ工房を主宰する森仁志さんが、「巨石遺跡カルナックを描く 森仁志作品展」を、2007年1月10日~15日の会期で、西武池袋本店6階の西武アートフォーラムで開いている。
森さんがご自分でも精力的に作品を作っていることはつい最近まで私は知らなかった。ここ数年のことらしい。
初日の夕刻、オープニングが開かれ、私も拙いスピーチをしたが、そのときの原稿です。
肝心の森さんの作品(リトグラフと油彩)についてはちっも触れず、原広司先生の建物の話ばかりになってしまいました。森さん、ごめんなさい。



1月10日個展会場での森夫妻(両端)と宮澤壯佳氏(前池田満寿夫美術館館長)、
右の写真は、カルナックの巨石を描いた特大サイズのリトグラフ。
下の写真は長野県坂城町にある森工房(原広司設計)の外観、食堂、茶室(いずれも森仁志著「大版画 モニュメンタル・リトグラフィー 1979-1999 森工房」求龍堂刊、より)



1981年11月森工房竣工記念パーティ、実際に刷られている作品は大沢昌助のリトグラフ。二階回廊の手摺から首を出し、指示しているのが大沢昌助先生。中央白シャツ姿で版を持ち上げているのが森さん。一番後方、左から三人目、まだ毛髪ふさふさマイクをもっているのが27年前のときの忘れもの亭主です。
本日は、森さん、個展の開催おめでとうございます。
カルナックの巨石群を描いたこの展覧会の作品を見て、ああこういう風景に森さんは感動したのか、とその原点を感じました。
世間的には、森さんは日本を代表するリトグラフのプリンター(刷り師)ということになっています。森さんの工房で制作された画家は、カトラン、ブラジリエ、カシニョールなど海外作家はもちろん、池田満寿夫、東山魁夷、岡本太郎、菅井汲、関根伸夫、三栖右嗣、大沢昌助、福沢一郎、舟越保武、難波田龍起など枚挙にいとまありません。
一度でも長野県坂城にある森工房に行かれた方なら、お分かりになると思いますが、森さんの版画工房は世界的に見ても素晴らしい版画の制作空間です。
竣工したのが1981年ですからもう27年、四半世紀たつわけですが、日本の建築史に残る傑作だと私は思います。
設計されたのは、東京大学名誉教授の原広司先生、あの京都駅やサッポロドームの巨大空間を設計された方です。
森さんの工房を設計されたのは、原先生がまだ無名とは申しませんが、ほとんど仕事がなかった頃です。その後、軽井沢の田崎広助美術館やヤマトインターナショナルで建築学会賞や村野藤吾賞を受賞され、大建築家の仲間入りをするわけですが、その若き日の原先生を見込んで、日本のどこにもないような、世界的にいっても見事な空間を施主としてつくることを決断されたことが、まずもって森さんの凄いところだと、私はかねがね尊敬しています。
というのは、今でこそ、長野の森工房は多くの作家たちが通い、森工房でしか制作できない2メートルを越す大版画を次々と生んできたわけですが、27年前は、信州の山あいの葡萄畑の中にぽつんと建築された、それこそ地元の人達にとっては何か風変わりなラブホテルでもできたんじゃあないかと誤解されるような建物でした。
話はちょっと遡りますが、私と森さんとはもう30年来のおつきあいになります。
最初は森さんがパリから帰ってきて東京の幡ヶ谷のマンションの一室でリトグラフの工房をやっていた頃の事です。
ある日、森さんが私の渋谷にあった事務所に訪ねて来られ、「パリにしばらく暮らして、あちらの版画工房もいろいろみて、日本にもきっと版画工房の時代がくると思って東京で版画工房をはじめた。でも東京の家賃は馬鹿高いし、もう東京の狭い空間で、インクだらけになり、安い刷り代できゅうきゅうとするのはいやになった。ふるさとの信州に帰り、あそこなら自分の土地があるので、思いきって広々とした工房をつくり、画家たちが泊まり込んで制作に専念できるようなものにしたい。しかし、信州の山の中まで作家がきてくれるか心配だ」という相談でした。
私もその話は素晴らしいと思い、応援しますと約束しました。私ができることといえば、版元として作家を口説き、信州の森工房にお連れすることでした。その後、大沢昌助先生や関根伸夫先生をお連れして森工房で私どものエディションを制作してもらいました。
そうして森さんは故郷に帰り、原先生を口説いて、大きなプレス機が入り、なおかつ2メートルもある版画が刷り上がったとき、上から見おろせるような天井高のある大空間の設計を依頼したのでした。
森さんは、この信州の工房でしかできない版画を構想されました。
具体的には、日本画の小松均先生から「畳一枚くらいスケールの大きな版画ができないか」と言われたのがきっかけだったようですが、どこにもないような巨大なプレス機を特注されました。
当時、版画のサイズというのは、当然紙のサイズと、プレス機のサイズに影響されますから、せいぜい90センチの大きさのものしかできなかった。それを森さんは、大空間をつくることにより、そして特注のプレス機を据え付けることで実現に向って歩き出しました。
それが27年前です。
森工房の素晴らしいのは、刷りの工房だけではなく、お茶室やゲストハウス、それから森さんの奥さんがつくる美味しいお料理を食べる事のできる食堂まで完備しています。
今まで、森工房で制作された画家たちは何十人にものぼるでしょうが、森さんが並みの刷り師と違うのは、ご自身がもともと絵を描いていただけあって、版画という制約の多い技法をいかに使いこなすかについて、実に適格なアドバイスができる点と、今日の作品をご覧になればおわかりの通り、素晴らしい色彩感覚をお持ちです。
私なりの言葉でいえば、版画というのは、どこかで作業を止めて、刷り上げるという手続きが必要です。
油絵や日本画なら、気に入らなければどんどん加筆していけばよいのですが、版画はそうはいきません。
どこかで決断することが必要です。
そういう意味で、私は森さんは決断の人である、そして素晴らしいビジョン構想力と色彩感覚をお持ちの作家だと思う次第です。
それでは、森さんの個展の成功と、新春にお集りいただいた皆さんの今年一年のご健康をお祈りして、乾杯したいと思います。
おめでとうございます!
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*長年の友人であり、リトグラフ工房を主宰する森仁志さんが、「巨石遺跡カルナックを描く 森仁志作品展」を、2007年1月10日~15日の会期で、西武池袋本店6階の西武アートフォーラムで開いている。
森さんがご自分でも精力的に作品を作っていることはつい最近まで私は知らなかった。ここ数年のことらしい。
初日の夕刻、オープニングが開かれ、私も拙いスピーチをしたが、そのときの原稿です。
肝心の森さんの作品(リトグラフと油彩)についてはちっも触れず、原広司先生の建物の話ばかりになってしまいました。森さん、ごめんなさい。
1月10日個展会場での森夫妻(両端)と宮澤壯佳氏(前池田満寿夫美術館館長)、
右の写真は、カルナックの巨石を描いた特大サイズのリトグラフ。
下の写真は長野県坂城町にある森工房(原広司設計)の外観、食堂、茶室(いずれも森仁志著「大版画 モニュメンタル・リトグラフィー 1979-1999 森工房」求龍堂刊、より)



1981年11月森工房竣工記念パーティ、実際に刷られている作品は大沢昌助のリトグラフ。二階回廊の手摺から首を出し、指示しているのが大沢昌助先生。中央白シャツ姿で版を持ち上げているのが森さん。一番後方、左から三人目、まだ毛髪ふさふさマイクをもっているのが27年前のときの忘れもの亭主です。
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