昨夕、福井県勝山からコレクターの荒井さんが久しぶりに来廊され、青山で一番美味しいお蕎麦屋さんで旧交をあたためました。
荒井さんに初めて絵を買っていただいたのは今から35年ほど前、メグゼッパーの銅版画でした。それも注文はニューヨークから。家業の繊維会社を継ぐ前に商社に修行に出ていて、ちょうどアメリカ勤務のときでした。
亭主が画商になったのは1974年ですが、それからずっと買い続けてくださっているお客様はもう数人しかおりません。
ありがたいことに荒井さんはそのおひとりです。
さて、毎年4月2日の高村光太郎の命日に連翹忌に出席していることは、このブログでも2008年と、2006年にも書きました。
今年も4月2日に社長と二人で日比谷・松本楼に向かい第54回連翹忌に出席しました。
年々、光太郎を直接知る人が少なくなっていく中で、北川太一先生はじめ、水野清さん(葉舟の子息)、中西利一郎さん(中西利雄の子息)たちの語る光太郎像は胸をうちます。語り継ぐことの大切さを感じます。
(挨拶する北川太一先生)

お父上が光太郎に私淑し、父の語る光太郎の言葉で育ったという女優の渡辺えりさんも出席、幼い頃は光太郎をおじいちゃんと思っていたと語り、会場をわかせました。
いま晩年の高村光太郎を主人公とする戯曲を構想中とか。来年3月の公演が楽しみです。もちろん渡辺さんのことですから、奇想天外な物語でしょうね。
連翹忌のことを二週間もたってから書くのには理由があります。
今からちょうど100年前の今日、1910年(明治43)4月15日は、高村光太郎と弟の高村道利が東京・神田淡路町に日本で初めての近代的ギャラリーを開廊した日なのです。
1909年7月にフランスから帰国した光太郎が「美術の陳列店」を開くという噂は早くから若い芸術家たちの間を駆け巡り、期待されていたようです。
店の名前は「琅玕洞(ろうかんどう)」といいました。
この画廊は短命で終わったのですが、正宗得三郎を皮切りに一年の間に柳敬介、斎藤与里らの個展や、石井柏亭の名作版画「東京十二景」などの頒布会も組織されました。
論客・彦坂尚嘉さんが執筆陣に加わり、その後回収騒ぎを起こした名著「日本洋画商史」の序文で東京画廊の山本さんは、美術商の祖を千利休と喝破していますが、同時代の未知の美を人々に知らしめようとした高村光太郎は、私たち現代の画廊のまさに先駆けでした。
その志を少しでも継いでいければと思う次第です。
亭主の画商暦は途中中断があるものの36年。
「ときの忘れもの」の歴史は僅か15年、1995年6月5日がオープンの日でした。
第一回展は難波田龍起先生をはじめとする私たちのコレクション展でした。
ご存知の方もいるでしょうが、難波田先生が生涯私淑したのが高村光太郎でした。

難波田龍起「聖堂」
1978年 カラー銅版
28.0×18.0cm Ed.35 サインあり

難波田龍起「秋のファンタジー」
1993年 水彩・パステル
37.5×53.0cm(P10号) サインあり
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荒井さんに初めて絵を買っていただいたのは今から35年ほど前、メグゼッパーの銅版画でした。それも注文はニューヨークから。家業の繊維会社を継ぐ前に商社に修行に出ていて、ちょうどアメリカ勤務のときでした。
亭主が画商になったのは1974年ですが、それからずっと買い続けてくださっているお客様はもう数人しかおりません。
ありがたいことに荒井さんはそのおひとりです。
さて、毎年4月2日の高村光太郎の命日に連翹忌に出席していることは、このブログでも2008年と、2006年にも書きました。
今年も4月2日に社長と二人で日比谷・松本楼に向かい第54回連翹忌に出席しました。
年々、光太郎を直接知る人が少なくなっていく中で、北川太一先生はじめ、水野清さん(葉舟の子息)、中西利一郎さん(中西利雄の子息)たちの語る光太郎像は胸をうちます。語り継ぐことの大切さを感じます。
お父上が光太郎に私淑し、父の語る光太郎の言葉で育ったという女優の渡辺えりさんも出席、幼い頃は光太郎をおじいちゃんと思っていたと語り、会場をわかせました。
いま晩年の高村光太郎を主人公とする戯曲を構想中とか。来年3月の公演が楽しみです。もちろん渡辺さんのことですから、奇想天外な物語でしょうね。
連翹忌のことを二週間もたってから書くのには理由があります。
今からちょうど100年前の今日、1910年(明治43)4月15日は、高村光太郎と弟の高村道利が東京・神田淡路町に日本で初めての近代的ギャラリーを開廊した日なのです。
1909年7月にフランスから帰国した光太郎が「美術の陳列店」を開くという噂は早くから若い芸術家たちの間を駆け巡り、期待されていたようです。
店の名前は「琅玕洞(ろうかんどう)」といいました。
この画廊は短命で終わったのですが、正宗得三郎を皮切りに一年の間に柳敬介、斎藤与里らの個展や、石井柏亭の名作版画「東京十二景」などの頒布会も組織されました。
論客・彦坂尚嘉さんが執筆陣に加わり、その後回収騒ぎを起こした名著「日本洋画商史」の序文で東京画廊の山本さんは、美術商の祖を千利休と喝破していますが、同時代の未知の美を人々に知らしめようとした高村光太郎は、私たち現代の画廊のまさに先駆けでした。
その志を少しでも継いでいければと思う次第です。
亭主の画商暦は途中中断があるものの36年。
「ときの忘れもの」の歴史は僅か15年、1995年6月5日がオープンの日でした。
第一回展は難波田龍起先生をはじめとする私たちのコレクション展でした。
ご存知の方もいるでしょうが、難波田先生が生涯私淑したのが高村光太郎でした。

難波田龍起「聖堂」
1978年 カラー銅版
28.0×18.0cm Ed.35 サインあり
難波田龍起「秋のファンタジー」
1993年 水彩・パステル
37.5×53.0cm(P10号) サインあり
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