美術展のおこぼれ34
「大エルミタージュ美術館展 世紀の顔・西欧絵画の400年」
会期:2012年4月25日(水)―7月16日(月)
会場:国立新美術館
会場を巡っているうちに、これまでにない、思いがけない気分に襲われた。
正直言って、このような大展覧会は自分が感想を書く余地などまったくなく、見るだけは見ておこうというていどで出掛けて行くことが多い。ヨーロッパやアメリカの有名美術館の所蔵品をまとめて借り出し、それでひとつの企画展とする。巡回展ができるような規模と正統的な構成で、そのなかに2、3の目玉作品が欠かせない。つまりはできるだけ日本未公開の実物を招聘して、一般の美術ファンにも広く西欧美術史を学んでもらうという企画が長年重ねられてきているが、かつて大学受験を機に東京に帰ってくるなり京橋のブリヂストン美術館にかけつけて、本物のドガやマネにやっと出会えて感きわまった1950年代はじめの頃に比べて、いま自分がいる場所と時代はなんて恵まれているんだろうと思う。
けれどもそこそこの美術好きにとっては恵まれすぎて猫に小判でもある。西欧美術史上スーパースターの絵はこころして見るが作品解説につい頼っているし、そのあいだを埋める同時代や同じジャンルの作品については画家の名前を覚えることさえ並大抵ではない。西欧美術史のはかり知れない広がりだけが迫る。とくに今回のはタイトルからして「大」が付き、「400年」がそれに輪をかけている。
ところが会場で16世紀の部屋から順に20世紀の部屋までたどっていくあいだ、「思いがけない気分」になったのは、そこに並べられているのがどれも建築空間、あるいは邸宅空間として見えてきたからだった。
共有認識へと向かう各時代の、新しい写実とスタイルを模索する画家たちの絵が自立した美術、というよりは、これらの絵を身近に置いて日々愉しんだにちがいない人々の生活空間がありありと想像されてくる。ならばそれらの多くは注文を受けて描かれたものでもあるにちがいない。受注生産となれば建築設計と同じである。なかにはもっと具体的に、わが家の食堂の、あるいは居間のこの壁に懸ける絵を、という注文もあっただろう。いったんそう思いはじめるとここにある絵のすべてに、私的あるいは半・私的な出自を色濃く感ぜずにはおれなくなってくる。となると俄然展覧会全体がおもしろく見えてきた。
今回に限ってなぜそういう気分になったのか、理由はよくわからない。たとえば18世紀の部屋の風俗画や貴婦人の肖像画はいかにも発注されたものだが、そういう絵はこれまでにいくらでもあった。逆にいえば今回は、19世紀のシスレーやモネ、20世紀のドランやマティスでさえ、作品そのものよりそれが飾られていた部屋を想像したくなるような気分があるのだ。作品の選択がよほど巧妙なのか、あるいは作品のわきに掲げられた解説がそれとなくその方向に誘導しているのか。
ジャン・ユベールの≪ヴォルテールの朝≫≪植樹するヴォルテール≫で意識が開かれたのかもしれない。題材が愉快だし、解説によると、ヴォルテールと親交のあったエカテリーナ2世がこの連作の完成をしびれを切らして待っていたという。まったく住宅の建て主みたいだ。
そのほかで私のイチオシは、ルイ=レオボール・ボワイーの≪ビリヤード≫(1807)である。不思議な絵で、34、5人がビリヤード台を囲んでいるが彼等の視線は徹底してテンデンバラバラ。肝心の球を突こうとしている人物は白いランジェリードレスの若い女で、しかも後ろ姿。その球が画面のほぼ中心にあるが、そこに視線を強く集中しているのは彼女の左隣のやはり同じ衣裳、同じ年頃の女くらいで、これも横顔しか見えない。あとの男や女は、見てはいてもすぐに視線を外してしまいそうだし、まるで無関係に赤ん坊に乳をやる女がいたり勝手に遊んでいる子どもたちがいたりで、中心性を絵の主題にしながらその中心は虚になっている。男たちの黒々とした服装のなかで白く輝くランジェリードレスはとびきりいかがわしい。とても現代的といえる絵なのだ。
会場はさきにちょっと触れたが、16世紀、17世紀、18世紀、19世紀、20世紀と、壁の色を変えた5つの部屋で構成する割り切りようである。でも見る側にとってはこれがすごく楽。
図録は購入した。巻頭に当美術館館長ミハイル・ピオトロフスキーのメッセージがこれも単純にして明快で、今回展を構成する3つの基軸を示し、さらには代表的な4人の画家を、「偉大なるティツィアーノは・・・、偉大なるルーベンスは・・・、偉大なるライト・オブ・ダービーは・・・、偉大なるマティスは・・・、」といった調子で各数行で紹介している。それに続く「時代の顔としての4点の名画」では上の4人の作品を当美術館各専門担当者がさらに掘り下げて解説している。会場ではいちばん丁重な座を用意されているかに見えたレンブラントとかはどうなの?、と日本人はとくに思うかもしれないが、このあたりは監修・千足伸行の戦略なのか、というか気が効いている。
それと軌を一にしているようにも思える、詳細きわまりない作品解説がじつに読みごたえがある。当美術館が作品を入手するまでのいきさつ、画家確定までの紆余曲折、他の美術館所蔵の関連作品への言及、画面に登場する人物(多くは26人に及ぶ)の紹介、等々。解読を教わるというよりそれぞれの絵のドキュメントを読む面白さはダントツ。でも一方ではきわめて詩的な描写で絵の魅力がちゃんと語られている。
美術館の外観や展示室の写真も豊富に入っている図録を見ているうちに思い出してきた。20年近く前、サンクトペテルブルグから遠からぬところにある古い木造教会視察のついでに寄ったのだ。その所蔵品のおびただしさと無造作とも思える展示の仕方におどろいたのだが、1917年の革命後に公開されたエカテリーナ2世の離宮は、それからずいぶん長い歳月が経ったのにもかかわらず美術館にも展示室にも変容することなく、依然として宮殿であり歴代皇帝の私・公室であり、そこで愛でられていた数々の美術品だった。このときの記憶が知らぬ間に梃子となって、今回の展覧会場に、所有した絵を見ることの深く空恐ろしいまでの悦楽を押し上げてきたのかもしれない。
(2012.6.23 うえだまこと)


サンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館の館内
撮影:植田実


「大エルミタージュ美術館展 世紀の顔・西欧絵画の400年」
会期:2012年4月25日(水)―7月16日(月)
会場:国立新美術館
会場を巡っているうちに、これまでにない、思いがけない気分に襲われた。
正直言って、このような大展覧会は自分が感想を書く余地などまったくなく、見るだけは見ておこうというていどで出掛けて行くことが多い。ヨーロッパやアメリカの有名美術館の所蔵品をまとめて借り出し、それでひとつの企画展とする。巡回展ができるような規模と正統的な構成で、そのなかに2、3の目玉作品が欠かせない。つまりはできるだけ日本未公開の実物を招聘して、一般の美術ファンにも広く西欧美術史を学んでもらうという企画が長年重ねられてきているが、かつて大学受験を機に東京に帰ってくるなり京橋のブリヂストン美術館にかけつけて、本物のドガやマネにやっと出会えて感きわまった1950年代はじめの頃に比べて、いま自分がいる場所と時代はなんて恵まれているんだろうと思う。
けれどもそこそこの美術好きにとっては恵まれすぎて猫に小判でもある。西欧美術史上スーパースターの絵はこころして見るが作品解説につい頼っているし、そのあいだを埋める同時代や同じジャンルの作品については画家の名前を覚えることさえ並大抵ではない。西欧美術史のはかり知れない広がりだけが迫る。とくに今回のはタイトルからして「大」が付き、「400年」がそれに輪をかけている。
ところが会場で16世紀の部屋から順に20世紀の部屋までたどっていくあいだ、「思いがけない気分」になったのは、そこに並べられているのがどれも建築空間、あるいは邸宅空間として見えてきたからだった。
共有認識へと向かう各時代の、新しい写実とスタイルを模索する画家たちの絵が自立した美術、というよりは、これらの絵を身近に置いて日々愉しんだにちがいない人々の生活空間がありありと想像されてくる。ならばそれらの多くは注文を受けて描かれたものでもあるにちがいない。受注生産となれば建築設計と同じである。なかにはもっと具体的に、わが家の食堂の、あるいは居間のこの壁に懸ける絵を、という注文もあっただろう。いったんそう思いはじめるとここにある絵のすべてに、私的あるいは半・私的な出自を色濃く感ぜずにはおれなくなってくる。となると俄然展覧会全体がおもしろく見えてきた。
今回に限ってなぜそういう気分になったのか、理由はよくわからない。たとえば18世紀の部屋の風俗画や貴婦人の肖像画はいかにも発注されたものだが、そういう絵はこれまでにいくらでもあった。逆にいえば今回は、19世紀のシスレーやモネ、20世紀のドランやマティスでさえ、作品そのものよりそれが飾られていた部屋を想像したくなるような気分があるのだ。作品の選択がよほど巧妙なのか、あるいは作品のわきに掲げられた解説がそれとなくその方向に誘導しているのか。
ジャン・ユベールの≪ヴォルテールの朝≫≪植樹するヴォルテール≫で意識が開かれたのかもしれない。題材が愉快だし、解説によると、ヴォルテールと親交のあったエカテリーナ2世がこの連作の完成をしびれを切らして待っていたという。まったく住宅の建て主みたいだ。
そのほかで私のイチオシは、ルイ=レオボール・ボワイーの≪ビリヤード≫(1807)である。不思議な絵で、34、5人がビリヤード台を囲んでいるが彼等の視線は徹底してテンデンバラバラ。肝心の球を突こうとしている人物は白いランジェリードレスの若い女で、しかも後ろ姿。その球が画面のほぼ中心にあるが、そこに視線を強く集中しているのは彼女の左隣のやはり同じ衣裳、同じ年頃の女くらいで、これも横顔しか見えない。あとの男や女は、見てはいてもすぐに視線を外してしまいそうだし、まるで無関係に赤ん坊に乳をやる女がいたり勝手に遊んでいる子どもたちがいたりで、中心性を絵の主題にしながらその中心は虚になっている。男たちの黒々とした服装のなかで白く輝くランジェリードレスはとびきりいかがわしい。とても現代的といえる絵なのだ。
会場はさきにちょっと触れたが、16世紀、17世紀、18世紀、19世紀、20世紀と、壁の色を変えた5つの部屋で構成する割り切りようである。でも見る側にとってはこれがすごく楽。
図録は購入した。巻頭に当美術館館長ミハイル・ピオトロフスキーのメッセージがこれも単純にして明快で、今回展を構成する3つの基軸を示し、さらには代表的な4人の画家を、「偉大なるティツィアーノは・・・、偉大なるルーベンスは・・・、偉大なるライト・オブ・ダービーは・・・、偉大なるマティスは・・・、」といった調子で各数行で紹介している。それに続く「時代の顔としての4点の名画」では上の4人の作品を当美術館各専門担当者がさらに掘り下げて解説している。会場ではいちばん丁重な座を用意されているかに見えたレンブラントとかはどうなの?、と日本人はとくに思うかもしれないが、このあたりは監修・千足伸行の戦略なのか、というか気が効いている。
それと軌を一にしているようにも思える、詳細きわまりない作品解説がじつに読みごたえがある。当美術館が作品を入手するまでのいきさつ、画家確定までの紆余曲折、他の美術館所蔵の関連作品への言及、画面に登場する人物(多くは26人に及ぶ)の紹介、等々。解読を教わるというよりそれぞれの絵のドキュメントを読む面白さはダントツ。でも一方ではきわめて詩的な描写で絵の魅力がちゃんと語られている。
美術館の外観や展示室の写真も豊富に入っている図録を見ているうちに思い出してきた。20年近く前、サンクトペテルブルグから遠からぬところにある古い木造教会視察のついでに寄ったのだ。その所蔵品のおびただしさと無造作とも思える展示の仕方におどろいたのだが、1917年の革命後に公開されたエカテリーナ2世の離宮は、それからずいぶん長い歳月が経ったのにもかかわらず美術館にも展示室にも変容することなく、依然として宮殿であり歴代皇帝の私・公室であり、そこで愛でられていた数々の美術品だった。このときの記憶が知らぬ間に梃子となって、今回の展覧会場に、所有した絵を見ることの深く空恐ろしいまでの悦楽を押し上げてきたのかもしれない。
(2012.6.23 うえだまこと)


サンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館の館内
撮影:植田実


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