昨日は休日でしたが、汗をかきかき都内を歩きまわりました。
先ず、世田谷美術館での「ダニ・カラヴァン展」オープニングに出席。
日本でも北海道の札幌芸術の森、鹿児島の霧島アートの森、奈良県の室生山上公園芸術の森などで自然と歴史・記憶などに基づいた壮大な環境彫刻を作っているイスラエルの作家ですが(Dani KARAVAN、1930年生まれ)、私はまだ実物はひとつも見ていない。写真や映像でみるだけでしたが、空間を支配する力強い、洗練された作品に魅力を感じていました。
夫人やお嬢さんなど家族や知己に囲まれニコニコしているダニ・カラヴァンは一見どこにでもいるいいおじちゃんという感じ。もちろんそんなことはなくて、私は初めて見る若い頃の油彩、テンペラ、デッサン、版画(銅版)、グラフィック作品は、とても現在の作風からは想像もできない、素朴で、無骨なものでした。もし若い頃に彼に会っていたらその才能を見抜けたかしらと、画商として自信をなくしました。
新鮮だったのは舞台美術を随分とやってきたようで、それらの模型、フィルムなどが展示上映されていました。
ダニ・カラヴァンの全体を知るのには、なかなかいい企画だと思いましたが、やはり実物が見たい。北海道にいきたいですね。
レセプションで、司会が「本日はダニ・カラヴァンさんと親交のある衆議院議員柳澤伯夫・紀子ご夫妻が来ております、ご紹介します」などと無粋なことを言ったのですが、さすが柳澤さん、手を振って断固前に出なかった。いいですね、何でも選挙がらみにしてしまうどこかの議員さんとは違うセンスの良さを見せてくれました。
二階の収蔵品展では、懐かしい稲垣知雄先生の猫の版画や、難波田龍起先生の油彩が展示されていました。
世田谷からバス、電車を乗り継いで赤坂のホテル・ニューオータニへ。ガーデン・タワーの22,23,24階の全室を使って約60もの韓国と日本のギャラリーが出展する『アジアトップギャラリーホテルアートフェア2008』に行きました。
体調もあまりよくなかったので、行くかどうか迷ったのですが、韓国の某ギャラリーが小野隆生の作品を3点(40号を1点、6号を2点)も出品しているという情報があり、それでは行かずばなるまいと・・・。
エレベーターの前で偶然、安齊重男さんに会い、そのまま安齊さんの写真作品が展示してあるギャラリー現さんの部屋へ拉致されました。韓国への敬意をこめてか、ナム・ジュン・パイクを撮った写真がずらり展示してありました。70年代のアートシーンにおいては、安齊さんをいわゆる「写真家」と思っていた人はおそらくいないでしょう。むしろ彼は身内の助っ人でした。現代作家たちの展覧会に前日から泊り込みで会場に入り、作家とともに展示作業をする、やれやれと一段落すると、じゃあまあ皆で記念写真でも撮るか、というときに安齊さんがカメラを向けるのです。それは外部のカメラの目ではなく、作る側にいる人間の親しみや信頼をこめた、協働作業の仲間による撮影でした。だからこそ、あれだけの膨大な作家たちの写真を撮れた(今も撮り続けている)に違いありません。美術界、そして写真界は安齊さんの稀有な才能をもっと評価すべきだと私は思います。
なんてことを安齊さんと話しながら思い出したのですが、その後がたいへんだった。ニューオータニの三方に広がる通路をいきつ戻りつ、全室を駆け足で回ったのですが、小野隆生と安齊さん以外はほとんど記憶に残らない。皆、同じように若い作家たちの今風の作品を並べるだけ。私にはどれも同じに見えてしまう。さすが西村画廊さんとツァイトフォトサロンの石原さんの展示は見ごたえがありましたが・・・
さて、安齊さんの話が出たので、ついでといってはなんですが、ユージン・スミスの写真作品をご紹介します。
ユージン・スミス W.Eugene Smith
「ブルーノ・ヴァルター(指揮者)
Bruno Walter,from"Recording Artists"
LIFE,March 26,1951」
c.1947-51 Gelatin Silver Print
Image Size:22.6×33.2cm
Sheet Size:28.0×35.4cm
Stamped on the back *作品裏面にスタンプ押印
◆こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
◆W・ユージン・スミス(W. Eugene SMITH,1918~1978)
1918年米カンザス州生まれ。14歳頃から写真を撮り始め、1934年には地方新聞に写真が掲載される。1936年、成功者だった父が大恐慌と大かんばつで穀物相場に失敗して自殺、学校関係の写真を撮ることで奨学金を得て、大学に入る。1937年には『ニューズウィーク』誌の仕事を始める。1938年にはブラックスター・フォトエージェンシーに参加、多数の雑誌に寄稿。
第二次世界大戦に雑誌通信員として従軍。1945年、沖縄戦で重傷を負い、療養後『ライフ』誌と契約し、1940年代後半から1950年代半ばの全盛期の『ライフ』誌で数々のフォトエッセイの代表作を発表、人間性に対する問題の核心を突く。1960年代、日立製作所より撮影依頼を受け来日。1970年代前半は水俣に移り住み産業汚染の実態を記録、世界各国で大反響を呼ぶ。1978年10月、脳溢血で死去。
先ず、世田谷美術館での「ダニ・カラヴァン展」オープニングに出席。
日本でも北海道の札幌芸術の森、鹿児島の霧島アートの森、奈良県の室生山上公園芸術の森などで自然と歴史・記憶などに基づいた壮大な環境彫刻を作っているイスラエルの作家ですが(Dani KARAVAN、1930年生まれ)、私はまだ実物はひとつも見ていない。写真や映像でみるだけでしたが、空間を支配する力強い、洗練された作品に魅力を感じていました。
夫人やお嬢さんなど家族や知己に囲まれニコニコしているダニ・カラヴァンは一見どこにでもいるいいおじちゃんという感じ。もちろんそんなことはなくて、私は初めて見る若い頃の油彩、テンペラ、デッサン、版画(銅版)、グラフィック作品は、とても現在の作風からは想像もできない、素朴で、無骨なものでした。もし若い頃に彼に会っていたらその才能を見抜けたかしらと、画商として自信をなくしました。
新鮮だったのは舞台美術を随分とやってきたようで、それらの模型、フィルムなどが展示上映されていました。
ダニ・カラヴァンの全体を知るのには、なかなかいい企画だと思いましたが、やはり実物が見たい。北海道にいきたいですね。
レセプションで、司会が「本日はダニ・カラヴァンさんと親交のある衆議院議員柳澤伯夫・紀子ご夫妻が来ております、ご紹介します」などと無粋なことを言ったのですが、さすが柳澤さん、手を振って断固前に出なかった。いいですね、何でも選挙がらみにしてしまうどこかの議員さんとは違うセンスの良さを見せてくれました。
二階の収蔵品展では、懐かしい稲垣知雄先生の猫の版画や、難波田龍起先生の油彩が展示されていました。
世田谷からバス、電車を乗り継いで赤坂のホテル・ニューオータニへ。ガーデン・タワーの22,23,24階の全室を使って約60もの韓国と日本のギャラリーが出展する『アジアトップギャラリーホテルアートフェア2008』に行きました。
体調もあまりよくなかったので、行くかどうか迷ったのですが、韓国の某ギャラリーが小野隆生の作品を3点(40号を1点、6号を2点)も出品しているという情報があり、それでは行かずばなるまいと・・・。
エレベーターの前で偶然、安齊重男さんに会い、そのまま安齊さんの写真作品が展示してあるギャラリー現さんの部屋へ拉致されました。韓国への敬意をこめてか、ナム・ジュン・パイクを撮った写真がずらり展示してありました。70年代のアートシーンにおいては、安齊さんをいわゆる「写真家」と思っていた人はおそらくいないでしょう。むしろ彼は身内の助っ人でした。現代作家たちの展覧会に前日から泊り込みで会場に入り、作家とともに展示作業をする、やれやれと一段落すると、じゃあまあ皆で記念写真でも撮るか、というときに安齊さんがカメラを向けるのです。それは外部のカメラの目ではなく、作る側にいる人間の親しみや信頼をこめた、協働作業の仲間による撮影でした。だからこそ、あれだけの膨大な作家たちの写真を撮れた(今も撮り続けている)に違いありません。美術界、そして写真界は安齊さんの稀有な才能をもっと評価すべきだと私は思います。
なんてことを安齊さんと話しながら思い出したのですが、その後がたいへんだった。ニューオータニの三方に広がる通路をいきつ戻りつ、全室を駆け足で回ったのですが、小野隆生と安齊さん以外はほとんど記憶に残らない。皆、同じように若い作家たちの今風の作品を並べるだけ。私にはどれも同じに見えてしまう。さすが西村画廊さんとツァイトフォトサロンの石原さんの展示は見ごたえがありましたが・・・
さて、安齊さんの話が出たので、ついでといってはなんですが、ユージン・スミスの写真作品をご紹介します。
「ブルーノ・ヴァルター(指揮者)
Bruno Walter,from"Recording Artists"
LIFE,March 26,1951」
c.1947-51 Gelatin Silver Print
Image Size:22.6×33.2cm
Sheet Size:28.0×35.4cm
Stamped on the back *作品裏面にスタンプ押印
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◆W・ユージン・スミス(W. Eugene SMITH,1918~1978)
1918年米カンザス州生まれ。14歳頃から写真を撮り始め、1934年には地方新聞に写真が掲載される。1936年、成功者だった父が大恐慌と大かんばつで穀物相場に失敗して自殺、学校関係の写真を撮ることで奨学金を得て、大学に入る。1937年には『ニューズウィーク』誌の仕事を始める。1938年にはブラックスター・フォトエージェンシーに参加、多数の雑誌に寄稿。
第二次世界大戦に雑誌通信員として従軍。1945年、沖縄戦で重傷を負い、療養後『ライフ』誌と契約し、1940年代後半から1950年代半ばの全盛期の『ライフ』誌で数々のフォトエッセイの代表作を発表、人間性に対する問題の核心を突く。1960年代、日立製作所より撮影依頼を受け来日。1970年代前半は水俣に移り住み産業汚染の実態を記録、世界各国で大反響を呼ぶ。1978年10月、脳溢血で死去。
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