美術展のおこぼれ 5
「白洲正子―神と仏、自然への祈り」
会期:2011年3月19日―5月8日
会場:世田谷美術館
かなり複雑な展示構成である。前以て内容を確認しないまま行ったので、白洲正子の旧所蔵品を集めたのか、それとも彼女の評価する神仏像や絵画の展覧会なのか知らなかったのだが、そのどっちもだった。それに加えて、白洲のエッセイからの抜き書きが400字づめの原稿用紙に書かれたような体裁で展示品のあいだを埋めている。それを主軸にして見ると、大小の像や古面や絵巻物や屏風(国宝6点、重文30点近く)が豪華すぎる挿絵みたいに思えてきて、展示物そのものを観賞するには集中しにくいし、といって文章を説明として読むにはちょっと落ちつかない。第一、白洲ファンが大勢押しかけているのでゆっくりと立ちどまっている余裕がない。各展示ブロックの節目には大きな写真や映像までが演出に一役買っている。
いいかえれば企画側の思い入れや熱意が否応なく伝わってくる。展示物を通して白洲のスケールの大きさ、ものを見る眼の自由闊達さ、端的にはどこか豪快かつゴージャスなものへの好みも感じられてくる。多様な展示要素は、著作集か雑誌の特集のような効果を狙っているともいえる。全体は「自然信仰」「かみさま」「西国巡礼」「近江山河抄」「かくれ里」「十一面観音巡礼」「明恵」「道」「修験の行者たち」「古面」の10ブロックに分けられている。この区切りかたもユニークだ。来場者はそれぞれ自分なりに見ていくペースをつかめれば、十分に楽しむことができるだろう。
図録を買って帰宅してから開いてみると、こちらもまたユニークな造りである。上に挙げた10ブロックを10の冊子と別冊、そして解説の冊子と、12の分冊にしてケースに納めている。一見、気取っているように見えるが読みやすい。写真は大きくてきれいな印刷だし、それに組み合わせた白洲のエッセイのハイライトをゆっくり読むことができる。彼女の「神と仏、自然への祈り」の主体性と深みが届いてくる。たとえば、
「神仏の混淆は、宗教の世界だけの出来事ではない、一回きりの事件でもない、あらゆる時代に、あらゆる所で行われた、和魂洋才の表現であった。」
「信心深い人々にとって、仏像を見ることは問題ではなく、見たら目がつぶれると信じているに違いない。日本の文化財を護って来たのはそういう人達であることを、せめて私は忘れたくないと、その度毎に思うのである。」
一瞬にして啓示される指摘は、いたるところにある。
このなかに『木―なまえ・かたち・たくみ』からの引用もあったのが嬉しかった。私がいまも関わっている住まいの図書館出版局から刊行された「住まい学大系」005巻(1987年)がこの本である。本が出来たときに武相荘にお礼にうかがった。白州さんは木の葉一枚だけで構成されたジャケット・デザインについて、すこしさびしいというようなことを言われ、私は企業のPR誌みたいに賑やかなデザインが好きだな、ともおっしゃった。この訪問でそれがいちばん記憶に残っている。今回の展覧会場で、あの時の白洲さんの眼差しが強くよみがえってきた。
(2011.4.11 うえだまこと)


「白洲正子―神と仏、自然への祈り」
会期:2011年3月19日―5月8日
会場:世田谷美術館
かなり複雑な展示構成である。前以て内容を確認しないまま行ったので、白洲正子の旧所蔵品を集めたのか、それとも彼女の評価する神仏像や絵画の展覧会なのか知らなかったのだが、そのどっちもだった。それに加えて、白洲のエッセイからの抜き書きが400字づめの原稿用紙に書かれたような体裁で展示品のあいだを埋めている。それを主軸にして見ると、大小の像や古面や絵巻物や屏風(国宝6点、重文30点近く)が豪華すぎる挿絵みたいに思えてきて、展示物そのものを観賞するには集中しにくいし、といって文章を説明として読むにはちょっと落ちつかない。第一、白洲ファンが大勢押しかけているのでゆっくりと立ちどまっている余裕がない。各展示ブロックの節目には大きな写真や映像までが演出に一役買っている。
いいかえれば企画側の思い入れや熱意が否応なく伝わってくる。展示物を通して白洲のスケールの大きさ、ものを見る眼の自由闊達さ、端的にはどこか豪快かつゴージャスなものへの好みも感じられてくる。多様な展示要素は、著作集か雑誌の特集のような効果を狙っているともいえる。全体は「自然信仰」「かみさま」「西国巡礼」「近江山河抄」「かくれ里」「十一面観音巡礼」「明恵」「道」「修験の行者たち」「古面」の10ブロックに分けられている。この区切りかたもユニークだ。来場者はそれぞれ自分なりに見ていくペースをつかめれば、十分に楽しむことができるだろう。
図録を買って帰宅してから開いてみると、こちらもまたユニークな造りである。上に挙げた10ブロックを10の冊子と別冊、そして解説の冊子と、12の分冊にしてケースに納めている。一見、気取っているように見えるが読みやすい。写真は大きくてきれいな印刷だし、それに組み合わせた白洲のエッセイのハイライトをゆっくり読むことができる。彼女の「神と仏、自然への祈り」の主体性と深みが届いてくる。たとえば、
「神仏の混淆は、宗教の世界だけの出来事ではない、一回きりの事件でもない、あらゆる時代に、あらゆる所で行われた、和魂洋才の表現であった。」
「信心深い人々にとって、仏像を見ることは問題ではなく、見たら目がつぶれると信じているに違いない。日本の文化財を護って来たのはそういう人達であることを、せめて私は忘れたくないと、その度毎に思うのである。」
一瞬にして啓示される指摘は、いたるところにある。
このなかに『木―なまえ・かたち・たくみ』からの引用もあったのが嬉しかった。私がいまも関わっている住まいの図書館出版局から刊行された「住まい学大系」005巻(1987年)がこの本である。本が出来たときに武相荘にお礼にうかがった。白州さんは木の葉一枚だけで構成されたジャケット・デザインについて、すこしさびしいというようなことを言われ、私は企業のPR誌みたいに賑やかなデザインが好きだな、ともおっしゃった。この訪問でそれがいちばん記憶に残っている。今回の展覧会場で、あの時の白洲さんの眼差しが強くよみがえってきた。
(2011.4.11 うえだまこと)


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