大竹昭子のエッセイ「レンズ通り午前零時」

2.正面を切らずにいられない


NY29

《雪の閑地 1980年》

 写真を撮りはじめたのは秋口だったが、それはニューヨークの光に大いに関係があったのかもしれない。夏場は大都市特有の通気の悪さとむし暑さにみまわれ、しかも暑いだけでなく臭いがすごく、地下鉄に乗るときは息をとめて覚悟して改札に下りていったものである。不用意に下りると階段のあたりにこもっている汚物のにおいにノックアウトされるのだ。
 そんな強烈な臭気も暑さが引くとともに収まってくる。乾いた大気が肌に心地よく空は高く澄んでいる。やがて街路樹が色づいて舗道の落ち葉がかさこそと鳴り、屋台のプレッツェルのにおいがそれに混じる。なぜだか、塩味の利いたこの固焼きパンのにおいは秋の到来とともに強まるのだ。日本のやきいも屋のように。
 頭上にあるときには感じなかった影の濃さが際立ってくる。よく切れるナイフですぱっと切りとったような漆黒のシルエット。曖昧さのない光と影の領域が立ち上がり、その陰影のリズムが弛緩していた細胞を引き締め活性化する。醜く愚鈍に見えていた鋳鉄のビル群がとても魅了的に目に映るようになった。むさ苦しいと思っていた男がにわかに頼もしく変身したかのようで、質実剛健な容姿に思わず立ち止まって見惚れたのだった。
 当時撮ったカットには建物のファサードや壁が目立つが、汚ならしく見えたその姿に美を発見した証拠だろう。着いた当初はちっともそう感じなかったのは、ニューヨークに来る前に一夏をすごしたフランスやイタリアの華麗な建物がまぶたに残っていたからかもしれない。それらに比べるとニューヨークのダウンタウンの建物はひどく武骨で無愛想でとりつく島がなかったが、魔術的な光の力によって誇り高く輝きだしたのである。

NY11

《セントマークス通りの壁 1980年》 

 街を歩くときはあらかじめ撮りたいものがあって歩くのではなかった。歩いている途上でなにかおもしろいものに出会えればという運任せの歩行だった。心身が開いていれば出会いが出会いを引き寄せ、運もまた上向きになるのは人生を考えてみればよくわかることだが、路上のスナップもまったく同じ原理だった。生命のリズムと視覚の反応がうまくシンクロすると撮れる状態がやってくるのである。冬にちかづくにつれ鋭い光と濃い影と乾いた空気がからだに効いてくるのがわかった。
 気になるものが視界に入ると寄っていってファインダーをのぞく。ガシャンという一眼レフ特有の音が響いて目の前の風景が一瞬断ち切られる。なんどもそうやって風景にシャッターを切っていくうちに気づいたことがあった。なにをどう撮るのも自由で決まりことなどないのに、ピピッとくるアングルがいつも同じなのだ。またこう撮っているなとファイダーをのぞきながら思い、ちょっと変えてみようとするが、やはり前のほうがよくていつもの画角にもどってしまう。犬が電信柱におしっこをひっかけるときに脚の上げ方や柱に残ったおしっこの形に一定のパターンがあるようなものだ。犬族はそんなことには目もくれずに、ああすっきりしたとばかりにすたすたと歩き去るのだが、人間である私は気に留めずにいられない。撮影のときにちらっと気にし、あとでプリントを見るときにもっと気にしてしみじみと反芻するのだった。なぜいつも同じようなアングルで撮るのだろうと。
 私のパターンは正面を切ることだった。レンズ面と被写体の「面」とを正対させる癖がある。この「面」は感覚でしかなく言葉でうまく説明できないのだが、壁のような文字通りの平たい「面」のこともあれば、複雑な突起のなかに「面」を見いだすこともある。風景の「面」とレンズの「面」とピタッと合うととても気持ちが良い。今日は調子がいいなと思うときはこの「面」が瞬間的につかめるときであり、レンズをあれこれ動かして「面」を探すときはだめな日である。油絵で満足に描けなかった箇所をぐちゃぐちゃと直すのと同じでアングルをいじるうちに気持ちが萎えてしまうのだ。反対に「面」がすばやくつかめるときは、何にレンズを向けても決まる。そして決まったという手応えがつぎのシャッターの弾みとなり、どんどん快調になっていく。それはほかのどんなものでも体験したことのない自分が自分でなくなるような魅惑的な身体感覚だった。(おおたけ あきこ)

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