<迷走写真館>一枚の写真に目を凝らす 第17回

DAgata1500
(c) Antoine d’Agata / Magnum Photos
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すっ裸の体をベッドに伏せている。ベッドの幅は狭く、布団が床にずり落ちている。

男性のようだが、気がかりなのはその人の左足である。右足のほうはベッドの端につま先が見えるが、手前の左足には足首から先がない。腿から膝、脛へとつづく部分が丸太かなにかのようにつるんとしている。右足のほうを手で隠して見ると、それがよりはっきりする。

視線をそこから左にずらすと腕がある。これもまた肘から先が通常の形とはちがう。腕よりも太いくらいに膨らみ、しかも手先が欠落し、左足と同様に全体が丸っこい。

男は何かの理由で左下半身に損傷を受けたのだ。

しかし、写真を見てすぐにはそのことに頭がいかなかった。
男が裸で寝ているということと、部屋が安宿ふうだ、という二つが浮かび、そこから、「明日の人生知れず」の日々に疲弊して投げやりになっている男の心境を想像した。その印象が強く、足と腕に気づくのがおくれたのである。

写真がボケていたことも関係しているだろう。像のはっきりしない写真では、細部よりは全体の印象で見てしまう。ゆえに欠損の事実が目に入るまでにタイムラグができる(もちろんそれは作者の意図したものだ。)

写真の周囲が黒く焼き込まれていることも何らかの影響を与えたにちがいない。寝ている人の部屋を鍵穴から覗き込んでいるのようなフレーミングである。盗み見ている不安から像が不鮮明になった、という連想も浮かんでくる。

相手に気づかれることなく一方的に視線を注ぐ「覗く」という行為は、対象と関係することを求めない。視線の先にあるのは、いくら見つめてもこの男についてなにひとつ知りえないという事実である。彼がだれなのか、何をしている人なのか、なぜ彼がこのような傷を負っているのか、明日はどんな日を送るのか、わかることはひとつもないまま見つづける、ということだ。

像のボケた、まわりが黒く焼き込まれたプリントによって、作者はあえてこの男を見る側から引き離そうとしているかのようだ。おなじ地平に立たすのではなく、ドアのむこう側にいる存在として示す。孤絶した状況は彼に安易な理解を与えることを遠ざけるが、まなざしを注ぐことにわずかな希望を見いだしているようでもある。

孤独なのはこの男だけではない。人はだれも孤独であり、そのひとつひとつの孤独のかたちは個別であり、比較はできない。ならば相手を理解するとはどういうことなのか。どのようにして分かり合い、受け入れることが可能なのか。理解と認識の本質について、鋭い問いを突きつけてくる。

大竹昭子(おおたけあきこ)

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●紹介作品データ:
アントワーヌ・ダカタ
「FRANCE. Marseille, 1999.」
1999年撮影

アントワーヌ・ダカタ Antoine d'Agata(1961-)
フランス人、1961年マルセイユ生まれ。1983年にフランスを離れ、10年間を海外で過ごす。1990年、ニューヨークのICPにて写真を学ぶ。フランスへ帰国後は、1998年に初めての写真集 “Mala Noche” が出版されるまで、写真活動から離れている時期があった。ギャルリー・ヴュが作品を取り扱う時期を経て2004年マグナムに参画、同年、東川賞を受賞し、初めての短編フィルム “Le Ventre du Monde” を監督し、2006年に東京で撮影した長編作品 “AKA ANA” へと繋がった。2005年以来定住所をもたず、世界中で活動している。展覧会も各国で開かれており、2006年、東京都写真美術館にて “Vortex” 展が、2008年には東京のラットホールにて “Situations” 展が開催された。写真集も多数出版している。最新の展覧会に、2012年ハーグの写真美術館、2013年パリのル・バルにて開催された “Anticorps” がある。

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●展覧会のお知らせ
渋谷区松濤にあるアツコバルーでアントワーヌ・ダガタ「抗体」展が開催されています。※本エッセイ掲載の作品は出品されておりません。

抗体_300

会期:2014年5月23日[金]~7月6日[日]〈会期を延長しました〉
会場:アツコバルー arts drinks talk
時間:水~土14:00~21:00
   日~月11:00~18:00
火曜休廊
500(with a drink)※19:00~ 1,500(with a drink)

彼の写真を最初に見たとき、この尋常でない力はただの「うまくできた」、でも「かっこいい」、でもない。はらわたから出てきたものだ、と直感した。なぜこんなにきつい画像ばかりが、と疑問に思う。リストカットされた手首、ドラッグで痩せ衰えた娼婦、リビア内戦、死体、独房、見るに耐えないものばかり。しかしそれが彼の生きている現実だ。と知って驚いた。ゆえに惹きつけられるのか? 究極の疎外に生きる人々は独りで生き延びる策を日々学ばないといけない。それが暴力でも、薬でも、売春でも、とにかく生きるということはそういうことだ。誰の助けも絶対こない、闇に追いつめられた彼らの命が光る。ファインダーのこちら側には、彼らと共に生き、絶望するダガタがいる。時にはカメラを相手に渡し、彼が被写体になる。
おまえは私で私はおまえ。あの時私とおまえが確かにそこにいた。
彼にとって写真というのはそういうことだ。
彼自身、フレンチコネクションの時代のマルセイユで少年時代にドラッグにはまり、極左政治組織に入りテロリストとして活動した過去がある。彼もドラッグで何度も死にそうになった。その度にカメラが彼を世界に戻してくれた。写真は彼にとって作品でも商品でもない。地獄に垂らされた唯一の命綱である。それでも生きている自分の命の証明であり、繁栄の陰には阻害された人々がいる、という自明の理の報告である。彼の世界は確かに特異。世界でも日本の写真家にもないものだ。マグナムに所属しながら彼はマグナム的な写真の世界に疑問をぶつけている。その礫は私たちにも投げられている。ぜひ見に来てショックを受けてほしい。ざわざわした気持ちになってほしい。彼の写真を見た後、人は何もなかったかのように生きていくことはできない。
彼はカメラがなければ死ぬだろう。そんな、緊急の表現は、言わばカメラのアールブリュット。
私たちの平和に伸びきった横面を張り倒す。
アツコバルーは3.11後の社会を生き抜くためにはアートが必要だ。と信じて2013年に開かれた。アントワーヌ・ダガタほどこの場所にあったアーチストはいない。と思う。彼は飾りもなく、前触れもなく、ただ濃密な生と死を掴みとって、ほれよ!と我々の顔に投げつける。これは冷たく君臨する社会秩序に対するテロ行為だ。(同展HPより転載)

◆大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。