前回は名古屋ボストン美術館で9月28日まで開催中の「一俳人のコレクションによる 駒井哲郎銅版画展~イメージと言葉の共振~」に出品されている作品についてご報告しました。それらは、すべて駒井哲郎先生と親交した馬場駿吉氏の個人コレクションです。
点数は多くはありませんが、世田谷美術館に寄託されている福原コレクションとともに、駒井哲郎の世界を知る上で屈指の作品群であることは間違いありません。
作品の他に、実に貴重な資料が展示されていました。駒井哲郎先生から馬場駿吉氏に宛てた書簡2通です。こんな機会はめったにないと、私必死になってメモしてきました。
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◆1964年7月19日付書簡(封書の消印は7月20日)
拝復 過日はお手紙と一万円也お送り下さいまして有難うございました。
貴兄の句集のことはほんとうにのびのびになってしまひ申し訳ありません。先日森谷氏に電話して早くやるように言ってをきました。
小生もおかげ様でその後の経過も順調で日々良くなるように思います。この頃は毎日歩行訓練で汗を流しています。(中略)
御高著のこと遅くなって終いましたが一度森谷氏に来てもらって良く相談してから造本の方はやるようにします。ご安心下さい。
すっかりごぶさたして誠にすみませんでした。もうぢき元気になれそうです。
ではまた、お元気で。匆々 駒井哲郎
七月十九日
馬場様
◆1964年12月19日付書簡(封書の消印も12月19日)
その后お元気ですか。
今朝とても天気が良かったので先日の銅版画の原版を刷り余ったエプルーブを小包にして2㎞位のところに在る二等郵便局まで歩いて貴兄に送るために、散歩の練習のため行きました。そして帰えって来たら貴兄からのお手紙と現金を受け取りました。多すぎるようにも思い大変有難くなりました。将来なにかでおかえしすることに女房とも相談して今回は全額頂かしてもらいます。本当に有難うございました。
良い本が出来るよう念じています。
そろそろ仕事の欲が狂暴なくらいに出て来ました。しかしゆっくりと静かにやって行くつもりです。
ではまたお目に掛った機会に。御健康を祈っています。 哲郎
十二月十九日
馬場駿吉 様
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この手紙の書かれたのは東京オリンピックの年ですが、前年の1963年(昭和38)10月20日深夜、43歳の駒井哲郎先生は第二京浜国道で当時の人気歌謡グループ・マヒナスターズの楽器運送トラックにはねられ、両下肢骨折。都合3回の手術を受け、1年以上にわたり療養生活を余儀なくされました。世がオリンピック景気に沸きかえっているとき、駒井先生は心身ともにピンチを迎えていた。
この当時の一万円がどのくらいの価値か、若い方はおわかりにならないでしょうが、版画界のプリンスにして大スターだった駒井先生が決して恵まれた経済状態ではなかったことは想像できるでしょう。
私はこの年、高校を卒業して大学に入ったのですが、以後4年間を過ごしたのは群馬県の県人寮「上毛学舎」です。1年の頃の寮費がたしか二食付で3,600円でした。月1万円の仕送りがあれば何とか暮らせました。今に換算すると10数万円の感じでしょうか。
書簡にある「貴兄の句集」とは、馬場駿吉句集「断面」(昭森社)、「森谷氏」とは昭森社社主の森谷均のこと。駒井先生は馬場氏の求めに応じて、氏の句集に小さな銅版画を提供しました。私も以前扱ったことがありますが、小品ですが緊張感ある佳作です(レゾネNo.176 )。
名古屋ボストン美術館の案内には「名古屋在住の俳人で、芸術評論家としても活動している当館館長の馬場駿吉は、大学医学部の若き研究者だった1961年、市内の画廊が主催した個展で初めて駒井哲郎の作品を目にしました。そして、それまで味わったことのない衝動に駆られ、駒井の版画1点を購入します。それは馬場が生まれて初めて購入した美術品でした。その後、駒井自身とも知遇を得て、70点近くに及ぶ駒井作品のコレクションを築きました。馬場にとって彼の作品は現代美術への扉であると同時に、自らの俳句の源泉でもありま す。本展では、馬場の新旧の俳句を織り交ぜ、彼の目を通した駒井哲郎像、そして一俳人と銅版画家との領域を超えた響き合いを紹介します。」とあります。
因みに上記の名古屋<市内の画廊>とあるのは、鈴木佐平が経営していた「サカエ画廊」のことですが、今でもサカエ画廊のシールがついた作品が市場に出ることがあります。名古屋では先駆的な画廊でした。鈴木佐平については、中村稔著『束の間の幻影 銅版画家駒井哲郎の生涯』222ページには馬場駿吉氏の文章を引用して<名古屋市中区東田町にサカエ画廊を自営し、引き続き駒井作品を名古屋周辺へ熱心に紹介しつづけた慧眼の画商であったが、残念ながら経営上の破綻によってやがて画廊は閉ざされ、氏も消息を絶った>とあります。
話が別の方へ脱線してしまいましたが、心身ともに疲れていた駒井先生にとって、馬場駿吉氏の厚意はありがたいものだったに違いありません。
1980年の東京都美術館で開催された『駒井哲郎銅版画展』図録の巻末「年譜」(河合晴生・熊谷伊佐子・中島理寿 編)には、馬場駿吉句集「断面」の刊行は1964年11月となっていますが、上記の12月19日付の書簡を読むとまだ出来上がっていないようですね。これも後ほど追いかけてみましょう。
「そろそろ仕事の欲が狂暴なくらいに出て来ました」というのもようやく病が癒え、次のステップに向かう高揚感が出ています。
画家はカスミだけでは生きられない。定収入のない(大学の非常勤講師の謝礼がいかに安かったか、上記の中村稔著には具体的な数字をあげて論証しています)駒井先生を、馬場氏のようなコレクターの存在が物心ともに支えたのでしょう。身につまされる手紙ですね。
馬場コレクションについては、引き続き次回もご紹介します。ただし、ただいま「小野隆生新作展2008」を開催中で多忙な上、スタッフの三浦がのんきにヨーロッパ旅行に出かけてしまったので、なかなか書く時間がとれません。記憶が鮮明なうちにと思っているのですが、いつになることやら・・・どうぞお許しください。
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