6月26日から三ヶ月間、伊豆の伊東にある池田20世紀美術館で開催されてきた「小野隆生展 描かれた影の記憶 イタリアでの活動30年」も今日が最終日です。スタッフは今夜、撤収作業のため伊東に向かいます。
 ときの忘れものでの新作展は今週一杯、土曜日までやっていますが、画家はイタリアに戻りました。短い東京滞在の合間をぬってフェルメール展を見ていきましたが、かつてフェルメールの「剽窃断片図」を描いたこともあります。
 小野隆生は20歳でイタリアに渡って以来、数年に一度日本に来る(?)だけで、ほとんど彼の地の辺鄙な山岳都市のアトリエで制作を続けています。
 小野のように異郷にあって制作を続けるという作家というと、私は長谷川潔や国吉康雄、藤田嗣治らを思い出します。 
 長谷川潔は20世紀を代表する、否歴史上最も優れた銅版画家の一人といって過言ではないでしょう。メゾチントによる漆黒の世界も素晴らしいのですが、鋭いビュランで彫られた美しい裸婦も魅力的です。
 美術界に入った頃、銀座の大阪フォルム画廊で開催された長谷川潔展で多くの作品を見て感銘を受け、以後私は長谷川潔の作品を自分の版画評価の軸に据えてきました。
 フランスは長谷川潔の功績に対し、数々の勲章や栄誉をもって評価しました。対するに日本の国家はこの作家の顕彰になんら興味を示さなかった。私は一度もお目にかかる機会を得ませんでしたが、友人の森口多里先生の論文集刊行に際して、ご遺族(昆虫学者の長谷川仁さん)から木版の版木の提供を受け、後刷りを論文集に挿入することができました。このときのことはいずれ書いておきたいのですが、生前の森口先生や、永瀬義郎先生から長谷川潔についてお話をうかがうことはできたのは幸せでした。
 大正の中ごろフランスへ渡って以来、89歳で亡くなるまで、望郷の念にかられながらも遂に一度も帰国することのなかった友人のことを永瀬先生は涙を流しながら語るのでした。
長谷川潔水浴の裸婦
長谷川潔「坐る水浴の女」
 1926 engraving
 29.2×21.7cm
 Ed.30 他にEA
 スタンプサイン
 *レゾネNo.180

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長谷川潔(はせがわきよし)1891年(明治24年)、銀行家であった長谷川一彦の長男として横浜市に生まれる。裕福な家庭に育つが、1902年に父が、次いで麻布中学校卒業前に母・欣子が死去。虚弱体質であったため、好きであった美術の道へ進む。1910年(明治43年)麻布中学校を卒業。葵橋洋画研究所で黒田清輝から素描を、本郷洋画研究所で岡田三郎助、藤島武二から油彩を学ぶ。また、バーナード・リーチからエッチング技法の指導を受けた。1913年(大正2年)に文芸同人誌『仮面』に参加、表紙や口絵を木版画で制作する。1918年(大正7年)フランスへ渡航。版画技法の研鑽に励み、サロン・ドートンヌ等に出品。1925年(大正14年)初の版画の個展を開催。翌年サロン・ドートンヌ版画部の会員となり、パリ画壇で確固たる地位を築いた。その後の第二次世界大戦の勃発時にはフランス在住の多くの画家が帰国するが、長谷川はフランスに留まる。経済的にも苦難が続くが、銅版画技法を極め、自らが復活させたメゾチントの名作を数多く発表した。1980年(昭和55年)12月13日、パリの自宅で死去。享年89。渡仏してから一度も日本へ帰ることはなかった。