難波田龍起「絵画への道(2)」
(1978年執筆)

さて、絵画の師のことで父に相談すると、父が勤務したM中学校でかつて図画の教師だった小林万吾とは知己の間柄であったから、私を連れてゆこうと心地よく引きうけてくれた。私は勇んで若干の作品を持参して出かけたが、この大家はまっさきに君は専門の画家になるか、好きで絵を描くのか、そのいずれかを決めなければ、絵の批評をするわけにはいかないと、頑に私の作品を見ようとはしなかった。そのあとでアトリエに案内されて、父には礼装した軍人の肖像画を、私には裸婦の描きたてのような油絵を見せてくれた。
高村光太郎はいつも野外用画架の上に作品をおいて批評してくれたのだが、いま私は小林万吾に接して、どう答えるべきかと考え込んでしまった。暫くして私は好きで絵を描きますと返事したように思うのだ。その記憶がさだかではない。しかし私は、光太郎訳の「ゴッホの回想」(ゴッホの妹が書いた本)を早大の図書館で読んだその印象が強烈に脳裡にあったのである。そこが画業に進むわかれ道であったのかもしれない。いまもって私は、職業画家としての意識が稀薄なような気がする。
またディレタンティズムの要素は、初心を忘れない作家には当然あるのだと思う。後に自由美術家協会が結成されて私も加わったのだが、日動画廊でたまたま会員展が催された折に、観客の一人が、なんだこれは素人の絵じゃないかと放言していた。それは無理もなかったのだろう。店内の壁面をびっしり埋めているアカディミックな人物画や風景画からすれば、われわれの作品は未完成に見え、素人くさかったにちがいない。したがって自由美術の作家達が一般に認識されたのは戦後のことである。
高村光太郎に小林万吾との出会いがうまくなかったことを話すと、もう一度小林万吾に会ってきた方がいいといわれた。しかし私の気が進まない様子を察したのであろうか、国画会の川島埋一郎を紹介するということだった。川島理一郎は長い滞欧生活で近代絵画の洗礼をうけてきたのだから、新しい油絵の技法も吸収できるにちがいないと思われた。そして川島理一郎の主宰する金曜会に出かけるようになった。ところが金曜会ではこまかい技術批評をうけるのではなく、皆にそれぞれの作品を批評させた後で、先生が締括りをするのだった。この自由な研究会は大変居心地がよく、毎回必ず作品を持って出席した。そこでやはり国画会に所属していた大淵武夫、山口薫、矢橋六郎等と知り合った。昭和四年には私も国画会に初入選した。さきに書いた太平洋洋画研究所の仲間と作った光玄会のグループは、中野辺に共同の画室を持つようになったので、そこに通って「中野風景」を描いたのである。国画会には昭和十年まで出品していた。その年に川島理一郎が国画会を離脱したので、暮には国画会に出品していた金曜会の有志とフォルム展を結成した。それは昭和九年に結成された新時代展に続くような、新しい絵画のエスプリを標榜したグループ展で、会場は同じく銀座の紀伊国屋画廊であった。
(つづく)

『版画センターニュース』(No.38)1978年5月1日号より
現代版画センター刊


nambata_15_hisyou難波田龍起
「飛翔」
1978年
エッチング・アクアチント
28.0×18.0cm
Ed.35
サインあり
※レゾネNo.94


nambata_18_tenkuu難波田龍起
「天空へ」
1978年
エッチング・アクアチント
28.0×18.0cm
Ed.35
サインあり
※レゾネNo.101

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

難波田龍起 Tatsuoki NAMBATA(1905-1997)
1905年北海道旭川生まれ。23年高村光太郎を知り生涯私淑する。27年早稲田大学中退。太平洋画会研究所、本郷絵画研究所に学ぶ。川島理一郎主宰の金曜会に入り、仲間と[フォルム]を結成。37年自由美術家協会の創立に参加。78年現代版画センターより銅版画集『街と人』『海辺の詩』を刊行。87年東京国立近代美術館で回顧展を開催。88年毎日芸術賞を受賞。96年文化功労者。97年永逝(享年92)。

◆故・難波田龍起のエッセイ「絵画への道」は毎月23日に再録掲載します。