今年前半の展覧会で亭主が最も感銘をうけたのが、東京オペラシティアートギャラリーの「舟越保武:長崎26殉教者 未発表デッサン」展です。
会期は今日までなので、もっと早くにご紹介すればよかったのですが、ブログの記事の予定がつまってしまい、最終日になってしまいました。
20140419舟越保武展 表
「舟越保武:長崎26殉教者 未発表デッサン」
会期:2014年4月19日[土]―6月29日[日]
会場:東京オペラシティアートギャラリー 3&4

今井兼次設計による長崎の日本二十六聖人記念聖堂 聖フィリッポ教会のために《長崎26殉教者記念像》を依頼された舟越先生は、磔刑による殉教という残虐な光景をどう彫刻作品にするか、たいへん悩まれ、試行錯誤されたと思います。
会場の一隅に「一馬と水仙」(一馬昇天 1949年)と題された美しく彩色されたドローイングが展示されています。戦後まもない頃、幼くして急死された長男(つまり桂さん、直木さんの兄)を描いたパステル画です。
一馬さんの死を契機にカトリックの洗礼を受け、その8年後の1958(昭和33)年《長崎26殉教者記念像》の制作に着手、「作家生命を賭け」て取り組み4年半を費やし、完成させます。
名称未設定 35

キリシタン26人の処刑は凄惨をきわめ、中央にペトロ・バプチスタ以下6人の外国人宣教師、その左右に10人ずつ日本人キリシタンが一列に磔刑にされて聖歌を唱えるなか、心臓を槍で突かれて絶命したといいます。
依頼者からの舟越先生への当初の注文はその26人が槍で突かれていく情景だったそうですが、舟越先生は地獄絵図のような光景を嫌い、26人が処刑時と同じ順序で、ほとんど同じ姿勢で並んで立つレリーフ像を構想し、デッサンを繰り返します。
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26人の容姿を伝える絵画資料等は一切なく、それぞれのイメージを、国籍、年齢、経歴等の記録、あるいは伝来するエピソードから想像して作り上げました。それは文字どおり、無からの創造と呼べる営為でしょう。
十字架の上から民衆にキリストの教えを説いたというパウロ三木は強い信念をもつ逞しい青年として描かれ、司祭が捕縛されたときに自分も捕らえるように願い出て、刑場で「自分の十字架はどこ」と尋ねたという最年少12歳のルドビコ茨木の面立ちにはあどけなさが漂います。また、喜びの涙を流し、讃美歌を歌いながら絶命したというフィリッポ・デ・ヘススの顔貌には安らぎと希望が感じられるでしょう。このように、残された記録などから個々の人物の性格や内面を捉え、それに応じた的確な造形がなされたことが残されたデッサンから窺われます。(同展のホームページより抜粋)


4枚の紙をつなぎ合わせた等身大のデッサン、繰り返し描かれる口をあけた殉教者たちの顔の表情。
静謐な中にも、見る者の心を激しく打つ展示です。
ぜひお出かけください。
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亭主は現代版画センター時代の1980年代に舟越保武先生の世田谷のアトリエにしばしば通い、リトグラフや銅版作品をエディションさせていただきました。
いくつかご紹介します。
funakoshi-y_01_wakaionna-a舟越保武
「若い女 A」
1984年 リトグラフ
51.0×39.0cm
Ed.170 サインあり

funakoshi-y_02_wakaionna-b舟越保武
「若い女 B」
1984年 リトグラフ
48.5×37.0cm
Ed.170 サインあり

funakoshi-y_03_st-crara-1984舟越保武
「聖クララ」
1984年 リトグラフ
51.0×42.0cm
Ed.170 サインあり

上掲のリトグラフ「若い女 A」「若い女 B」「聖クララ」の3点は虎ノ門にあったホテル「虎ノ門パストラル」の客室に飾るために盛岡第一画廊の上田さんと一緒にエディションした作品で、その経緯は2011年10月31日のブログに書きましたのでお読みください。
funakoshi-y_06_a-zyou舟越保武
「A嬢」
1982年
銅版(雁皮)
24.0×19.4cm
Ed.100 サインあり

funakoshi-y_07_wakaionna-kao舟越保武
「若い女の顔」
1982年
銅版
9.7×8.2cm(シートサイズ:36.7×29.8cm)
エンボスサインあり

funakoshi-y_10_syouzyo-kao舟越保武
「少女の顔」
1979年
ブロンズレリーフ
12.0cm(径)
美術館松欅堂開館記念作品

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1987年に脳梗塞で倒れ、右半身がご不自由になったのですが、リハビリに励み左手で創作を続けられました。
お亡くなりになったのは2002年2月5日、89歳でした。
この日は奇しくも26人の殉教した日でした(1597年2月5日=慶長元年12月5日)。
葬儀のときご子息のさんは、<家族はその日がどういう日なのか誰も気づかず、亡くなった後に2月5日が殉教の日だったことを知り感動するとともに粛然とした>と会葬者に語ったのでした。

50歳を過ぎるまで、舟越先生は売れない彫刻家でした。
新潮社の雑誌『』に長女の末盛千枝子さんが「父と母の娘」の連載を始め、貧しいながらも父母の愛情に包まれて過ごした少女時代をふりかえっています。
第3回となる六月号には、末盛さんが大学に入学した昭和35(1960)年のころのことが書かれ、父の保武先生が「ライフワークとも言える作品、長崎の『二十六聖人』の制作にかかっていた。いま考えると私の大学生活は、父のこの仕事の時期とほとんど重なっていたのだ。」とあります。
家計のやりくりは大変だったでしょう。

生前の舟越先生がご自分の略歴に必ず入れる項目がありました=1941年盛岡・川徳画廊にて松本竣介と二人展開催。
盛岡中学で同級だった竣介とは終生の友情を結びました。今その二人の常設展示室が岩手県立美術館にあり、さん、直木さんの二人の子息も彫刻家として活躍されています。

舟越保武
 1912年岩手県生まれ。39年東京美術学校卒業、新制作派協会創立に参加。独学で大理石の直彫り彫刻を始める。戦後カトリックの洗礼を受け、1958(昭和33)年[長崎二十六殉教者記念像]の制作に着手、4年半を費やし完成させ、1962年この作品によって第5回高村光太郎賞を受賞。以後、島原の乱の舞台・原城跡で着想を得た《原の城》やハンセン病患者の救済に命を捧げた《ダミアン神父》をはじめ、キリスト教信仰やキリシタンの受難をテーマにした数々の名作を制作。
67年東京芸術大学教授。大理石やブロンズによる具象彫刻で中原悌二郎賞、芸術選奨文部大臣賞受賞。87年脳硬塞で倒れ、車椅子による不自由な体をおして左手だけで制作を再開した。99年文化功労者。2002年永逝(享年89)。