難波田龍起海の風

難波田龍起 Tatsuoki NAMBATA
「海の風」
  1977  etching(銅版刷り・木村茂)
  18.0×27.9cm
  Ed.35  Signed
  *レゾネNo.53

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

◆一昨日8日から始まった「難波田龍起展 没後10年ー未発表版画を中心に」の初日には難波田先生のご子息武男さんも見えられ、しばし思い出話にはなが咲きました。
今回の展示には油彩2点も出品していますが、ほとんどは私がエディションした版画です。ですから、一点一点に強い思い出があります。追悼文集に難波田龍起先生の銅版画と題して私の苦い失敗談を書いたことがありますが、ここでは今回の展覧会の出品作品について具体的に制作された経緯などを書いてみましょう。

私が経堂の難波田先生のお宅に初めて伺ったのは1977年でした。
当時、現代版画センターを主宰していた私は難波田先生に版画をつくってもらいたいと手紙を出したのですが、今思うと汗顔の至りですが、ご子息二人を相次いでなくされて間もない時期に一面識もない若僧の私がのこのこと出かけていったわけです。
現代版画センターは機関誌「版画センターニュース」(誌名はその後[Print Communication][Ed]と変るが、1975年2月から1985年1月まで通巻105号発行)を毎月出していました。その中の<事務局日誌>欄から難波田龍起先生関連の記事を抜き書きすると、

5月7日作品制作打合せの為難波田龍起先生訪問。
5月28日難波田龍起先生宅訪問。
6月4日作品打合せのため難波田龍起先生訪問。
6月6日刷り師赤川氏と難波田龍起先生訪問。
6月14日難波田先生を刷り師赤川氏と訪問、作品制作打合せ。
9月26日難波田龍起先生と共に奈良の木村茂先生訪問。
10月16日木村茂先生と難波田先生の銅版刷りについて打合せ。
10月17日難波田・木村両先生と会食、今後の銅版制作について話がはずむ。
11月5日ケン工房、山村氏より銅版受取り。難波田先生を訪ね制作打合せ。
11月21日木村茂先生より刷り上った難波田先生の作品届く。その作品を持って難波田先生宅へ。さっそくサイン入れ。

私の記憶も段々ぼけてきましたが、この日誌を読み返すと、最初は赤川勲さん(東京芸大で駒井哲郎先生に学び、赤川版画工房を主宰していた)に協力を求め難波田先生の版画エディションを企図したことがわかります。
しかし取りかかったはいいもののなかなかうまく行かず、赤川版画工房での制作を断念し、その頃私たちが親しくさせていただいていた奈良在住の銅版画家・木村茂先生に応援を求めたのでした。

木村先生は、既に銅版画家として高い評価を得ていました。売れない時代にアルバイトで他人の刷りを行なうことはあっても、当時の木村先生に刷りの仕事をお願いするなんてことは普通なら非常識の謗りをまぬがれません。ちょうど個展で上京されていた木村先生に銅版制作がうまく行かないと私が愚痴をこぼしたのでしょう。難波田先生を深く尊敬されていた木村先生が「それならぼくが手伝いましょう」と製版と刷りを自ら名乗りをあげてくれたのでした。

停滞していたエディションの制作が一気に進行し、現代版画センター初の難波田龍起エディションとして「海の風」「立ち話」「海辺」の3点の銅版画が「版画センターニュースNo.32」1977年11月号に発表されたのでした。

1977年11月21日にサインをされた「海の風」は木村先生の実に繊細な製版技術により、細かな線が生き生きと輝き、半年がかりの試行錯誤の末にやっと完成した秀作でした。
刷るインクも木村先生の進言でブルーが混じっています。

この作品以降、難波田先生の銅版制作への情熱が一気に燃え上がり、次々と作品が誕生します。
木村茂先生はこの後も難波田先生の銅版制作のサポートを申し出てくださったのですが、さすがに私たちとしては畏れ多くて、以後の銅版作品については山村常夫・素夫の双子兄弟に刷りをお願いすることになります。