群馬県立近代美術館での白井晟一展(3) 植田実
白井晟一の建築は難しい。怖い。だからほかのどの建築家にもまして魅せられてしまう。直接五感に迫ってくる迫力のために、とくに内面の部分に喰いこんでくるから彼を理解できるのは自分ひとり、みたいな厄介な気分にたぶん誰もが追いこまれてしまう。難しく怖いほど安易に形容してしまう危険もある。孤高の、素材や形の扱いが寡黙な、反時代的な、とか。そういう先入観に陥ったまま現代建築の状況のなかに彼を位置づけようとすると、とんでもない通俗的な図式から脱け出せなくなる。
一般的にいっても建築展というのは面倒だ。そこに実物はなく情報だけがあるのが普通で観客は想像力を動員せざるを得ない。建築のモダニズムとはむしろ情報を十全に活かすことで伝達できるという思想かもしれない(あ、自分で通俗的な図式に入りこんでいる)。白井の建築を写真や図面から理解するために、さらには書や装丁の仕事も本質的な軸をおいて建築家という人格を立ち上げるために、それらをあるがままに見なければならない。その回路を磯崎の文章はじつに分かりやすく教えてくれたと、私は思っている。たとえば写真で言うと、一作品につき数点の写真ではその全容を復元できないが、前に触れた磯崎の分類による「シーン」と考えれば見え方は変わってくる。しかもそれは写真家が自分の自由な視線を強調するようにシーンを拾い上げた写真より、建築写真を専門とする立場で可能な限り客観的にあるいは学術的に建築空間を再現しようと試みた写真(たとえば村井修の)に、建築家の「緊迫」を感じる。彼等はそのとき自分の写真作品をつくっているのではなく、白井の精神を伝えたいとだけ念じているからで、その、いわば完全には果せるはずのない緊迫が見る者にも伝わってくる。その瞬間、写真はたんなる情報ではなくなる。唐突な例えだがヴィルヘルム・ハンマースホイの、椅子やテーブルやピアノがどこか不穏な、本来のありようを切り取られたかたちで完結的に描かれる室内風景を思い出させる。
こうした白井の建築の根底にあるものを、不可知な層として肉づけするのではなく、あくまで徹底して解析しているのが磯崎の白井晟一論である。とりわけ「フラッシュバック」は、論というよりはスリリングな物語の断片集になっている。それは精緻を極めるほどにむしろ官能性を帯び、白井の作品にとどまらず歴史的な建築をも同格な感性に染めかえられていく。そのように白井晟一の全体像が蘇ってくる。
磯崎の文章だけに終始してしまったが、さきにことわったように展示を見る下準備として、とくに建築専門外の人にとっては彼の考察を読んでおくことが有効なのではないかと、それだけを言いたいのだ。なんといってもその会場である美術館はほぼ35年前、磯崎の設計により出現したものだし、彼の建築のなかでもとりわけ謎めいた不可視の空気に満たされているので、今回の展覧会にいかにも相応しい。できれば常設展示室にもあらためて訪れたいと思いつつ、あわただしく帰京してしまった。もう少し時間に余裕を見ておくべきだった。


左)群馬県前橋市の煥乎堂書店(玄関)
右)煥乎堂書店

煥乎堂書店


群馬県松井田町役場


左)装丁のコーナー、『恩地孝四郎版画集』
右)書のコーナーにて植田実さん


左)美術館前庭にて植田実さん
右)宮脇愛子の彫刻作品「うつろひ」

群馬県立近代美術館のエントランスホール
*画廊亭主敬白
3回にわたった植田実さんの「建築家 白井晟一 精神と空間」展の観覧記はいかがでしたでしょうか。
同展は高崎市の群馬県立近代美術館で11月3日まで開催されています。
尚、掲載写真は全て亭主のピンボケ写真です(9月10日撮影)。
白井晟一の建築は難しい。怖い。だからほかのどの建築家にもまして魅せられてしまう。直接五感に迫ってくる迫力のために、とくに内面の部分に喰いこんでくるから彼を理解できるのは自分ひとり、みたいな厄介な気分にたぶん誰もが追いこまれてしまう。難しく怖いほど安易に形容してしまう危険もある。孤高の、素材や形の扱いが寡黙な、反時代的な、とか。そういう先入観に陥ったまま現代建築の状況のなかに彼を位置づけようとすると、とんでもない通俗的な図式から脱け出せなくなる。
一般的にいっても建築展というのは面倒だ。そこに実物はなく情報だけがあるのが普通で観客は想像力を動員せざるを得ない。建築のモダニズムとはむしろ情報を十全に活かすことで伝達できるという思想かもしれない(あ、自分で通俗的な図式に入りこんでいる)。白井の建築を写真や図面から理解するために、さらには書や装丁の仕事も本質的な軸をおいて建築家という人格を立ち上げるために、それらをあるがままに見なければならない。その回路を磯崎の文章はじつに分かりやすく教えてくれたと、私は思っている。たとえば写真で言うと、一作品につき数点の写真ではその全容を復元できないが、前に触れた磯崎の分類による「シーン」と考えれば見え方は変わってくる。しかもそれは写真家が自分の自由な視線を強調するようにシーンを拾い上げた写真より、建築写真を専門とする立場で可能な限り客観的にあるいは学術的に建築空間を再現しようと試みた写真(たとえば村井修の)に、建築家の「緊迫」を感じる。彼等はそのとき自分の写真作品をつくっているのではなく、白井の精神を伝えたいとだけ念じているからで、その、いわば完全には果せるはずのない緊迫が見る者にも伝わってくる。その瞬間、写真はたんなる情報ではなくなる。唐突な例えだがヴィルヘルム・ハンマースホイの、椅子やテーブルやピアノがどこか不穏な、本来のありようを切り取られたかたちで完結的に描かれる室内風景を思い出させる。
こうした白井の建築の根底にあるものを、不可知な層として肉づけするのではなく、あくまで徹底して解析しているのが磯崎の白井晟一論である。とりわけ「フラッシュバック」は、論というよりはスリリングな物語の断片集になっている。それは精緻を極めるほどにむしろ官能性を帯び、白井の作品にとどまらず歴史的な建築をも同格な感性に染めかえられていく。そのように白井晟一の全体像が蘇ってくる。
磯崎の文章だけに終始してしまったが、さきにことわったように展示を見る下準備として、とくに建築専門外の人にとっては彼の考察を読んでおくことが有効なのではないかと、それだけを言いたいのだ。なんといってもその会場である美術館はほぼ35年前、磯崎の設計により出現したものだし、彼の建築のなかでもとりわけ謎めいた不可視の空気に満たされているので、今回の展覧会にいかにも相応しい。できれば常設展示室にもあらためて訪れたいと思いつつ、あわただしく帰京してしまった。もう少し時間に余裕を見ておくべきだった。


左)群馬県前橋市の煥乎堂書店(玄関)
右)煥乎堂書店

煥乎堂書店


群馬県松井田町役場


左)装丁のコーナー、『恩地孝四郎版画集』
右)書のコーナーにて植田実さん


左)美術館前庭にて植田実さん
右)宮脇愛子の彫刻作品「うつろひ」

群馬県立近代美術館のエントランスホール
*画廊亭主敬白
3回にわたった植田実さんの「建築家 白井晟一 精神と空間」展の観覧記はいかがでしたでしょうか。
同展は高崎市の群馬県立近代美術館で11月3日まで開催されています。
尚、掲載写真は全て亭主のピンボケ写真です(9月10日撮影)。
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