五年前の昨日、Oさんが逝った。
知り合ってから30年、同世代の私の最大の理解者であり、パトロンだった。イタリアで制作する小野隆生先生の一番のコレクターでもあった。
 私たちの画廊は版画の版元でもある。一つのエディションが完成するまで通常で1年、長ければ数年かかる。大きなプロジェクトになると数千万円単位で資金が寝てしまう。私たちのような貧乏画商の資本ではとてもまかなえきれない。そこで事前に予約者を募り、資金を出していただくという方法をとる。オープニングの二次会などで「ワタヌキ被害者同盟会長のOです」と自己紹介していたように、Oさんがその最大の被害者だった。
 1983年にウォーホル展を企画し、版画「KIKU」「LOVE」連作をエディションしたときも真っ先に手を挙げてくれたのがOさんだった。ある企画を思いつくと先ずOさんに相談する、他の誰ものってくれなくてもOさんからOKさえ出れば、私には千人力だった。そうやって安藤忠雄先生の版画集も磯崎新先生の連刊画文集『栖十二』(後に住まいの図書館出版局で単行本になった)も実現した。それらのポートフォリオの謝辞のトップにはいつもOさんの名前が刻まれた。
 ある年の春、元気だったOさんが突然倒れ、意識不明で病院に担ぎ込まれた。葬式の用意までされたが奇跡の生還を果たした。その数ヶ月後、Oさんは全従業員を集め、父祖から受け継いだ会社をたたむことを宣言した。前の日「もし一人でも反対する社員がいたら」と眠れなかったと後で述懐されていた。経営者としては実に堅実な方だった。構造不況の繊維産業界でバブルに踊らされ悲惨な末路をたどった同業者を多く見てきたOさんの熟慮の末の決断だったのだろう。従業員には十分な退職金を払い、得意先には丁寧に後始末をつけ、実に見事な潔い進退だった。本社の建物をマンションに建て替え、ご家族の将来を保証した。健康の問題がもちろんあったがOさんは会社をやめる理由を「ボクは(仕事がなくても)、死ぬまで遊ぶ自信ができたから」と語った。仕事は一人でもできるが、遊びは一人ではできない。歌舞伎、カーレース、音楽、多くの友人に愛されたOさんの死を予感しての言葉だったかも知れない。それを聞いた私は不遜にもOさんに絵を売ることだけで残りの人生を送ろうと本気で思った・・・・。Oさんの遊び相手の一人として一生を送れれば本望だ。しかし、遊んでもらえる時間はそう多くは残されていなかった。
 お正月の代々木公園でのシルク・ド・ソレイユの公演を一緒に行く約束をしながら、クリスマスの直前、クリスチャンだったOさんは逝ってしまった。残された私はしばらく何も手がつかなかった。芸術にはパトロンが必要である、それは何も経済的な意味ばかりではない。ドンキホーテのような孤独で心細い道を歩む作家にとっても、その横をよろめきながら伴走する貧乏画商にとっても、出来上がった作品を誉め、あるいは批評し、勇気を与えてくれる精神的存在がパトロンなのである。
 世界的な大企業があっという間に赤字に転落し、規制緩和、構造改革の名の下に大量に生み出された契約社員たちが何の暖かな配慮もされずに寒風の中に放り出される。日本はこんな社会になってしまったのか。Oさんだったら何と言うだろう。毎月御用聞きに伺い、そのときどきの世情について話をするのが30年間の倣いだったが、いま私にはそういう人はいない。