残念なニュースです。
 私の恩人は多々あれど、少年の頃出会った井上房一郎さんの存在はなんと言っても大きなものでした(このブログの人名のリンクにはときどきウィキペディアを使っていますが、井上さんに関しては記述が正確でないのであえて使いません。リンクをはったのは井上さんの最も近くにいた熊倉浩靖さんの書いた評伝です)。
 高校時代は音楽でお世話になり、後に美術業界に入る時も土方定一先生に引き合わせていただき、おかげで筋の良い多くの人々に出会うことができました。画商として南画廊の志水楠男さんに会うように勧めてくれたのも井上さんでした。志水さんに初めて会いに行ったのは1974年頃でしたが、そこに番頭としていらっしゃったのがつい先ごろ亡くなった佐谷和彦さんでした。後に独立して佐谷画廊を開きます。
 井上さんは群馬の名門企業である井上工業のオーナー社長でした。戦前ナチスドイツを逃れて来日したブルーノ・タウトを高崎で庇護し、戦後は群馬交響楽団の創設に尽力。歌舞伎の玉三郎の才能をいち早く見出し、若き磯崎新に本州で初めての建物をつくらせたのも井上さんでした。
 私の少年時代、井上工業という名は文化とイコールでした。
高崎高校一年のときの文化祭だったか、京都からノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士が来て、講演してくれたことがあります。湯川博士の言った言葉で二つだけ覚えています。「科学者の務めは何を発見するかではなく、何を選択するかだ」、そして「私が高校生の前で講演するのはこれが初めてです」。湯川博士をわざわざ田舎の高校の文化祭に引っ張りだしてくれたのも井上さんでした。井上さんは真の文化のパトロンでした。
 井上さん死して15年、創業120年の歴史を誇る井上工業が遂に破産してしまいました。バブル崩壊後、他のゼネコン同様、苦しい経営状態が続いていたことに加え、不祥事も続いたようです。
 軽井沢の久米権九郎設計の万平ホテル、佐藤功一設計の群馬会館、国の登録文化財にも指定されている高崎白衣大観音、レーモンド設計の群馬音楽センター、磯崎新設計の群馬県立近代美術館、その隣の大高正人設計の群馬県立歴史博物館、みんな井上工業が施工したものです。
 冒頭で、ウィキペディアの記述が正確ではないと申しましたが、井上さんが果たした役割については『パトロンと芸術家 井上房一郎の世界』という展覧会が群馬県立近代美術館で平成10年に開催されており、たしかその図録に磯崎新先生と山口昌男先生の対談が収録されていますので、興味のある方はご一読ください。
 今後どのような展開になるのかわかりませんが、解雇された従業員の皆さん、関連の企業の人々の苦難が少しでも軽くなることを祈るばかりです。
 井上工業はなくなっても、井上さんが残した遺産はそれぞれの分野で必ず大事にされ残っていくでしょう。私も微力ながら、井上さんの功績を伝えていきたいと思います。