久保貞次郎シール


「駒井哲郎を追いかけて」の連載もすっかり間があいてしまいました。
このコーナーだけでなく、ウォーホルも瑛九も、連載が中断したままで、怠慢を心よりお詫びする次第です。

以前ときの忘れものの掲示板で、瑛九や北川民次の作品に貼ってある久保貞次郎先生のシールのことが話題になりました。
そのときは「お答えします」なんて返事したような気がしますが、いつもの例であっという間に時間がたってしまいました。公約違反ばかりですいません。
「駒井哲郎を追いかけて」もこのままだと年を越しちゃいそうなので、苦し紛れに、駒井哲郎先生の作品にかこつけて、上述の久保シールについて書きましょう。

久保貞次郎先生は、人名事典風にいえば「美術評論家、大学教授、コレクター」ということになりますが、私たちにとっては「大画商、大版元」であり、ユニークな教師でした。
久保先生の授業ぶりについては別掲のエッセイをお読みいただくとして、なぜに「大画商、大版元」というかですが、先生はご自分が集めた絵画はもちろん、支持する作家に版画を作らせ、全国の配下を通じてそれを頒布する(私もその配下の末席におりました)、語学堪能、実に有能な実務能力抜群の偉大なディーラー、パブリッシャーでした。

以下のエピソードは以前にもどこかでご紹介したことがあるのですが、お許しください。
1984年3月27日の夜、湯島のホテル、東京ガーデンパレスで先生の著作集「久保貞次郎・美術の世界」の出版記念会が開催されました。
この著作集は叢文社が版元になって刊行が始まったのですが、この出版記念会の後に、叢文社が倒産してしまい、先生ご自身が「刊行会」という名前で出版を続行、完結されたものです。
この出版記念会の司会は私がしたのですが、挨拶に立った東京画廊の山本孝さんが「長年、久保先生にはお世話になっており、たくさんの作品を買わせていただきました。しかし久保先生にはいまだ一点もお買い上げいただいておりません。」という爆笑のスピーチをされました。
買わなかった理由ははっきりしていて、斎藤義重、関根伸夫、久野真、高松次郎といった東京画郎の作家たちには、久保先生は興味を示さなかった。どちらかというと南画廊、南天子画廊、飯田画廊あたりが先生の好みの作家を扱っていたわけです。
それにしても泣く子も黙る、天下の大画商、山本さんに絵を売りつけておきながら、ご自分は東京画郎からは一点も買っていなかったなんて、凄いですね。
それくらい、久保先生は、商売にたけていた。これは決して貶しているのではありません。
欧米の大画商を見ればわかるとおり、彼らはとんでもなく大金持ちです。資金力豊富、5年や10年平気で作品をもち続ける。私たちのような今月の給料をどうしようかと思い悩む貧乏画商など、画商の名に値しない。
日本の現代美術の画商さんたちが資金繰りに四苦八苦している時代に、久保先生は誰よりも資金力があり、即金で絵画を売り買いできる稀有な方でした。
私もお金に困ったらまず先生のところに作品を持って行き、それを買ってもらうのが常でした。

買うことはお金さえあればできる、久保先生の凄かったのは、それを大量に売りさばく独自の販売ルートを持っていたことです。
久保先生は本拠の栃木県真岡はもちろん、東京で頒布会を主催し、また全国の配下の教師たちに頒布会を開催させ、ご自分が集めた作品や、自らエディションした版画を大量に売りさばきました。
そのときに、作品に貼付したのが所謂「久保シール」です。
シールの形式は、一定していません。時代によって、変化しています。
北川民次の版画などは、ほとんど久保エディションでしたからそれ専用のシールをつくっていました。
変わらないのは、先生がご自身で印刷したガリ版だったことです。

掲載した写真は、1961年に真岡で頒布された駒井哲郎作品の額の裏です。
若い頃の久保先生は日本版画協会系統の作家は余りお好きではなかったようですが、駒井哲郎先生だけは別格で、高く評価し、創美のセミナーなどでは瑛九や池田満寿夫などと同じように駒井先生の水彩画を積極的に頒布されていました。
このシールで注目すべきは、朱印に「久保美術館」とあることです。私たちが真岡詣でを始めた1970年代にはギャラリーと称していた天井の高い、コレクションルームが、広いお屋敷の一角にありました。
そのギャラリー(私の記憶ではアトリエとも言っていました)を、1961年の時点では久保美術館と称していたのですね。

「駒井哲郎を追いかけて」の連載は、2007年は今回で終わりとします。来年はもっと心してかかります(例によって口先だけの公約か)。
ご意見、ご叱正のほどお願いいたします。

ときの忘れものでは、12月29日まで「恩地孝四郎と創作版画の作家たち」展を開催しています。